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001 女装メイド誕生!

よろしくお願いします!



 ――あなたは自分のことだけを考えて生きていきなさい。


 幼いわたしに、母は毎日その言葉を繰り返していました。


 母は強い人でした。蜘蛛の巣が張り、埃にまみれ、隙間だらけで冷たい夜風が体を冷やしていくような屋根裏でも、彼女は力強く生きていました。


 生まれてきた日から現在に至るまで、わたしは母しか知りませんでした。父は最初からいませんでしたし、ずっと閉じ込められていたので、他の誰かと言葉を交わす機会は少なかったのです。


 ――この世界が憎い。私とあなたを除いた全員が、この世界から消えてしまえばいい。


 それは呪いのような言葉でした。決して、母がこの世界に対して理想を高く持っていたわけではありません。むしろ、半ば諦めているような感じで、こんな醜い世に生まれてしまった自分を恥じているようでもありました。


 後から知ったことなのですが、母は畏怖とでも形容すべき力をその体の内に宿していたらしく、そのため雨無家あめなしけ(母が生まれた家で、昔から代々続く由緒ある家系らしいです)の人々から忌子とされ、忌避されていたようです。双子の妹の方は力を持っていなかったため、本来注がれるはずだった母への愛情はその方に全部注がれたようです。


 だから、母は愛を知らなかった。愛し方を知らなかった。


 ですが、彼女はわたしを心から愛してくれました。わたしを産んでから余計に酷い扱いをされるようになっても、暴力を振るうことはなく、慈愛に満ちた笑みと愛情で、わたしを包んでくれていました。


 ですから、わたしは十分に幸せだったのです。


 しかし、そんな幸せな日々は長くは続きませんでした。


 わたしは雨無の家の人物によって、屋敷から追放されました。


 あまりにも突然の出来事でした。いつものように寄り添いあっていた母とわたしのもとに、武装した男たちが詰めかけ、母の腕の中からわたしを引き離したのです。


 あの夜の光景は今でも夢に見ます。鼻を擽る銃の火薬の香りも、温もりが消失した瞬間の恐怖も、そして、悲愴に満ちた母の表情も、強く焼き付いているのです。きっと、脳が忘れたとしても、この目の網膜が鮮明に覚えているでしょう。


 わたしは白銀の世界の真ん中に、放り捨てられました。


 青紫色の画用紙にいくつも穴を開けたような、何処か作り物めいた夜空が眼前には広がっていました。なのに、手を上に力強く突き上げてみても、星には届きません。どうしてかわたしはその当たり前の事実に憤りを感じて、雪がつもった地面に拳を叩きつけました。背中に押しつぶされた雪が、徐々にわたしの体温を溶かして、熱を吸収していきます……


 悔しかった。憎かった。辛かった。苦しかった。


 それらの感情が混ざりあい、塊となって心を押しつぶそうとします。


 わたしは立ち上がると、周囲を見渡しました。多くの人が行き交い、わたしの知らないような大きな建造物が立ち並び、動物の呼吸すらも聞こえてきません。


 ただ、歩き続けました。歩く人たちと肩がぶつかっても、奇異の視線を浴びせられても、歩いた先になにか希望の光があると信じて、母のもとに帰れることだけを願って、凍てつく空気の中、足を前へと出しました。


 命の終わりが近づいていることをはっきりと自覚したのは、雪に埋もれて見えなくなった大きな石につまずき、伏臥ふくがしてしまったときでした。立ち上がろうとしても体が動かず、自分の内側にあったはずの活力が枯渇してしまったことに気づいたのです。瞬間、足を突き動かしていた希望や願望も熱と共に地面に吸われ、石のようになってしまいました。


 既に周囲に人や建造物はなく、わたし一人だけが世界に取り残されたようでした。


 涙は出ませんでした。今まで泣くときは母の腕の中だったのです。きっと、わたしにとって泣くという行為は母と結びつけられていて、彼女がいない以上、泣こうにも泣けなかったのだろうと思います。


 徐々に睡魔がわたしの意識を蝕んでいきます。瞼が重くなり、視界が狭まっていきます。世界の輪郭が朧げになり、自分の存在が曖昧になっていく……


 そのときでした――わたしの傍になにかが降り立ったのです。


 遠のいていく意識をなんとか脊髄にしがみつかせ、鳥が獲物だと勘違いして降りて来たのだろうと考えました。しかし、それは見当違いだったようで……頬に温かいものが触れました。初めて、母以外の誰かの温かさを感じました。


 わたしは僅かな力を振り絞り、重い瞼を開いてその誰かを目視しました。


「――あらあら、こんなにもボロボロになって」


 誰かは星の光を背にして、わたしのことを見下ろしていました。表情は見えませんが、体がとても大きく……とても心地のよい香りがしました。その香りが鼻孔を通り抜けた瞬間、脳裏に浮かんだのは昔、写真で見た群青色の空の下に草原が広がっているような景色でした。不思議と、体の奥底から力が湧いてきます。自分は生きているのだと、消えかけた感情が復活してきました。


 しかし、感情だけではどうすることもできません。体力はなくなったままで、意識はまた現実から離れていこうとします。


「おっと、このまま死なせちゃまた怒鳴られそうだ。いつものやり方だと殺しかねないし……ま、どうにかなるだろう。相変――こ――――だ――――――」


 途切れ途切れに聞こえてくる誰かの声。次に目覚める場所が天国でも地獄でもなく、この現実世界だと信じながら、わたしの意識は闇へと消えていきました。


 *・*・*


 意識が覚醒したのは、気絶してから一日近く時間が経ってからでした。体の感覚が全て戻り、遅れて亀裂が入るような痛みが襲い掛かってきました。思わず、その場でのたうち回ってしまいます。


