集落 2
ティノーヴァは洟をすすり、袖口で鼻のあたりを拭った。結局、天幕は張るだけ意味がなかったな、と思った。アーヴァンナッハが昏倒し、周囲に居た人間が大慌てでベッドへ運んだからだ。
アーヴァンナッハは、相当酒に弱い。あの時、かまどには、酒のはいった大鍋がかかっていた。片方風邪気味だし、自慢の酒をあたためて、客人へ振る舞おう、という心尽くしだったのだが、アーヴァンナッハには裏目に出た。彼は今ベッドの上で、うんうんうなされている。
場所もよくなかったのだ。酒場のような、常にひとが出入りしていて空気がいれかわるところなら、酒を少々あたためたくらいなにもない。だが、あの部屋はせまかった上に、窓でも扉でもしめきっていた。アーヴァンナッハには刺激が強すぎた。
「悪いことをしちゃった」
「オークメイビッド人は酒を嫌うって聴いてたが、これじゃあ嫌いにもならあな」
「同感だ」
アーヴァンナッハを運んだ三人が、低声で喋っている。ティノーヴァは洟をすする。「アーヴはゴブレットいっぱいの酒でぶっ倒れて、次の日もずっと、頭が痛いみたいだった」
「そんなに弱いのか」
「どうしたらいいんだろう。こんなふうになるひと、見たことないから、解らないよ」
困り切った様子だ。ティノーヴァは、放っておけばなんとかなると説明した。それから、自分が見ているから、と、三人を追い出す。
アーヴァンナッハはまた、悪夢にうなされている。ティノーヴァはベッドのすみにちょこんと腰掛け、アーヴァンナッハの肩を軽く叩く。これでも、目が覚めたら、たいした悪夢ではなかったというのだから、普段はどれだけうなされるのかと心配になる。
結局、アーヴァンナッハは目を覚まさないし、ティノーヴァも風邪気味で外はつらかろうと、その家に泊めてもらうことになった。鼻が詰まって横になれないといって、椅子をひとつ借り、アーヴァンナッハのベッドの隣に置いた。心配はないと思うのだが、酒をすごして倒れて死んだ人間の話を思い出して、急にこわくなった。アーヴァンナッハを見張っていることにする。
しかし、やはり寝てしまった。悲鳴で目が覚める。
アーヴァンナッハが飛び起きて、ベッドから転がり落ちた。這いつくばって唸っている。ティノーヴァは誰かがかけてくれたらしい毛布を捨てて、廊下へ出た。「なんだ?」
「解らん!」
家の主人が、寝間着姿で出てきた。「広場だ」
ティノーヴァは頷いて、部屋へ戻った。方向からして、窓から出たほうがはやいと判断した。
その判断をティノーヴァは神に感謝した。今まで欠片も信じていなかった神に。アーヴァンナッハが髪を掴まれ、窓のほうへと引き摺られていくところだったからだ。
「アーヴァンナッハ!!」
アーヴァンナッハが反応した。後生大事に持ち運んでいる傘を、ベッドに立てかけていた傘を彼はとり、ぶんぶんと振りまわす。
白っぽい手がはなれ、なにも見えなくなった。さっきは閉じていた窓がぱたぱたと風に揺れている。ティノーヴァは息を整える。べたついた気持ちの悪い汗が、全身にふきだしていた。今、自分は、友人を失いかけたのだ。またしても、老いではなく、なにかしらの外的要因に拠って。
アーヴァンナッハはベッドに縋って、立ち上がる。「頭が痛い」
「ああ」
ティノーヴァは涙声になっている。だが、それをはじとは思わなかった。友人が危ない目にあったのに、平然としている人間は居ない。「あんなに髪をひっぱられればな。血は出てないか? 治癒魔法をつかえるやつを、さがそう」
アーヴァンナッハは、傘を両手で握りしめていた。
「違う。酒の所為だ。あれは人間ののむものじゃない」
