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第一章 フラッシュモブ01

 第一章 フラッシュモブ



 肌をちりちり突き刺してくる、無数の穂先。


 目を開けると、その鋭い切っ先が一斉に向かってきた。小春は思わず身体(からだ)を縮めて、目を閉じた。



 そこは、人と人が遊牧の牛みたいにひしめき合うホーム上。


 駅に辿り着くまでの道中、小春はびくびくしっぱなしだった。


 角を曲がるたんびに足を止める――人の往来を確認する――コートの裾で顔を隠し、早足で次の角まで突っ切っていく――ずっとこんな調子である。

 まるで……というより事実、不審者そのものなのだが、それも仕方ない。

 

 というのも、絶えず付きまとわれていたのだ……誰かに見られているような気配に。


 ふと、小春の耳を、高い女性の声が殴った。

「線路から下がって下さい」

 そっと目を開くと、寝ぼけた乗客たちが、線路の先を見つめている。

 小春は安堵(あんど)した……と思う間に、張り詰めた緊張で、また身を(すく)めた。


   *


 コートに埋没した視線、スマートフォンに埋没した視線、空中に埋没した視線……道路は視線でいっぱいだが、そのどれもが巧妙に隠されている。小春の一挙一動が、あたかも化け物の身振りだと言いたげな、監視ぶり。


 そんな視線にさらされ続けていると、小春は急に馬鹿らしくなって笑い出したくなったものだ。

実のところ、小春が気にしすぎているだけ……通行人がわざわざ小春に一瞥くれていくと思うなんて、なんて酷い思い上がりだろう。その程度のこと、頭ではすっかりわかっている。


 暗がりで恐怖に囚われた心には、柳が化け物のように見える――正しく、化かされている。それも、己の心象によって。つまり、化け物とはやっぱり、己自身に他ならないわけだ。

 小春はそう自分に言い聞かせて、堂々と前を向いた。ちょうどその折、確かに、視線とぶつかった――真っ赤なドレスの女性で、朝またぎの公道で非常に目立っていた。その直後には、小春はすっかり不審者に戻っている。


 公道でさえそんな調子だったのに、人の見本市、通勤時刻の駅ホームである。耐えられるはずがない。


 駅に足を踏み入れてからというもの、鞄が鉛へと変身した。いつもの何倍もの重みが肩にのし掛る。小春の肩は深く沈み込んだ。幾度も幾度も、鞄を肩に直し、両腕で大切に抱え込む。


 つまりは視線が問題なのだ……視線が凶器、いやむしろ、狂気そのもの。

 時を追うごとに、神経を苛む刺激はますます酷くなっていく。耐えがたい吐き気に襲われる。気が付くと、小春の周りをすさまじい速度で視線が回り出している……。

「黄色い線まで下がって下さい」

 もうこれ以上、耐えられない……! 昨晩食べたインスタントの蕎麦が喉まで逆流した。するとふと、肩が軽くなった。


 限界を越えて、かえって楽になったのだろうか。小春が呆気に取られていると、隣のスーツが怪訝(けげん)そうに足下を睨んでいる。魔女のような(わし)鼻が顔面を押し出している、いかにもサラリーマン風の男だ。鞄が小春の肩からずり落ちて、男の革靴に覆い被さるように転がっていた。


 妙なものだな、と、鞄を自分の足下に寄せながら、小春は思う。今朝は夢だとさえ思っていたのに、今ではそのせいで頭がおかしくなりかけている。

 そう考えると急に馬鹿馬鹿しくなって、小春はすっくと視線を上げた。隣の列に、良く知った顔が――大幸(おおさわ)佐和の顔が、人だかりのなかに浮かんでいた。小春は反射的に声をかけそうになった……それをぎりぎりのところで、押し留める。流れるような長い黒髪を揺らして、佐和は、二、三人の同級生と楽しげに話していた。


 途端、小春の心は重く塞ぎ込んだ。小春はしばらく、青白く整った佐和の……どこか遠い、佐和の横顔を眺めていた。


「くさ……臭いな、まったく」

 不意に、不機嫌な声に小春は呼び戻された。例の(わし)鼻がコンドルのように顔を(しか)めて、隣の細長スーツに話しかけていた。

「ひどいな。臭くって、しょうがない」

「ええ、まったく」

「ゴミはゴミ箱へって、基本だろう?」

「ええ、ほんと臭いですよね……塵芥物(じんかいぶつ)ですよ、社会の塵芥物(じんかいぶつ)

「連中、海に流しちゃえって?」

「……は?」

「いや、だっておまえ言ったろう……人海物って」

「はあ……。ええ、まあそうですね、いやあ、でもほんと、働カザル者、食ウベカラズってね……臭いし」

 なるほど、神経過敏で今まで気が付かなかったけれど、確かに、独特の臭気が周囲に集積している。どの乗客も、ハンカチや手で鼻を押さえて、ある箇所から離れようとするように身体(からだ)を寄せていた。

「あれでおれらの税金持ってかれてんの、年三兆八千億……四兆だぜ四兆、金井、信じられるか? 四兆も持ってかれてんだぜ、生活保護に」

「ええ、まったくですよね……迷惑かけんなって話ですよ……今時、犬でも自分の飯代くらい稼ぐ時代ですよ」

「動画で?」

「ええ、まあ、モロモロで」

「あーあ、ディープ・ブルーが試算出したりしないかね。あいつらみんな海に流さないと大変な損失になる、みたいな」

「ディープ・ブルーって……古くないですか? しかもあれはチェス専門だし。まあ、ああなったのは全部、自己責任!」

「金井、良くわかってんじゃないの。そうだよ、自己責任だよ、自己責任。だからおまえ、今日のパワポ作んの、自己責任でやれよ。おれに迷惑かけんな」

「そりゃないでしょう」

「RPAの導入部署選定に一週間かけたのは誰よ。え?」

「あれはクライアントが渋ったからじゃないすか……。自分の手で、そんなたくさん切れないって……」

「だから、それを説得すんのがおれらの仕事だろ? え? 違うか? だいたい……」


 その続きを、再三のアナウンスが遮った。

「線路から下がって下さい!」


 二日酔いのサラリーマンでもいるのか、アナウンスはけたたましく響き渡った。

「なんだよ、うるさいな……金井、なんとかして来い」

「そんな無茶苦茶な……」

「無茶をやるのがコンサルだよ」

「無茶と無茶苦茶は違いますって……」

「黄色い線まで下がって下さい!」


 とうとうアナウンスが焦れ始め、きんきんと鳴るマイク音が、鼓膜をつんざいて(とどろ)いた。きっと千鳥足(ちどりあし)でホームを振り子のように揺れているのだろう、毎朝毎朝、良く飽きないものだ、小春はゆっくりと線路の先に首を回した。


「下がって下さい! 下がって下さい!」

 乗客が揃って顔を上げた。

 次の瞬間、電車のクラクションが爆発のように生まれ、アナウンスが掻き消えた。

 小春はぼんやりとした頭で、電車が急停車した先を眺めていた。

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