〈厄除けの蝶〉
「間違いないな」
「ああ」
まだひらひらと舞う〈厄除けの蝶〉を見ながら、アーヴァンナッハは干しヴァイデの実を食べていた。浮腫はとれたようだ。義妹も、こちらで同じ苦労をしただろうか。
ティノーヴァは平然としていた。ひと晩眠らなかったとは思えない。それにしても、昨夜は安心していた気がする。悪い夢も見なかった。ティノーヴァが近くに居たからだ。
どうしてだか、アーヴァンナッハは生まれてこのかた、悪夢ばかり見ている。程度の差はあれど、すべて悪夢だ。だが、軽い悪夢ならいい夢だと思うことにしている。
治癒師は、それはアーヴァンナッハの立場の重さが原因だという。一応、アーヴァンナッハは王位を継ぐ立場にある。ほかに適任が居ないからだ。だから、その重圧で、悪い夢を見るという見立てだ。
だが、それは違う。幼い頃、玉座につく可能性なんてひとつも考えていなかった頃から、アーヴァンナッハの見る夢は悪夢だけなのだ。
昨夜は夢を見なかった。眠れば悪夢がはじまるアーヴァンナッハにしてみれば、夢がないのは不思議な感覚である。
〈厄除けの蝶〉がぽとりと落ちたのは、日がのぼって暫くたってからだった。つまり、本来これだけの時間、もつものなのだ。
ティノーヴァは苦々しげに〈厄除けの蝶〉を拾った。すぐに出発し、数時間いったところにある川に、ティノーヴァは〈厄除けの蝶〉を捨てた。
「誰だと思う」
「見当つかぬ」
アーヴァンナッハは頭を振る。〈厄除けの蝶〉は、必要以上に触れると効力を失う。込められている魔法力と、触れた人間の魔法力が反発して、〈厄除けの蝶〉のなかに溜まった分が一気に減るのだ。だから、〈厄除けの蝶〉は布に包まれて売られていて、買う時には、飛ばす時にだけ直に触るようにと、かならず念押しされる。
だが、〈厄除けの蝶〉はそれほど激しい動きをするものではない。だから、捕まえるのは容易だ。暫く握りしめていれば、効力はなくなる。
これは魔物の仕業ではない、というのだけは、はっきりしている。魔物はこんなことをしない。したくてもできないだろう。〈厄除けの蝶〉には、魔を除ける力が備わっているのだ。魔物なら近寄れない。
だったら誰だ、という疑問には、ふたりとも答えられない。
「トナンラックの人間」
「ないな。解っていていっているのだろう? いくらなんでも、そこまで愚かではないさ」
「一応だよ。それじゃあ、魔法学校は? フィル……義姉さん達が勝手に失踪しただけで、自分達は関係ないっていう為に、俺達に調べられたくない」
「それなら、そもそもわたしに〈手紙の本〉の写しなぞ見せまい」
「それもそうか。それじゃあ、カイザナーグとかティアッハメイブ……は、ここまで気楽に来られないな。それに、俺達を狙い撃ちする意味が解らない」
アーヴァンナッハは頷く。
先程、冒険者達と行き会い、会話と物々交換をしたところだ。冒険者達に、〈厄除けの蝶〉の効果がうすくなっていないか尋ねたが、そんなことはないし、話も聴かないといっていた。
ティノーヴァは唸る。
「義姉さん達は、あんまリ疑問に思ってなかったよな」
「自分達でつくっていたのではないか? だから、単に失敗したと思い込んだ」
「ああ、成程な」
それくらいしか納得できる解釈はない。
その晩は、交互に寝た。やはり、天幕は張らずにだ。馬たちは忠実で、座り込み、ふたりが寄りかかれるようにしてくれた。ふたりは毛布にくるまって馬に寄りかかり、〈厄除けの蝶〉が舞うのを見ていた。先に寝たのはアーヴァンナッハで、目を覚ますと、少しふとった月が出ていた。
「そろそろ満月だな」
「ああ」
「満月の時には魔法力が弱まるっていうだろう。それもあるのかもな」
「ものに込められた魔法力は、月の影響をうけない」
「そうなのか」
ティノーヴァはそういって、アーヴァンナッハに寄りかかった。「なあ、なにか話してくれ」
「なにか?」
「眠くなるようなこと」
