#8 KGBの二人
また、本筋から外れます。
※この作品に登場する同名の実際の団体、組織、企業、事件とは一切関係はありません。
※この作品には長期連載および不定期更新が予測されます。ご了承ください。
※この作品には過度な著者の自己満足が含まれています。ご了承ください。
※この作品には誤った情報、解釈、認識、価値観が含まれています。ご了承ください。
函館市内、静けさが漂う函館第一人民公園の一画は、物々しい雰囲気に包まれていた。遊歩道はバリケードによって封鎖され、PPSh-41を携行した衛兵が警戒に当たっていた。その封鎖線の奥にはZIL-157指揮通信車が停まっている。これは元々、1958年にソ連で軍用に開発されたものだが、その黒一色に染められた車体は、公共情報保安省第八総局に位置し、準軍事組織とも言える実働警備部隊、国家保安衛兵大隊に支給された物である。中では公共情報保安省の公安部捜査一課課長、山内が受話器に耳を当てていた。相手は公安部部長の日向である。
「配置につきました」
『よし、人民警察の動向をくまなく把握するようにしろ。それと、何か反応があった場合は迅速に行動するために現場単位で適宜判断することを許可する』
「了解。それにしても、よく我々と彼らが手を結ぶ何てことになりましたね」
『人民警察も上層部も、そこまで愚かでは無かったと言うだけの話だ』
鬼村らを追っている公共情報保安省公安部だが、現在は人民警察と合同捜査を行っていた。
普段であればこの二つの組織が手を組むなどと云うことはあり得ない。それは人民警察に社会治安を守る、一応の唯一の組織だと言う意識があるためであり、また、公共情報保安省に広範囲に内偵捜査の出来る第三局が組織されているためであり、また、公共情報保安省が機密保持のために他の組織と関わることを伝統的に嫌っているためである。では、なぜ今回はその限りではないのかと言うと、偏にお互いの利害が一致したからである。いや、厳密に言えば日向が一致させたのである。
日向のこの事件への係わりは、二人のKGB捜査官が札幌にある公共情報保安省第二総局第二〇二局公安部を訪れたのが始まりだった。
「我々の捜査にご協力お願いします」
突然の来客に室内は静まり帰った。元より騒がしくなるような場所では無いが、普段とは別の些か不穏が漂う静けさだった。公安部部長である日向の前に立った長痩躯の男は、流暢な日本語で言うと同時に一枚の紙を差し出した。それは公安部の上位組織に当たる第二〇二局の局長から日向に宛てられた指示書で、この案件に対する任命とKGBに全面的に協力せよとの旨が書かれていた。
指示書がある以上、男の言葉に対して日向の意向は不要である。
「これはこれは、よもやKGBの捜査に協力できるとは光栄の限りでございます。勿論、全力で協力させて頂きます」
日向は皮肉めいて快く承諾した。詳しく話を聴くために二人のKGB職員と日向は応接間に移動する。皮のソファーに腰を掛けたKGBの二人に珈琲が差し出された。長痩躯の男はミルクと砂糖二匙を入れて一口啜ったが、一方の長髪の女性は珈琲には口を付けずに煙草に火を付けた。
「私はユルゲン・ハイドリヒKGB中尉、こちらはエレーナ・ウリヤネンコKGB少佐です。宜しくお願いします」
「それで、協力とはどのようなものでしょうか」
「本国の方で進めていました捜査に関係して、この国で活動している日帝系思想犯の一人が係わっていることが判明しました。我々はこの国で捜査権を持ちませんので、あなた方にその拘束をしてもらいたいのです」
「拘束ですか」
「そうです。拘束です」
ユルゲンは子供に話しかけるように、笑みを浮かべながら穏やかに言う。
「拘束後は」
「勿論、こちらに身柄を引き渡して頂きたい」
「それは拘束後に思想犯を国外に出すと言うことですか」
「はい。本国に連行します」
「そうなりますと、国際捜査課が対応に当たることになります。外国のみでの犯罪行為であれば、法務省の許可を得た後、相手国への召喚となります。しかし、思想犯となりますと社会構築法が適用されますのでこちらの捜査、聴取、量刑の裁定が終わり次第、先程の手順での引き渡しとなります」
「すみませんが、先程も述べました通り我々があなた方にお願いしているのは、目標の拘束だけです」
