雇用契約書?!
「あ、あの……。これが雇用契約書……ですか?」
私は雇用契約書風に見えるが、何度見ても内容が婚姻届けになっている書類を眺めてから、リオル様を見上げた。
リオル様はペンを私に握らせたまま、微笑を浮かべている。
……。
あれから程なくして、アランは私と離婚し、リリアナ様と再婚した。
リオル様は仕事の出来る方なのだろう、有能な弁護士が入り事はリオル様の目論み通りにすべて進んだ。
辺境伯はもう跡継ぎを産んでもらったからと、リリアナ様をあっさりと手放したし、不倫だ慰謝料だとゴネる事もなかった。
一方で私は、もしかしたらアランに引き留めてもらえるかもと淡い期待を元に離婚を切り出したのだが……アランは独身に戻った上に自分の子供を身籠もっているリリアナ様の方を、迷う事なくあっさりと選んだ。
そして義理の両親も……やはり孫は欲しかったのだろう。
私とアランが離婚する事に最初は反対していたが、アランの『次は自分が伯爵家をちゃんと背負うから』……という言葉に、最終的には私に出て行って欲しいと告げてきた。
もちろん、離婚に際して慰謝料などはいただいたが……この虚しさはお金で埋まるものではない。
でもまあ……リオル様に雇っていただける事になったし……忙しさにかまけていれば、胸の痛みも落ち着いてくるかも……なんて、思っていたのだが……。
……。
「クレア。ちゃんと文章を読んでからサインをするの、偉いと思いますよ?」
「ええ……契約は細かな約款まで読む事にしていますから。でないと伯爵の代理は務まりませんし……って、そういう話ではないです!……私、リオル様と結婚するのはさすがに難しいですよ。もともとの家格も低いですし、バツイチな上に、元夫の再婚相手のお兄さんです……。子供だって出来ないかも知れません。こんな結婚、リオル様の経歴に傷がついてしまいます!……その、使用人として雇っていただけたら充分なんです。」
「……ふむ。……では、なぜ結婚が必要かを説明しても?」
「説明……ですか?」
「はい。」
ニコリと笑ったリオル様は、そう言うと私の手を引いて机からソファーに座らせた。そしてリオル様は私の隣に座る。
なんか……ち、近い……。
「まず、クレアが問題にしている家格の低さですが……貴女は伯爵家に嫁いでいましたので、伯爵家の者だと言えなくもありません。」
「それは……違うと思いますが……?」
現在、離婚している訳ですし……。
家名も戻っている訳で……。
「ですが、伯爵家の執務をしていたという点を買っていますし……やっぱり身分的には問題ありませんよ。……それに、クレアがバツイチならば、私はこの年まで未婚だった売れ残りです。なかなかお似合いなのでは???」
「……。」
そうだろうか……?
リオル様は充分に素敵だし、まだまだ若いご令嬢を射止める事だって出来ると思う。
「それから、リリアナの事は勘当しました。なのでもう妹ではありませんし、この屋敷の敷居を跨ぐ事は一生ないでしょう。」
「えっ?!……か、勘当?!」
「辺境伯に嫁ぎ人妻であったのに他の男の子供を妊娠し、産もうとしていたのですよ……?いくら辺境伯が大らかな方で、リリアナとの離婚に簡単に応じたからと言って、我が家として何も処分をしない訳にはいきませんから……。まあ、私も妹には大概甘いので、ひと財産は持たせてやりましたが……。」
「そ、そうなんですか……。」
……。
まあ……勘当されたとはいえ、アランと結婚したし、財産も分与されているみたいだし、リリアナ様が路頭に迷う事はなさそうだから……良いのかな……?伯爵家はそこそこ裕福な家だし……。
「子供だって、組み合わせや環境が変われば、出来るかも知れないって、私は思います。そもそも、別に貴女は子供が出来ない体だと診断をされた訳ではないのでしょう?」
「そ、そうです……けど。」
