6.Art under the tree
俺と部長の目に映り込んできたのは、大きな桜の木と――その木陰に腰を下ろしている女の子。
三角座りをした膝の上にはスケッチブックが開かれていて、鉛筆を持つ彼女の視線はスケッチブックの中に注がれている。
遠目で顔まではっきりわからないが、二年生を示す緑のリボンが見える。おそらく彼女が、天川渚先輩。高座ともう一人の、美術部員だ。いや「だった」と言うのが正しいか。
「……」
声をかければいい。そう思うのに、俺は後ろから引っ張られているみたいに身動きが取れなかった。近づくことさえ、躊躇された。
彼女と、彼女がいる背景が、まるで一枚の絵画のようだったからだ。芸術作品に軽々しく触れることは許されない。そんな禁忌に触れるような厳かな空気が、そこにはあった。
「あなたが天川さんかしら?」
しかし、部長にとってはそうでないらしく、ずかずかと絵画の中に入り込み、声をかけた。この人には芸術作品に対する謙虚さとか諸々の感情はないのか。
部長の一声で絵画の世界は崩壊したので、俺も天川先輩のもとへと近づく。
「……そうだけど、あなたたちは?」
スケッチブックから移された視線。瑠璃色の瞳には、疑念の光が内包されている。明らかに嫌そうな顔してる。天川先輩にとって、ここは人と会う場所ではないことが一発でわかった。
部長はなんて答えるんだろう。
依頼内容は、他言無用。部長が自分で決めただけのルールだけど、自ら破るようなことは、たぶんしない。なんとなく、そう思う。
「実は、あなたにアドバイスをもらいたくて」
「……アドバイス?」
「あなたがいる美術部、部員が二人だけなんですって? 私たちは天文部なんだけど、同じように部員が二人だけなの。それで、部員が少ない部同士、部活動をやっていくうえでどうすればいいのか話したいなと思って」
なるほど、その方向から攻めるのか。これなら嘘はついていないし、自然と部活動の話題に入っていける。意外とこの人も考えてるんだな。
……が。
「それ、私が答える必要ある?」
訝しい表情は変わらず、天川先輩は言った。
「天文部って言ったわよね。聞いた話じゃ、天文部ってロクに活動してないらしいじゃない。そんな相手にいちいち答える義理はないと思うんだけど」
ぐさぐさぐさ。バラを握ったみたいに棘が刺さりまくった。おっしゃるとおりだ。というかもっと言ってやってくれないか。
「放課後なにしてるのかは知らないけど、どうせブラブラして遊んでるんでしょ。私に聞く前にまずは真面目に活動したらどうかしら」
正論をまくしたてる天川先輩。しかし部長はまったく動じず、微笑みを崩さない。
「……はあ」
わざとらしい大きなため息をついた天川先輩は、勢いよくスケッチブックを閉じる。邪魔が入ったせいで興が削がれたという主張が全面に押し出された仕草だった。
立ち上がると、肩甲骨あたりまで伸びた黒髪がふわりと揺れる。座っていたのでわからなかったが、天川先輩は思ったよりも小柄だった。
そして俺たちには目もくれず、草むらの方へと歩き出した。
「あら、スケッチはもういいの?」
「あなたたちが来なければまだ続けてたわ」
「それは悪いことをしたわね、ごめんなさい」
あんまり謝罪の気持ちがこもっていない部長のセリフにいらついたのか、天川先輩は睨むように顔を半分だけ向けてくる。それから「はあ」とまた大きなため息をついて、
「ひとつ言っておくけど」
「なにかしら?」
「私にはそういう質問、してこないでくれる? 私もう美術部を辞めてるから」
そう吐き捨てて、去っていく。ただでさえ小さな彼女の背中が、みるみるうちに小さくなっていった。
夏の訪れを感じさせる湿度と温度をのせた風が、残った俺と部長の間を抜けていく。
「……もしかして、嫌われちゃったかしら?」
「あれで好かれる方がおかしいと思います」
小首を傾げる部長に、俺は正直な感想を告げた。