「日帝系思想犯というのは我々にとっても重要な犯罪者です。そちらの案件が急ぎであれば、非公式的に拘留中の反革命分子に面会することは可能ですが」
「お気持ちはお察しいたします。陸軍幕僚長をヘリごと吹き飛ばされたのは痛ましい事件でした。公には飛行訓練中の事故と発表されたようですが、軍の最高参謀を白昼堂々且つ派手に暗殺されたとなれば、国家保安省の面汚しだと第一総局辺りに後ろ指を差されたことでしょう」
今より2箇月ほど前、人民陸軍省幕僚監部会陸軍幕僚長を乗せて札幌市上空を飛行中だった軍用ヘリが撃墜されていた。犯人は早々に特定され、銃撃戦の末に全員射殺された。しかし、犯行に使用されたフリーガーファウストの入手方法や飛行計画の漏洩元など不明な点が残っていた。
「しかし、この度、思想犯が関係しているのは我々の案件です。それに、あなた方には目標を拘束し得る情報がありません。拘束する根拠がこちらにしかない状態なのであれば、我々の依頼が優先されるのが道理と私は考えます」
「待ってください。我々は調査の進めている思想犯は本より、思想不全など、その兆候がある者は全て名簿に纏めています。拘束し得る情報が無いと言うのは、それに載っていないと言うことでしょうか」
「あなた方が持っている名簿が、どの程度価値のあるものなのかは分かりませんが、我々の言う日帝系思想犯のことは、確実に載っていないことでしょう」
それは実際おかしな話だった。日本民主共和国で唯一、合法的に諜報活動を行える第二総局第二〇二局が確認していない情報を、ましてや、歴史的に重要な日帝系思想犯の情報を外国の諜報機関であるKGBが持っていると言うのだ。
「その理由をお訊ねしてもよろしいでしょうか」
「残念ながら、訊ねられても答えることはできません。しかし、その真偽は我々が直々にお話ししている状況で十分だと思いますが、どうでしょうか」
これまでもKGBが来ることはあった。しかし、拘留中の容疑者への聴取や身柄の受け取りが殆どで、捜査段階での介入は日向にとって初めてのことであった。
「・・・分かりました。我々にその思想犯を思想犯として扱うことが出来ないのであれば、捜査の主導権をあなた方が保有することで構いません。しかし、日帝系思想犯となれば確実にわが国でも法を犯していると考えられます。なので、先ほどの申し出にありました身柄の引き渡しは、我々の捜査が終わるまで待っていただけないでしょうか」
ユルゲンは日向を見つめたまま暫く止まった。何やら思慮を巡らせていたようで、一息唸った後に少し
ばかり困った顔をして切り出した。
「どうやら、意思疎通に齟齬があったようですね。我々があなた方にお願いしているのは我々の案件に関する思想犯の拘束でありまして、言い換えれば、あなた方のこの件への係わりは目標を拘束した時点で終わりを迎えるのです。つまり、有り体に言ってしまえば、あなた方に我々の重要参考人に対して捜査や勾留をする権利は無いと云うわけです」
その言葉に悪意は無いようだったが日向にしてみれば侮辱以外の何物でもなかった。宗主国の諜報機関であるが故の言葉なのか、日向は静かに怒りを飲み込んだ。
「この国で犯罪者とされる者に我々が干渉できないと云うのが、どう云った了見から来るものなのか理解できないとは言いませんが、先程も申し上げました通り、国内の犯罪者を国外に移送するには法務省の許可が必要です。当然、未解決の罪状がある者を国外に出すことを許可することはありません。それが如何にKGB様の要請であってもです」
「目標に対して法的効力を発動できるのは目標が思想犯である場合です。つまり、我々の追っている思想犯が、あなた方にとっても同じ思想犯であるためには我々の情報が必要不可欠なのです。あなた方が効力を失う理由はそこにあります。大っぴらに発言するのは憚れますが、この我々がここに来てこの話をしている現状は、目標の拘束後には全て無かったことになるのです」
相手の言葉の意味を噛み砕いた日向が口を開く。
「・・・これは、正式な捜査協力要請ではないと?」
「いえいえ、現時点では真っ当に正式な捜査協力要請です。ただ、何れ無かったことになるだけです。故に、法務省云々の諸問題も発生いたしませんので安心してもらって構いません」
ユルゲンは優しさを含んだ、それこそ発言の意味を体現するように、相手を安心させる意を込めた笑顔を浮かべた。一方の日向は厳として腕を組み、面白くないと云った様子だ。
