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30 母の名は。

 飛び出してきた女性は、了承も得ずにサリーの手を取る。


「サリックス、仲直りしましょう?お母さんはあなたを嫌ってなどいないわ、ただちょっと気まずかっただけなの」


 サリーは呆気に取られた。そして軽蔑の目を向けた。

 僕を憎み突き放し、しかし僕への風評が好転した途端掌を返し、しかし僕が敗軍の将となった途端再び見放した、血が繋がっているだけの赤の他人。サリーはそう理解していた。

 また僕への評価が好転した途端に、その薄っぺらい虚栄心で取り入ろうというのか!

 周囲はこの女の焦った様子にざわついている。


「……離してください」

「お母さんね、あなたが連れていかれた後もずっとあなたの事心配してたの!心配で、夜も眠れなかったのよ!私達の家に戻りましょう、ずっと大事にしてあげるから!」


 よくもまあそう恥ずかしげもなく嘘偽りを並び立てられるものだ。お前は僕が負けて帰ってきた途端ゴミを見るような目で絶縁し、人質として出立する時は清々したとまで言っていたじゃないか!

 僕が連れていかれたのではなく自ら向かったのだと分かった途端、惨めに取り返そうとするな!


「……離せ」


 強まる語気。周囲はこの女の焦りと僕の拒絶を感じ取っている。明確な敵意を示しているのが周囲に伝わっているのに、愚かな道化だけがそれに気付かない。


「戻りましょう!私達の家に!」


 腕を乱暴に掴まれる。突如、サリーの視界に覆い隠していた記憶が蘇る。


 幼き頃に、この女に顔を蹴られた記憶。

 不気味だと罵られた記憶。

 大事にしていたドレスを破られ、肥溜めに捨てられた記憶。


 血の気が引く。顔が蒼白になる。声が出なくなる。呼吸が浅くなり、身の毛がよだつ。滝の様に怯えた汗が流れ、掠れた息だけが口から流れる。恐怖で、何も考えられなくなる。

 意識が朦朧とし、その場で倒れてしまいそうになったその時。


「そこまでです。お下がりください、皇妃殿下」


 二人の間に、ローズが割って入った。パンジーがサリーの手を引き、皇妃から引き離す。皇妃は未練がましくサリーに手を伸ばすが、ローズが立ち塞がる。


「あなたはサリックス様を絶縁なさっていたはずです。つまり、今のあなたとサリックス様は赤の他人。そして今のサリックス様はパンジー様の婚約者です。これ以上()()()()()()()不本意な接触、及び()()を試みるなら、我がエルムント国民への攻撃とみなします」


 国民への攻撃として扱う。それは不可侵条約の侵犯とみなすとの警告である。

 有無をいわさぬ一大事に、貴族達は一斉に蒼白になり騒ぎ出す。皇妃は戸惑い、一度はその手を止めた。だが、少しの逡巡ののち再び手を伸ばそうとした瞬間。


「サリ」

「攻撃とみなすと言ったはずです。次はありません」


 皇妃を数多もの赤黒い矢印が取り囲んだ。帝国軍を敗北に導いたとされる、その矢印。それが(やじり)を皇妃に向けていた。

 皇妃の前に立ち塞がるこの少女こそが帝国軍を打ち負かした謎の魔術師の正体であると、誰もが気付き恐れ慄いた。皇妃は己の命と国の危険をようやく感じ取り、腰を抜かしてその場にヘナヘナと座り込んだ。


「……御英断、感謝致します」


 ローズは威圧的な笑みを浮かべ、皇妃を解放した。皇妃はお疲れなのだと皆が慌てて断言し、引き摺られて城奥に連れていかれた。



 ★★★★★★★★★★★



「済まない、騒がせた。もう落ち着いたから、安心してくれ」


 しばしの休息ののち快復した皇太子の様子に、皆がほっと胸を撫で下ろす。とりあえずの危機は過ぎ去った。


「本来、このような騒ぎを起こしにきたわけではない。僕は、ある人に感謝を伝えにきたのだ」


 感謝?誰にだろうか。


「そろそろご到着なさるはずだ」


 ホール正面の大扉が開く。


「あの、わたくしが何か……?このような場に出られる身ではございません、何かの間違いでは……?」


 騎士に案内され、一人の女性が入ってきた。使用人の服装をしていた。小綺麗な装いから平民ではないとは思われるが、貴族らしい高貴さもなく場違いだと困惑しているあたり男爵家の娘あたりだろうか。大方宮仕えに家から出てきた女性なのだろう。