アーヴァンナッハは、自分が悪夢しかみないのだということを話した。今から眠る人間にする話ではなかったなと途中で思ったけれど、ティノーヴァはすやすやと眠った。アーヴァンナッハは先程までみていた悪夢を反芻する。それはやはり、たいしたものではなかった。
義妹は、どうしているだろう。月がふとればひとの魔法力は弱くなる。あの子は無事か? 怪我をしたら、治癒できないかもしれない。
無事でいてほしかった。自分の満足の為に。義妹に、謝りたいから。
御者の話は本当だった。魔物の数は少ない。リウブからグルバーツェへ向かっている頃には難儀させられたが、こちら方面にはほとんどあらわれない。まるで、ラツガイッシュの東側には、魔物が住んでいないみたいだ。
アーヴァンナッハは髪をといていた。願掛けだ。義妹の無事を見届けるまで、髪は結わない。
〈厄除けの蝶〉はまだ舞っていて、ティノーヴァが火をおこして〈魔法茶〉をいれた。お茶をいれるのと違って、粉末をお湯で引き延ばしている。ふたりはそれを飲んで、出発した。
「なあ、昨夜寝る寸前に思い出したんだ。オークメイビッドにも、月と妖精の話はあるのか?」
「月と妖精……シャラエーグの話か?」
「ああ」
ティノーヴァは朗々たる声を出す。「三度の満月、三度欠ければ、羽が落つ。三度の新月、三度ふとれば、光を失う」
まるで吟遊詩人のような声だ。義姉同様、ティノーヴァもいい咽をしている。実のきょうだいでもないのによく似るものだ。
「その夢を見たよ。あれには夢を見る若者と、シャラエーグと結ばれる乙女が出てくる。あんたは乙女だった」
うかない顔のアーヴァンナッハを笑わせようとしてくれているらしい。その心遣いが嬉しくて、アーヴァンナッハは微笑んだ。
兄弟国というのは、やはり本当なのだろう。シャラエーグの物語は、ほぼ同じ形で、オークメイビッドとラツガイッシュに伝わっている。ティノーヴァに拠れば、荷運び人足をしていたリウブ人は、その話を知らなくて笑い者になっていたそうだ。
シャラエーグは、妖精の名前だ。
大概は、銀の髪に金色のかがやく瞳、内側から光っているような白い肌をしている、と伝わる。目はふたつだが、瞳は左目にみっつ、右目によっつある。昼は鷲の羽をもち、夜はふくろうの羽をもつ。おおかたの女性を虜にするような美男子だ。
シャラエーグはある時、ひとりの乙女に心奪われる。泉の傍で歌っていた乙女だ。シャラエーグは乙女と結ばれるが、自身の命があとわずかであると気付き、乙女を置いて姿を消す。
乙女はシャラエーグに捨てられたと思い、泣き暮らす。そこへ、ひとりの若者がやってきて、不思議な夢の話をする。まるで月のように美しい妖精が、三度月が巡る間に、羽を失い、かがやきを失い、乙女への愛を歌いながら死んでいくという夢だ。
乙女は、シャラエーグが居なくなってから、すでに二度、満月が訪れていると気付く。
乙女は夢を見る若者と協力して、シャラエーグを見付け出す。シャラエーグは死に瀕していた。シャラエーグは若者に乙女を託し、乙女はシャラエーグを看取る。霧に消えたシャラエーグを弔ったふたりは、三年の喪に服した後、結婚して旅に出る。シャラエーグの物語をひろめる為に。
「妖精も死ぬのかな」
「死ぬ話は、シャラエーグだけだな」
「なあ。ゼルドだって、いたずら好きのルルッファ達だって、死なないぜ。常世の国に住んでるからな」
〈厄除けの蝶〉の包みを開いた。アーヴァンナッハは、慎重に〈厄除けの蝶〉をつまみあげ、飛ばす。
〈厄除けの蝶〉は舞い上がり、ひらひらとはばたきはじめた。「シャラエーグはなんの妖精なんだろう」
「魔法の妖精だろう?」
「なんの魔法だ? 治癒か? それとも攻撃か?」
「さあ。だが、月がみちると弱るというのは、魔法力に関わりがある証左だろう」
ティノーヴァはチーズを器用に切りながら、二度頷いた。
「そうか。なあ、〈厄除けの蝶〉は、妖精にはきかないんじゃないか? あいつらは魔のものじゃない」




