2.She had it all along.
空から降る光が、ぼんやりと彼女の姿を照らす。浮き上がらせるシルエット。目が慣れて徐々に輪郭が鮮明に映る。あの日と同じようにストールを首に巻き、あの日と変わらない真っ黒な髪と瞳。
だけど、あの日とは違う。彼女の制服は半袖の夏服に、俺の服装もまた、制服。それだけ、月日が経過したのだ。
「遅かったわね」
背の低い柵に腰かけながら、口を開く。
「まったく晴人君てば、女の子を待たせるのはよくないわよ?」
その口調は、部室で会話しているかのように、いつもと変わらない。
まるで、退部したことや、何日も会っていなかったことがなかったことみたいに。
「驚いたわ。まさか晴人君から天体観測のお誘いがくるなんて」
「あの」
「てっきり私のことなんてすっかり忘れたんだと思ってたわ」
「部長」
「新しい天文部はどう? 星宮さんと二人だけなんだし、楽しいんじゃないかしら――」
「聞いてください」
一歩、近づきながら、言う。
「俺の話を、聞いてください」
もう一度。今度はしっかりと届けるように。
「……」
彼女は無言のまま、柵から身体を離してこちらを向く。黒い瞳から送られる視線は、宵闇に紛れることなく俺の眼球に飛び込んでくる。
さあ、君の話したいことを聞かせて、と。
語りかけてくる。
「……ずっと、考えてました」
言葉と同時に、夜風が止んだ。世界から音が消える。
「部長のことを。部長と過ごした日々のことを」
同じ天文部員として。『諦め屋』で依頼を受ける者として。
『約束』をした相手として。
「戻ってきてくれませんか。天文部に」
多くの時間をかけて気づいたこと。
たった一言に過ぎない言葉だけど。
これだけでいい。これだけなんだ。
「……どうして?」
少しの静寂を経て返ってきたのは、抑揚のない声。
「どうして晴人君はそう思うの? だって今の天文部は、晴人君と星宮さんのふたりでも活動ができるじゃない。それも、ちゃんとした本来の活動が」
だったら、私は戻らない方がいいんじゃないのかしら。
「それに」
俺の言葉を待つ前に、彼女は続ける。
「戻ってきてほしいって、晴人君が望むのなら……『約束』はどうなるのかしら?」
『約束』。勝った方が天文部を好きなように使う。
「私が戻るってことは、晴人君が望む天文部の活動を邪魔することになるわよ? それとも」
小さく、彼女は首を傾げて、
「晴人君は、私の言っていたことを認める、ということかしら?」
私の言っていたこと。思い起こされるのは春の日の会話。
『諦めないと、私たちは生きていけないのよ』
彼女の信条。生きることと、諦めることは同義だと。そして、あの時俺はそれを否定した。その結果、俺たちは天文部を賭けて『約束』をした。
今、あらためて彼女は問うている。自分と一緒にいるということを望むのであれば、それを――諦めることを受け入れることだ、と。
「正直に言って……まだ、よくわかりません」
たしかに『諦め屋』では、何人もの人が諦めるところを見てきた。その結果笑顔を取り戻した人だっていた。
一方で、諦めない方がいいという思いも、俺の中にはある。諦めようとしていたけれど、諦めずに自分の気持ちと向き合った人も、たしかにいたのだ。
だけどそれを、部長に今までと同じように主張することもできないと思っている。
『あの子には、弟がいたの』
――あんな話を、聞いてしまったから。
「そう」
部長は短く言って、
「だったら」
「でも、たしかに言えることが、ひとつだけあります」
わからないことだらけの俺でも、自信をもって言えること。
「……なにかしら?」
訊き返してくるその声を引き金に、俺は大きく、息を吸い込む。冷たい空気が、身体中に広がる。
そして、空気を空に向かって吐き出すのと同時、
「俺が部長のことを、好きだってことです」
言った。
瞬間、夜よりも黒い瞳が、開かれる。それを、俺はじっと見つめて、
「あなたのことが、好きです」
重ねるように、もう一度。
「だから、部長には天文部に戻ってきてほしいんです」
わずかに震える身体は、寒さのせいではない。異様に渇く口の中は、暑いからじゃない。これは、俺の想いを外に出した証。
自分の気持ちを伝えるって、こんなにも怖くて、勇気がいることだったんだな。
この場を離れたくなるような不安が押し寄せる。思わず逃げ出したくなるような怖さを受け止めて、告白をしていたんだ。高座も、夕月も。容易ではない覚悟を胸に抱いたうえで、想いを伝えていたのだ。
そしてそれは、間違いなく相手に届いていた。結果はどうあれ、相手の心に刺さった。
俺の場合は……どうだろうか。
届く、だろうか。
祈りながら、前を向く。目を閉じたい気持ちに駆られながらも必死に我慢して、想いを伝えた相手を――一つ年上の女の子を見る。
少しだけ驚いたような顔。その表情が、変わる。緊張の一瞬。
すると、
「――――」
笑った。
笑ったのだ。
そして、こう言った。
「待っていたわ。君のその言葉を」