「お待ちしておりました、デリアさん」

「ぼ……坊っちゃま!?伯爵領に向かわれたのでは!?」


 サリーはその女性のもとに向かい、頭を下げた。皇太子が頭を下げた、その事実に貴族達がどよめく。

 そして坊っちゃまという返答。皇太子付きの召使なのだろうか。


「僕は意思に反して連れていかれたのではありません。自らかの地へ向かったのです。こうして一時的にではありますが、舞い戻って来ることも出来ました。連絡が出来ず御心配をかけさせまして、申し訳ありません」

「そうなのですか……良かったです……」


「あの、失礼ながらあなた様は……」


 たまらず貴族の一人が女性に何者かを尋ねる。


「あ、済みません!わたくしはデリア・スーと申します。恐れながら、サリックス殿下の乳母を務めさせていただきました」


 その返答に貴族達は納得し、ざわつきは収まった。


「あの、それでわたくしがここに連れてこられた理由は……?」


 本人だけが未だにキョトンとしている。

 サリーがその疑問に答える。


「またしばらく会えなくなってしまうので、感謝を伝えにきたのです、()()()


 サリーの言葉に、驚き口を抑えるデリア。


「皇妃殿下はずっと僕を遠ざけておられました。僕にとって、母親と呼ぶにふさわしい人物は皇妃殿下ではなく、デリアさんただ一人です」


 デリアは驚き震え、感涙を浮かべる。乳母として、ずっと側で支え大事に世話をしてきた皇太子から唯一の母と慕われるなど、乳母冥利に尽きるどころの騒ぎではない。


「あ……あ……」

「僕はまたこの国を出ますが、お母様への感謝は絶対に忘れません。この年になるまで大切に育ててくださった恩、一生感謝し続けます」

「は、はい……!」


 感極まって返事をする事で精一杯なデリア。

 パンジーがサリーの隣に進み出る。


「このような慌ただしい挨拶になってしまい、申し訳ありません。サリックス殿下の婚約者の、パンジーと申します」

「は、はい……」


 パンジーが礼儀正しいカーテシーで礼をする。慌ててデリアは不慣れな様子でカーテシーを返す。


「こちらは我がパンジー商会で扱っている最高級の口紅です、気に入って頂けるとありがたいです。こちらの袋は同僚の皆様に」


 パンジーが手土産を渡す。口紅という言葉に、三人の美しい化粧を観察していた貴族女性達が反応する。


「殿下は素晴らしい勇気と聡明さをお持ちの方です。我がエルムント国とポプラ帝国の間でも、より良い関係を結んでいきたいと思っております。デリア様、未熟者の私ではありますが、どうか私と殿下の仲を応援して頂けると嬉しいです」


 サリーとパンジーが共に頭を下げる。

 デリアも頭を下げて応える。


「は、はい!喜んで!どうか殿下をよろしくお願いします!」



 皇太子直々に感謝を伝えられたデリアの地位がこの後急上昇していくのはもちろんの事、身分に驕る事なく育ての親への感謝を忘れない勇敢な皇太子サリックス、傑物でありながら高潔で礼儀正しい少女パンジーの評判も大きく上向いた。

 そして、少女パンジーの美しき化粧の秘訣として“パンジー商会のコマチ紅”の名はあっという間に知れ渡り、委託販売を請け負ったグレナデン商会は半分も売れないうちに千個の追加注文を出したのだった。



 ★★★★★★★★★★★



 これで帝国への立場の表明と、ついでに口紅の宣伝が終わった。

 実はこっそりパンジーが陽魔術で微弱なスポットライトを当てて輝きを強調していたのだが、気付いた者は少ないだろう。自身の魔力で演出をしただけなのだから、気付かれたところで何を言われるわけでもない。


「どうだ?お飾りの夫は出来ていたか?」


 そうサリーはパンジーに尋ねる。そこには、飾り物である事への自嘲も、連れ去られた人質の悲哀も全くなかった。この強く勇敢な少女の役に立てる事を、心の底から誇りに思っているからだった。


「バッチリよ☆これで帝国に対しての私の地位は盤石なものになったわ。ありがとうね、サリー」

「どういたしまして」


 そのやり取りを側から眺めるローズ。

 お嬢様は帝国でも評価されるようになった。それがたまらなく嬉しい。

 ああ、お嬢様が評価される事はこんなにも嬉しいんだ。

 性格は苦手だし、呆れてしまう事もある。拒まれても殺されても優しくいられる彼女の眩しさに嫉妬していないといえば、嘘になる。私は優しく無いから。お嬢様は違うと言っていたが、何かの勘違いだろう。だけれども、心優しいこの少女には幸せになってほしい、そう願った。

 どうかお嬢様が再び世界に殺されてしまう事などないように、お守りする事を今度の私の生きる使命にしよう。

 ──()()()()()()()()()()()()使()()()()()()()()



 ★★★★★★★★★★★



 留守を守っていたはずのバレットが行方不明になったとの急報が伝えられたのは次の日の夜だった。

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