代がわり
シャラエーグは重みをまったく感じさせないあしどりで、階段を降りてきた。背後に妖精がふたり、控えているが、手をかすことはない。
シャラエーグはふわふわと、頼りない歩きで、アーヴァンナッハとメイノエの前まで来た。
「愛しい乙女よ」
シャラエーグの声に感情はない。メイノエは深くお辞儀をした。シャラエーグはアーヴァンナッハを見る。アーヴァンナッハはその顔を正視して、後悔した。
すぐに目を逸らし、記憶に蓋をする。シャラエーグの顔は、上手に認識できず、そしておそろしいものだった。なにか、見てはいけないものだった。
「夢見る者。僕は、君を傷付けなくてはならない」
その声にも感情はない。
シャラエーグはゆらゆらと、ふわふわと、歩いていく。妖精達は先まわりして、つたのカーテンを左右に押し開く。シャラエーグがそれをくぐった。
アーヴァンナッハと、メイノエも、続く。平然としているティノーヴァと、あおくなったフィルラムもだ。シャラエーグと魂が近いというティノーヴァは、あまり影響をうけないのだろう。
シャラエーグは泉の傍に佇んでいた。
ティノーヴァはそれを直視している。おそれた様子はない。ティノーヴァのほうが、魂が近いのだ。
そう気付いた時アーヴァンナッハの背は冷えた。
ティノーヴァの目をとらせる訳にはいかない。
「この日を悼もう」
シャラエーグはやはり、感情を見せない。
「アーヴァンナッハの目を損なった日だ。僕はこの日を忘れない。ひとつ前のサキュルも、その前のヴァウルグルも、そのふたつ前のカナラも、その……」
シャラエーグは息を吐いた。アーヴァンナッハの視野がぐにゃりと歪む。すぐに戻る。
「きりがない。僕の感傷に付き合わせて、悪かったね」
シャラエーグはこちらを振り返る。アーヴァンナッハもメイノエも、目を伏せる。フィルラムはうずくまり、ティノーヴァは動かない。
「アーヴァンナッハ、僕は君を忘れない」
シャラエーグのあしに花環はない。服を着たまま、シャラエーグは泉へはいった。
アーヴァンナッハとメイノエは、手を軽く合わせたまま、ゆっくりとそれに近付いていった。
なにかが体にまといついてくるようで、アーヴァンナッハのあしはなかなかすすまない。
「アーヴ」
背後からティノーヴァの声がする。「なにもおそれなくていい」
アーヴァンナッハはメイノエを見た。泣きそうな、いもうとを。
メイノエは微笑んだ。
アーヴァンナッハのあしは順調に草を踏む。
フィルラムの声がする。歌っている。なんと歌っているのかは、解らない。古い言葉で、意味は伝わっていない。妖精達も知らない。
知っているのはシャラエーグだけだ。
シャラエーグは、微笑んでいるようだった。アーヴァンナッハはそれを正視しなかった。できなかった。
ティノーヴァの声が、フィルラムの声に重なる。こんな時でなかったら、アーヴァンナッハはその歌声に酔いしれていただろう。これでいいのかもしれない。光を失っても、音を聴くことはできる。ティノーヴァが歌ってくれるなら、わたしはなにも見えなくても、心安らかに居られる。
ティノーヴァと、メイノエと、フィルラムが居れば。
メイノエは泣いていた。泣いているけれど、微笑んでいる。
これは正しいことだ。
アーヴァンナッハは手を伸ばす。メイノエもだ。ふたりはそっと、こちらを向いたシャラエーグの、痩せた体に触れた。アーヴァンナッハは肩に、メイノエは腕に。憐れなくらい痩せた体に。
シャラエーグが口を動かしている。「ありがとう」
その声は、今までのどれよりもかすかだった。
「ほんとうに、ごめんよ、アーヴァンナッハ」
なにかが来る。
アーヴァンナッハはかたまっている。おそろしくて動けない。
なにかが来る。力が。力の塊が。
それは俯くアーヴァンナッハの、腕から、シャラエーグに触れた左手から伝わってくる。
こちらへ吹いてくる強い風に向かって、必死で歩いているような心地がした。
それはアーヴァンナッハの肩を伝い、首を撫で、顔に到達した。まるで迷うように、右頬と左頬を撫でる。
それは右を選んだ。
右目を選んだ。
右目に触れた。
強い光を見た時のように、視野がまっしろになった。
アーヴァンナッハの足許へと力は抜け、花環が弾けた。ティノーヴァと揃いの花環が。
メイノエが泣いている。
「おにいさま」
アーヴァンナッハはいもうととつながっていた手を、顔へあてる。これを見せてはいけない。いもうとが動揺する。
右の眼窩から、血が滴っている。
支えを失ってアーヴァンナッハは膝をついた。
メイノエが座りこんで、アーヴァンナッハに覆い被さるようにする。フィルラムが走っていく音がする。「代がわりは成功したわ! 誰かわたし達の鞄を!」
アーヴァンナッハは顔を上げた。
泉のなかには誰も居ない。
霧が風に吹かれて消え、眩しい月明かりがアーヴァンナッハの左目をさした。