「それに、私の方にだって問題があるかも知れないですよね?今まで独身でしたんで、証明のしようもありませんし。……つまりですね、子供ってのは、結局は天からの授かりものなんです。なるようにしかなりませんよ。……そういう訳ですんで、私たちの結婚に問題はありませんよね?」
「?!?!……い、いや、ありますよね?」
「では……クレアが私の仕事を助けてくれるという話は、どうなるんですか?」
「結婚しなくても、お力は貸せますよね?」
「……。伯爵家で執務をとられたら貴女ならお分かりになると思うのですが、いくら優秀な使用人が仕えてくれても、楽にならない仕事は非常に多いんです。何故なら彼らはあくまで使用人なので、我が家を背負った決定をさせる事も出来ませんし、私の代理として式典やら視察するのにも限界がある。また、高額な場合は決裁権もありません。……私が欲しいのは、私の代理が出来る方ですので……結婚していただかないと困ります。」
「そ、それは……。」
リオル様の話は下手に伯爵代理を務めていた私には良く分かってしまった。
アランの家には義父様、義母様、アランに私がいた。
難しい執務をするのは主に義父様と私だったけれど、義母様も少しは手伝ってくださっていたし、領地での視察や式典などへの出席なんかは義母様とアランがメインで動いてくれていたので、そこはだいぶ助かっていた。
式典や視察は時間がかかる上に、時間が読めない。
忙しい時期には、ものすごい負担になる。
しかも、家名を背負っての出席になるものは、絶対に使用人には頼めないのだ……。
「……。」
「……クレア、私……疲れているんですよ。忙しくて休む間もありません。それに、侯爵家の事や決定事項は簡単に他人には相談出来ませんから、いつも胃が痛い……。」
それも、分かる……分かりすぎます。
お義父様は立派な伯爵様だったが、厳しい決断を迫られると不安になるのだろう、私やお義母様に「これで大丈夫だよな?私の決断は間違ってないよな?どう思う?」と不安げに相談していた。
私も悩むとやはりお義父様たちに相談に乗ってもらってから決めていたっけ……。
だけど、こんな弱気な態度は使用人には決して見せられないものなのだ。上が決定に不安を見せたら、下のものは更に不安になってしまうのだから。
それを全て一人で背負っておられたリオル様を思うと、私は……。
「クレア……どうか私を……助けてくれませんか?とても、辛いんです。」
弱々しくそう言って縋る様に見つめられ、手を握られると、もう……振り解ける気はしなくて……。
……。
……。
「わ、わかりました!……私で良ければお引き受けいたします……。」
気が付くと、そう勝手に口は動いていた。
「!!!」
私の言葉にリオル様は嬉しそうにパーッと笑うと、そのまま私をギュッと抱き寄せてきた。
「ありがとう!!!大切にします!!!嬉しいです、クレア!!!」
「きゃっ!……リ、リオル様?!」
「私たち、結婚するんですよ?抱きしめるくらい構わないでしょう?」
「で、ですけど……?!」
男性に抱きしめられるなんて事自体が数年ぶりだ。
結婚していたというのに情けない限りではあるのだけれど、ドキドキして、どうして良いのか分からなくなってしまう。
「……イ、イヤですか?」
「イヤというか……恥ずかしいんです。こういう事……久しぶりだし、慣れていないんで……。」
「……。わ、私もですよ。だから、こう見えて拒否されたらどうしようかとドキドキしています。」
リオル様が真面目な顔でそう言ったので、私はなんだか可笑しくなってしまってた。
「笑わないで下さい。これでもいっぱいいっぱいなんですよ?信じてくれてないみたいですが、私は本当に貴女の事がずっと好きでした。……今の私は、嬉しくて死にそうなんです……!」
「……信じ……ますよ。」
リオル様の胸に抱かれて、その異様に早い鼓動を聞けば……その言葉に嘘がない事は分かった。
「いつかでもかまいません……私を好きになってくれたら、嬉しいです。」
頭上でそう呟いたリオル様の言葉に……私は小さく頷いた。
だってそんな日は、なんだか直ぐにやってきそうだから……。