「はあ……痛そうだね。ま、あれだけ寒い中歩きまわっていたんだからね。仕方ないだろう。少し待って……」


 どこか淫靡いんびな響きの声が耳に届きます。状況を掴めずにいると、頬の表面に生暖かい液体が落ちてきました。すると、不思議なことに、痛みがあっという間に消えていきました。元から傷などなかったかのように、肌には傷跡が残っていません。


 余計に混乱が強くなります。わたしは呆然としながら、顔をあげて誰かを見上げました。


「――初めまして、だな。雨無樹里あめなしじゅり


 そこには一人の女性が立っていました。冬場にはそぐわない、胸の横や臍、脇などの肌色が激しく露出する服を着ていて、官能的な雰囲気を纏っています。凝視していると、こちらが恥ずかしくなってしまうような恰好ですが、本人はそれが正装だと言わんばかりの堂々とした佇まいでした。鋭い八重歯が口もとで主張していています。


 わたしは視線を女性から外してしまいます。思春期のわたしには余りにも刺激の強い景色だったからです。しかし、女性は両手でわたしの両頬を挟むようにして掴むと、無理矢理自分の方へと顔を向かせました。血液が一気に顔面に集まり、紅潮しているのが見なくてもわかります。


「ふふっ、うぶだね……嫌いじゃないよ。だが、あまり自分というのを持ってなさそうに見える」


 女性の言葉に、思わずギョッとしてしまいます。指摘された部分は、自分でも気にしていた己の欠点だと思っていた所だったらです。しかし、彼女の言葉を聞けば、初対面でそれを指摘できた理由に頷けてしまいました。


「自分が男だと自覚しながら、すぐにでも女性用の服を着ていることに気づかないなんてね。少し、アノ屋敷に毒されているんじゃないのか?」

「……あ」


 言われて初めて気づいたのです。わたしはいつの間にか、使用人が着るような、白と黒を基調としたエプロンドレスを身に纏っていたのです。お恥ずかしい話、母と暮らしていたあの館でも、シンデレラよろしく古くてボロいエプロンに袖を通して、誰かが汚した床を一生懸命磨いておりました。きっと、屋敷のお嬢様方の暇つぶしだったのでしょう。中世的な顔立ち (母曰く)なわたしは女としても生きていけるとよく言われました。


 しかし、女性用の服を着ることを好んでいたわけではありません。


「で、でもっ⁉ 最初は男の服を着ていたはずですよ!」

「いや、女だから女の服を着ているんだろ?」

「違いますっ! ボクはれっきとした男です!」

「へえ、じゃあ男だって証拠を見せて欲しいな」

「――っ⁉ って、あなたがボクを着替えさせたんだからわかっているでしょ⁉」

「さあな~はははははははっ⁉」

「くっ……⁉」


 いちいち言動や仕草がしゃくに障る人でした。ですが、憎めないのも確かでした。彼女がいなければ、わたしはきっと雪の上で野垂れ死んでいたでしょうから。


 わたしは女性に名前を聞きました。


「――わたしの名前はアルジェントだ」

「アルジェント……日本人ではないのでしょうか?」

「聞かなくてもそれくらいわかるんじゃないか? こんな金色の髪の日本人がいるかい? こんな名前の日本人がいるかい? いないだろう」

「……ボクは外の世界のことは詳しくなくて、もしかしたボクが知らないだけで実はそういう方もいるんじゃないかと」

「じゃあ、いい経験になったな。あたしみたいな日本人はいない。わかったな」

「はい、勉強になりました」


 今までずっと屋敷の中で、外に出たことなど数える程度しかありませんでした。


「あの……これからボクはどうなるのでしょうか?」

「そう心配そうな顔をするな。お前の行く先は決まっている。そのためにこれまでお前はあの屋敷で育てられていたのだし、今、女装をしている……というか」アルジェントは親指一本分の距離まで顔を近づけてくる。「――お前が一番、自分の行くべき場所(・・・・・・・・・)を理解しているんじゃないか?」


 喉元を掴まれたような感覚がありました。この人は何処までわたしや、雨無家のことを知っているのでしょうか。


 そうです、わたしと母は邪魔者だったのです。本来なら屋敷に住むことなどできず、すぐに捨てられるはずだった。にもかかわらず、わたしと母が現在に至るまで生き長らえることができたのは、相応の理由があったからなのです。ですから、突然、その理由が消滅してしまった故に、わたしと母は引き裂かれたのだと思っていました。


 どうしてアルジェントはわたしに使命を果たさせようとしているのでしょうか? もしかしたら、別の理由があってわたしはここにいるのでしょうか? 少しの間考えてみましたが、当事者でありながら蚊帳の外にいたわたしが持ち得ている情報では、とてもじゃないですけど答えを出せそうにありません。


 そもそも、わたしに選択権などなかったのです。ここでアルジェントの言葉を拒否しようものなら、わたしの生きる道は断たれるに違いありませんから。


「……そうですね」

「わかったなら黙ってあたしについてくるんだな」

「お願いします」

「……聞かないのか? こうなってしまった経緯を」

「ええ……ボクが聞いても、わかるはずのないことですから」

「そうか」


 アルジェントは歩きだします。ボクはその大きな背中を追いかけました。完全に疲労が取れたわけではありません。ですが、ここで立ち止まるわけにはいかないのです。生きていれば……母と再会できるかもしれないのですから。


「お前は夢野屋敷ゆめのやしきという場所で、あるお嬢様の専属の使用人になるんだ。女性しか募集してないんだから、絶対にバレるんじゃないぞ。へまはしないようにな」

「わかりました、頑張ります」


 わたしはぼやけた未来を目指して、歩き始めたのでした。

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