「一つ、疑問なのですが、存在しなくなる案件なのであれば元から存在しないものとするのが通常なのではないですか。一度、我々に捜査協力を要請するのは何故なのですか」
「それは、あなた方に求める捜査内容を知れば自ずとお分かりになるかと思います」
日向は未だ詳しい内容を聞いていなかったことを思い出し、内ポケットから手帳を取り出した。
「先ほども申し上げました通り、我々があなた方にお願いするのは日帝系思想犯の拘束です。しかし、二つほど問題がありまして、一つはその思想犯が情報上でしか確認していない存在であり、国籍も無く、故に名前も性別も背格好すら判明していない状況なのです。もう一つは日帝系思想犯の潜伏先です。我々はあなた方の内情を知り得ている上で申し上げますが、どうやら、思想犯は北海道大学に潜んでいるようなのです。政治的緊張下にある大学に、勝手に捜査の手を伸ばすのは迷惑でしょうし、こちらにとってもあなた方との関係に水を差したくはないのです」
「・・・名前も性別も分からないのに、日帝系思想犯が存在し得ない大学に潜伏していると断言するとは、余程、信用に足る情報源をお持ちなのでしょうね。ただ、我々がその貧相な情報から目標を拘束したとして、あなた方はそれがあなた方の求めていた目標であるか否かを判断することは可能なのですか。もしや、それも機密に抵触する内容ですか?」
ユルゲンは「そうですね」と言うと、暫くあからさまに考えているような素振りを見せた。それは実際に思慮を巡らせていると云うよりも、日向の質問が、考えるようなことなのだと伝えるために行っているようにも見えるものだった。
「まず、質問の回答ですが、例えばあなた方が思想犯を複数人連れて来た場合でも、我々はその中のどれが目標としている人物であるかも、その中に目標とする人物が居るかどうかも判断することが出来ます。そしてその理由は、あなたのお察しする通り機密に触れる内容です。しかしながら、あれも機密これも機密と言っては、あなた方も不満に思うでしょうし、KGBの威光を行使することで蟠りを残すようなこともしたくはありません。また、これはあなた方の捜査の手助けになる情報でもありますので、特例としてお話しすることに致します」
ユルゲンは一泊を置いてから話を始めた。
「我々の言う思想犯はこの国で言うところの日帝系思想犯で相違はありません。しかし、誤解が生じないようにより詳しく説明しますと、我々の探している人物は帝国時代に国体の維持と精神的統一に大きな役割を担った〈神人〉なのです」
日向はその言葉を飲み込むのに数泊を要した。
「それはつまり、大学に神人が居ると言うのですか。天子の紙幣として存在していた神人は、極東軍事裁判の判決によってその職位と職責に拘らず、五年に及ぶ絶滅作戦でその多くが処理されました。あの事件が発生し、内戦紛いの惨状ですので根絶されたとは言いませんが、少なくとも、我々の権威が届く範囲内に神人は居ないものと考えて頂きたい。もし、居るとすれば奥羽山脈より西の方、何処か知れぬ旧政府軍の中枢でしょう」
多少冗談気味に軽さを交えて反論をした日向だが、ユルゲンの微笑みに変化が無いのを見て、直ぐに表情を硬くする。日向には相手の言おうとしていることが分かった。微笑みは「二度も同じことを言わせるな」と云うことを伝えていたのだ。しかし、日向にとってそれを認めることは、ラテン語を理解するのと同じくらい困難な話だった。
頭上から爆弾を落とされて、初めて戦争を知った世論の二度と戦争の起こらない平和社会を切望する声に応えるため、戦勝国連合はナチスを裁いたニュルンベルク裁判と同様に、アジア地域でも軍事裁判の開廷を進めていた。
それが極東軍事裁判である。破滅的な戦争を引き起こした国家の最高指導者を断罪することで、今後、世界中の指導者が同じ状況に陥った際でも同じ決断をしない抑止力とすることを目的としたこの裁判では、嘗て指導者的立場にあり、戦争突入の決定を下した者や、権力を有しながら戦争を止めなかった者といった29名の戦争犯罪人と、帝国主義と戦争維持に大きな役割を担った神人の罪が定義されることになっていた。
