29 高潔な少女
ポプルス城で定期的に開かれている舞踏会。それに、エルムント伯爵領に名目上は婚約、事実上は人質として向かわされたサリックス第二皇太子、及びその婚約者、そしてその人質交渉の張本人たるパンジー・エルムント伯爵令嬢が参加するとの報が届いた時城内は騒然とした。
てっきり敗軍の将として惨めに連れて行かれたものだと思っていた貴族達は、対立派閥の者達はもう取るに足らない負け犬だと、そしてそれ以外の多くの者は不幸な境遇に負けた哀れな天才だとサリックスを認識していた。
人質がその所有者と対等に並び立てるはずもない。ましてや、その相手が近頃急速に勢力を増すエルムント伯爵領、その発展の中心と目される稀代の傑物令嬢であるならば尚更だ。また、不可侵条約を締結したとはいえ危険視されている国の令嬢でもあるのだ。警戒は当然だ。
しかし、人質として惨めな扱いを受けているという多くの者の認識は外れていた、という事にもなる。
「ねえ、あちらをご覧に……」
会場の一角でざわめく声があがる。少女のように赤く長い髪。ポプラ帝国の貴族なら誰でも知っている、サリックス皇太子の髪だ。
そして、公の場では男性装しか見せていなかった皇太子は、堂々と蒼と金色がグラデーションを織りなす美しいドレスを纏っていた。ほとんどの者は悪魔を防ぐための皇太子の女性装は単なる情報として知っているのみであり、その目で目撃したのはこれが初めてだった。
その堂々とした立ち振る舞いも相まって、あの苦痛のパーティー会場とは違いその姿は有無を言わせず美しい姿として多くの者に受け取らせる威力があった。
そして、隣に並び立つこれまた堂々とした少女。
「あちらがパンジー様かしら?」
思わず敬称を付けてしまう貴族子女達。彼女もまた堂々たる立ち振る舞いであった。動きやすさを重視していると思われる丈が短く薄手のドレスはあまり高貴さを感じさせず、どちらかというとともすれば使用人のお仕着せのように受け取られかねない物だった。
しかし、遠目にも分かる目の大きな斜めの水色と明るい紫のチェック模様、そして所々にあしらわれたスペード、クラブ、ダイヤ、ハートの燦然と輝くルビーを散らした刺繍が、それが高価な素材と高度な技術をかけて作られた最上級のドレスである事を物語っていた。
ローズ達が前世で聞いた、不思議な世界に迷い込んだある少女の童話を模したその動きやすいドレスと、赤い長髪が隣にある事で更に際立つさっぱりと纏められた髪型も相まって、御転婆に見えるその少女は貴族子女達の中で一際異彩を放っていた。
斜め後方に控える侍女らしき少女ですらまた、美しき佇まいであった。白の上向きの矢印、黒の下向きの矢印が互い違いとなり隙間なく埋め尽くしている独特の模様を持ったそのドレスは、無彩色である事で主役二人の輝きを霞めない名脇役となりながらも、同時にそのくっきりとして独特な白黒模様でその美しさを主張していた。
そして、リデル領侵攻戦の屈辱の敗北の現場に居合わせたサリックス派閥の一部の貴族達。その貴族達は、その矢印を見た途端何かを思い返したように慌てふためき始めた。
副司令官を務めていたドルフ軍大臣は泡を吹いて気絶した。
そして、何よりも目立つものは三人の化粧であった。肌の色そのままではなく、しかし白過ぎることもない適切な配分で塗られたパウダーが、鮮やかな唇の紅を際立たせる。そして、唇を彩るものとしてしか認識されていなかった紅は、目元や頰、耳、爪にもほんのりと差され、パウダーで薄くなった血色を健康的な紅を引き立てるキャンパスへと変えていた。
そして、信じられないほど鮮やかな唇の紅はどういう訳か、二色塗りにも見えずごく自然に紅の中に金色の輝きを伴っていた。
「パンジー、僕と踊ってくれ」
「喜んで、サリー」
短く、フランクな舞踏の申し出と、愛称を用いたシンプルな承諾。それは人質と所有者の関係ではなく、親しい友人同士のそれを感じさせた。
ダンスが始まる。そのダンスは、一見してとても粗野なものだった。荒々しくダンッと靴の音を立てる、しとやかさとは無縁な激しいダンス。決して、皇都で貴族が踊るようなダンスではない。しかし、目を顰める者よりも、思わず見惚れる者の方が遥かに多かった。何故なら、それは軍人のように洗練され鍛え抜かれた精密な動きで、豪快でありながらも美しく勇壮なものであったからだ。