頭痛で機嫌の悪いアーヴァンナッハと、動揺が去らないティノーヴァは、廊下へ出た。素直に玄関を通って外へ出る。大人が数人、亡霊のように悪い顔色で突っ立っていた。「なにがあった?」
「ああ、あんたら……すまん、天幕をだめにした」
ティノーヴァはきょとんとした。しれから、天幕をすでに張っていたことを思い出す。
アーヴァンナッハが唸る。「どういう意味だ」
「子どもがいたずらをしたらしい。訳の解らんことをいってるが」
ふたりは目をあわせ、広場へ向かった。
広場には、代表の女性と、壮年の男性がふたり、灯をもって立っている。その視線の先には、天幕があった。布は破れ、骨組みは倒れている。三人はあしおとで気付いたか、こちらを見た。それから軽く頭を下げる。
「ごめんなさい、子どもが、天幕にはいりこんで、寝ていたみたいで」
「いや、いい。怪我はなかったか」
アーヴァンナッハがいう。女性は頷いた。「ただ、あの……悪い夢を見たみたい。本当にごめんなさいね」
「夢なのか?」
男性のひとりが、低声でいう。天幕を示す。「あの子らの力で、これだけのことができるか? 本当に来たんじゃないのか、シオル」
「やめて。夢よ。さあ、みんな、もう帰って。ごめんなさい、これは弁償します。かわりになるものがないか、今からさがすわ」
女性はぴしゃりといって、あしばやにさっていった。壮年男性ふたりも、もごもごとお休みをいっていなくなる。
アーヴァンナッハが唸った。「誰に訊く?」
ふたりはろくに相談もせず、壮年男性の片方を追った。さっきなにかいおうとしていたほうだ。
集落はそうひろくないので、すぐに追いつく。男性は、厩担当のようで、厩のすぐ傍にある家に這入ろうとしていた。ティノーヴァがぱっとその前におどりでる。男性はびくっとして、たちどまる。
「どうも」
「あ……な、なんだい」
「シオルってなんだ」
ティノーヴァは、下手な小細工はしないほうがいいと判断して、そう訊いた。男性は半笑いで、ティノーヴァとアーヴァンナッハを見、アーヴァンナッハの目付きに震える。傍目に解る震えかたで、ティノーヴァは笑いそうになった。
シオルア。なんのことはない。この辺りに出るらしい、妖精だ。
子どもを食べるとか、赤ん坊をつれさるとか、物騒な性質だと伝わっている。めずらしいものやがらくたが好きで、ごみをあさっていくこともある。酒に興味はないが、酒造りは好きで、醸造しているとうろちょろしている。
子どもには物騒な妖精だが、一応この辺りの妖精をとりまとめる存在で、シオルアに礼を尽くせば道に迷わないともいう。
子どもを要求されないように、子どもの形に焼いたパンを森へ置いてくる祭りがあり、これまでシオルアはそれで納得していたそうだ。パンには、グリュシュタックで目鼻をかたどって。
だが男性はぶるっと震えた。
「シオルアはパンに騙されなくなったのかもしれない。賢いやつだからな。いや、今までも騙されてなかったんだよ。三百年前にも子どもが……きっとそうだ……」
「なあ、あんた」
ティノーヴァは恐怖で思考停止に陥っている男性に、静かに問いかけた。「あんたはそのシオルアを、直に見たことが?」
「俺はない」
含みのあるいいかただ。アーヴァンナッハが不機嫌げにいう。
「では、誰が見た?」
「誰でもだ。酒をつくっていると傍に居るのを感じる。酷いと見える。それに喋りかけられた者もある。アルダムのばあさまだ。それと俺の死んだ母さんも、ばあさんも。シオルアは森のなかに居て、酒造りの上手な女にいいよる。無視しておけばなんでもないが、相手をしたら連れ去られちまう。女と子どもをつくって、その子どもを……」
男性がある仕種をした。オークメイビッドでも意味は同じらしい、アーヴァンナッハが唸ったから。