しかし、連合軍統治下で行われた報道管制によって民衆の間では神人排斥の機運は既に醸成されており、戦勝国各国から派遣された判事たちは、パリ解放後にパリ市民が起こしたナチス協力者に対するリンチ事件を経験として、民衆による神人への私刑を防止するために判決を下すまでは神人の保護を軍政庁に要請していた。
だが、如何に判事たちが法と正義によって戦争を裁き、平和社会構築の夢を見ようとも、裁判に政治が係わる限り各国の思惑からは逃れられないものである。裁判に召集された判事たちは其々の戦勝国が派遣した人物であり、多かれ少なかれ、判事の行動にはその国の政治的意向が反映されていたのである。
裁判では「平和に対する罪」「人道に対する罪」「通例の戦争犯罪」の三つの適用が論点となったが、その対象は日本が行った戦争行為に限定されていた。当然、弁護団は日本の戦争行為を裁くのであれば、アメリカの原爆投下や日系人の強制収容の罪を追及すべきだと主張したが、裁判長はここがアメリカの戦争行為が問われる場所ではないとしてこれを退け、議題に挙がることは無かった。戦勝国がこの裁判に求めたのは大戦に於ける敗戦国の罪の確定だったのだ。更に戦勝国は裁判に即決性も求めていた。
当時、灰と化した各都市では、家を失った人々のバラックによる貧民窟の形成とそれを温床とした凶悪犯罪の増加、アジア地域からの敗残兵により結成された反政府勢力の地下組織化、行政の機能不全による自治体組織の分離独立化、治安の悪化による自警団の結成など、多くの問題が発生していた。首都東京での症状は特に酷く、高い放射線量にも拘らず多くの人が仕事や生活費、配給などを目的として流入しており、秋葉原には当時としては世界最大規模となる貧民窟が形成されていた。新国家建国を目指す軍政庁にとってそれは大きな障壁となっており、治安確保と民主化或いは共産化を行うためには、早急に過去の遺物を抹消する必要があったのである。
ところが、オーストラリアから派遣されたウェッブ裁判長はこれに対して難色を示した。当然、彼自身も他の判事たちと同じように政治的意向を反映されていた。オーストラリアが彼を選出したのは彼が反日主義者であり、嘗て戦時中の日本の虐殺行為を調査した経歴があったからである。しかし、裁判長に任命された彼が優先すべきと考えたのはオーストラリア人としての復讐ではなく、裁判の完遂だった。裁判に対する政治的干渉は避けられないこととしつつも、性急に結論を求めることは裁判における裁判としての性質を失いかねず、彼はこれを嫌ったのだ。
軍政庁による再三の催促にも拘らず、彼は被告人の証言を一つ一つ精査し、判事たちとの議論を以て結論に導くことを蔑ろにすることはなかった。ウェッブ裁判長ら、誠実に裁判を行う判事たちと弁護団の膨大な量の証拠品と証人陳述が相まって、また、人類史上初めて戦争を裁くことの難しさから、当初、六カ月と見込まれていた裁判の審理期間は疾うに一年を過ぎていた。これに軍政庁は勿論のこと、日本の戦争犯罪を早急に裁定させたい多数派の判事たちが不満を募らせていた。
ウェッブ裁判長の元に本国からの帰国命令が届いたのはそれから間もなくのことである。本国政府への裁判状況の報告と休養を兼ねた一時的な離任だったが、オーストラリア政府への多数派の判事たちと軍政庁の働き掛けがあったことは明白だった。ウェッブの後任にはアメリカの派遣したクリフメイヤー中将が任命された。
裁判長が変わったことで裁判の進行速度が速くなったとか公平性を欠いた審理が行われるようになったとか、そう云ったことは無かった。実際のところ、マスコミに騒がれて政治的陰謀などとありもしないことを書かれること避けるため、一か月ほどしたところでウェッブは裁判長に帰任することになったのである。しかし、何も変わらなかったわけではなかった。クリフメイヤー中将が裁判長職に就いて程無くして一つの事件が起こったのである。
それはアメリカ軍政庁特攻兵器突入事件だ。大戦末期に実戦配備されていた特攻兵器「桜花」の陸上カタパルト発射型である桜花四三型が浅間山山中より発射され、アメリカの本庁舎に突入したのである。高角度で突入したことにより地下三階部分まで貫通して爆発、庁舎の一部分が完全に倒壊した結果、アメリカ人やイギリス人、オランダ人などの職員合わせて四十八人が死亡した。連合軍総司令官ダグラス・マッカーサー元帥暗殺を狙った犯行だったが、当の本人は数分前に軍の視察のために出ていたため難を逃れた。事件後直ぐに捜査が開始され、米陸軍一個歩兵師団を動員した山狩りで犯人グループを発見し全員を射殺、その後の軍政庁の公式発表によれば、犯人たちはビルマからの帰還兵で構成された日帝系ゲリラ部隊で、神人がその主導者的立場にあったとされた。