「おおぉ……!」
そして、踊り始めてからしばらくした後ようやく少しの者だけがある違和感に気付いた。その違和感の正体を探り、よ─く二人を観察してみると……皇太子が女性パート、パンジー嬢が男性パートを踊っている事に気が付いた。ここまでの長時間違和感に気付かせない卓越した技術!荒々しくもしなやかな動きで完璧に女性パートをこなす皇太子も、軍人のように力強く勇壮に男性パートを踊るパンジー嬢も、美しく堂々たる立ち振る舞いであった。
その武人のように力強いダンスが終わった時には、会場中の注目を二人が集めていた。
「紹介しよう!強く美しい僕の婚約者、パンジーだ」
将来の妻となる者に、”強い”という形容詞。貴族が軍の先頭に立つ時代が終わったこの時代において、普通は有り得ない形容詞だった。
しかし、先程までの舞踏を見た貴族達に、その形容に疑いを持つ者は誰一人としていなかった。
「──皆様の中には、私のこの傷痕に疑念を抱く方もおありでしょう」
そう言うと、パンジーは自身の顔に残っている火傷痕を指差した。化粧で隠す事すらされていない。短い袖を着ているため、その指し示した右腕の火傷痕もあらわになっている。
気になりつつも気を遣って言及出来なかった者達は、自ら言及を始めた少女に困惑し……残りの、何故隠さないのかしら、みっともない、醜い、よく出て来られたな、などと陰口を叩いていた心ない者達はギクリと沈黙し視線を逸らした。
「我がエルムント領で、ある時大きな山火事がございました。その山火事に領民たる狩猟団の一団が巻き込まれ、危うく沢山の死人が出る大惨事となるところでした。私は少しばかり魔術の心得がありますので、救出に向かったのです」
皆がざわつく。山火事と火傷が結び付き、話の展開を悟ったのだ。
「多くの領民を救出する事が出来ましたが、引き際を見誤りこのような傷を負ってしまいました。ここのローズが助けに来てくれなければ、私はあの時点で命を落としていたでしょう」
生死の境を渡る所だったとの宣言にどよめく貴族達。そして、一部の者はローズと呼ばれた少女の名が帝国軍を叩きのめしたとされる謎の魔導師の名ローズと同じである事に気付き動揺する。矢印をあしらった特徴的なドレスが、謎の魔導師が使ったと噂される矢印の魔術と結び付いた。
「幸運にも私は一命を繋ぎ、こうしてこの場に立つ事が出来ました。皆様はこの傷を、あるいは可哀想だ、あるいは醜い、どちらにしても良くないものとして捉えている方がほとんどかと存じます。ですが──私は違います」
想定外の発言に、皆が固唾を呑んで次の言葉を待つ。
「──この傷は、私の誇りです。領民の命を守って出来た、誇りの傷、勲章です」
ローズに言われたその言葉を反芻し、宣言する。
「化粧で隠すなど、致しません。服で隠す事も、傷を恥じる事も、絶対に致しません。──この傷は、私の名誉の負傷なのですから!」
大きく残った傷痕をものともせず、それどころか名誉の傷であると宣言した少女。その高潔な態度に、もう忘れ去られた遠い昔の時代……自ら剣を取り、民の為戦ったといういにしえの貴族の誇り。多くの者はそれを感じ取り、今のぬくぬくと育った腑抜け貴族である己の身を恥じた。
「素晴らしい」「なんと誇り高き女性だ」
自然と、穏やかな拍手と賞賛が巻き起こっていった。高潔な少女を見習い、貴族の務めを果たしていこうと決意する者もいた。
そして、皇太子は連れ去られたのではなく、自ら望んでこの少女の元に赴いたのだと多くの者が理解した。
皆が勇敢な皇太子と高潔な少女の親睦を願い、会場が祝福のムードに包まれかけた、その時。
「サリックス!」
突如一人の女性が群衆から飛び出してきた。皇太子を呼び捨てに出来るという事は、王族かそれに類する身分の者だろうか。
(……誰?)
(……僕の産みの親、皇妃殿下だ)
確認を取るパンジー。最低限の情報を返すサリー。決して母と呼ばないその冷淡な口調には、あまりにも深い断絶と明確な拒絶が込められていた。