この事件の発生を受け、クリフメイヤー中将率いる極東軍事裁判所は醸成された社会不安と喫緊の治安確保に鑑み、裁判所憲章に則り裁判長権限を以て神人に関する第一次結審を行うことを決定した。以降に大衆紙「市民日報」に掲載された判決の趣旨を記載する。
戦時に於いて神人の果たした役割は、その威光と権限を用いた戦争継続と侵略行為の正当化だったと言える。当然、その意向を示したのは天子を始めとする戦争犯罪人らであり、天子の私兵たる彼らに勢威を変えることは困難だった。しかし、明治以前以後に於いて施行されていた政治制度及び教育制度、或いは文明の未成熟に見られるように、大多数の日本人の政治的自主性や政治的関心、政治的関与の未発達に比べて、高等教育を受けて政治に携わる任務を熟していた神人は、その任務が天子の思想を強要し精神の束縛を齎すものだと云うことは理解していたと考えられ、その上で実行に移していたとするならば、当然、その責を負うべきであり、亦、不義に対して異を唱えなかった不作為の罪にも負われるべきだと考える。従って、裁判所は神人に対し、社会隔離及び対人不接触並びに段階的根絶を言い渡す。
この判決によって行われたのが、日向の言った《絶滅作戦》である。作戦と言ったものの実際にはそれを指す明確な作戦名や計画名があるわけではなく、単に裁判所判決の事後処理との位置付けになっている。
この事後処理の実行は各軍政庁に一任されていた。判決が下された直後から、堰を切ったように各国の進駐軍が一斉に行動を起こした。全国21,690人の神人とその親族、合わせて315,691人の人間が、秋田県の比佐早津村、群馬県の不日和村、高知県の上霜作村の三か所に設けられた強制居住区に僅か一カ月余りで移送された。その早さ故に、これが裁決前から周到に計画されていたのではないのかとの疑惑が囁かれたが真偽の程は明らかになっていない。
居住区はそれぞれ管理する国家が決まっており、比佐早津居住区はソ連が、不日和居住区はアメリカ、上霜作居住区はイギリスとオランダが管理していた。居住区には判決に則り三つの規則が定められていた。一、許可者以外の居住区の出入りの禁止。二、異性の性行為の禁止。三、思想伝承の禁止。これらは全ての居住区の共通の規則であり、神人を根絶させるために規定されたものだった。しかし、今まで僅か百人余りが生活していた地域に十万人もの人が移住して来たらどうなるかを考えれば、自然的な絶滅を促すそれらの規則が形だけのものであることは明らかだった。着の身着のまま連れて来られ、十分に開拓の行われていない辺鄙で暮らすことになり、軍政庁による配給が慢性的な遅滞状況であるとき、初年度で全体の38パーセントに当たる119,960人が死亡したのは当然の帰結だった。
餓死者が最も多く、次に病死、凍死、いざこざや食糧強奪或いは食糧調達を目的とした殺人、居住区を警備する厚生委員会による射殺、その他にも色々な死亡原因があったが、中でも異様に多かったのは行方不明者だった。
毎日、膨大な数の死者が発生し、絶滅への道を直走っていた神人たちだが、一つ不可解な点があった。それは五年と云う短期間で絶滅したことである。例え生活環境の乏しい地域であっても、神人たちが生きることを強いられる生命体である以上、生きるための耕作や稲作を怠るはずはなく、人員的不足も発生していない状況であるならば、時間は掛かるものの全滅する前に生活環境を整えることは可能で、少なくとも、全員が死亡するには数十年は掛かるはずである。しかし、神人は実際に五年で絶滅した。つまり、絶滅に至ったのは外的要因があったからに他ならない。
実際のところ、居住区で何が起こっていたのかを知る者は少ない。内情を知っているのは、例えば日向のように、当時、居住区の運営及び警備活動に当たっていた厚生生活委員会に所属していた者などである。当然、それついて口外することは、日向は本より更に上の階級の者でも不可能である。それが機密指定されている事項であるのは勿論だが、何より記憶と物的証拠とを併せて証明することの出来ない歴史であることが大きな要因だった。だが、その脳裏に刻まれた神人たちの最期と建国後の思想教育を顧みれば、範囲を限定したものの支配下に於ける神人の存在の否定を断言することは必然と言えた。
「・・・」
日向は固く腕を組み納得の行かない様子だ。相対するユルゲンも微笑んだまま身動ぎ一つしなかった。その態度からは、日向に自発的に事実を認識させて立場の違いを認めさせんとする意思が垣間見られた。しかし、如何に従う他ない状況だったとしても小間使いとして見られることは体面的に避けるべき事象だった。
「目標が神人であれば、それは捜索をするに当たって非常に有益な情報です。しかし、場所が悪い。ご存知かとは思いますが、大学が我々の支配下にあるとは言い難い状況なのです。そして大学の思想的傾向から想定するに、もし、本当に神人が大学に潜んでいるとすれば、神人は高度に偽装しているものと考えられます。この二つを踏まえると、目標が神人であると云う情報のみでは捜査が遅々として進まなくなる可能性があると言わざるを得ません」
「それで?」
「その事態を回避するために、その目標を特定するに至った情報と手段を提供して頂けませんか」
ユルゲンの微笑みが一瞬綻んだように思えた。
「あなたが求めているのは我々が持つ中で最も機密性の高い事柄です。開示することは出来ません」
「これが認められないのであれば、それは仕方のないものと諦めますが、同時に、あなた方も時間に糸目は付けないことを了承して頂かなくてはなりません」
日向は何としても、KGBが目標の特定に至った情報を手に入れなければならなかった。
公共情報保安省の管轄下にありながらKGBのみが情報を持っていると云うことは、国内にKGB独自の情報網が存在していると云うことであり、機密指定されていることから単に金で買われた切り捨て可能な駒ではなく、KGBの核心的な情報源のはずである。また、公共情報保安省にとって国内に於けるKGBの動向を把握することは、内政の安定に寄与するはずである。
更にこのまま承服した場合、KGBに恩を着せること以外に得るものが無いばかりか、日向の経歴に傷をつけてしまう可能性があった。抑々、現在の状況を鑑みると目標の奪取に失敗する可能性が高く、案件が日向に一任されていることから、その責任を負わされることになりかねない。また、大学に捜査の手を伸ばすことによって社会混乱が発生した場合も同様である。仮に成功したとしても、最重要人物である神人を一切の干渉の余地なく引き渡さなければならず、公式の記録にも残らないとなると、労多くして功少なしとなることは確実だった。
しかし、日向の思惑はそう易々と実現されるものではなかった。
「ものを考えて発言しなさい。ヤポンスキー」
今まで煙草を吸ってばかりいたエレーナが突如、侮蔑の言葉を吐いた。そのまま話を続ける。
「誤解してほしくないのだが、我々は君たちに頼らずとも目標を捕らえることが出来る。それにも係わらず、今回、態々捜査協力と言う方法を取ったのは、単に私の上司が公共情報保安省との関係を維持した方が良いと判断したからよ。その事を理解しなさい。ただ、君たちに示した条件は客観的に見ても厳しいものだし、余り厳しいことは言わないことにしましょう。さて、どうかしら。機密事項は教えられないけど、この条件下でどのように捜査を進めれば良いか私が手取り足取り指南してあげましょうか?少なくとも、この国に於ける捜査権はあなた方にあるのだから」
笑顔を形作ってはいるものの顔のどこも笑っていないという汚泥のような笑顔を張り付けるエレーナの、そのあからさまな侮蔑的発言は部屋の空気を重くする。しかし、数瞬の間はあったものの日向に動じる様子は無く直ぐに続けて発言する。
「結構です。外部組織の捜査への干渉は程度の大小に拘らず、出来ない決まりになっています」
「なら、早急に行動を起こしなさい。何せ、期限は一週間なのだから」
「一週間ですか。それは・・・」
「君たちの能力から過不足無く適当と判断した期限よ。期待に応えられるように努めなさい」
「期限を過ぎた場合はどうなるのですか」
「ユルゲンの話に合ったでしょう?一週間後にこの話は消滅する。さあ、話は終わりよ」
そう言って、さっさと会議室を出ようとするエレーナの背中に日向は声を投げた。
「最後に、あなた方はこれからどうするのですか」
「観光」