#5 学生大会
すこし、本筋から外れます。
※この作品に登場する同名の実際の団体、組織、企業、事件とは一切関係はありません。
※この作品には長期連載および不定期更新が予測されます。ご了承ください。
※この作品には過度な著者の自己満足が含まれています。ご了承ください。
※この作品には誤った情報、解釈、認識、価値観が含まれています。ご了承ください。
「なに!?公共情報保安省だと!?」
革張りの豪勢な椅子を引っ繰り返す勢いで立ち上がった北海道大学学長は、明らかに狼狽した様子で驚きの声を上げた。
それに至って動じない新島は、淡々と話を続ける。
「神人の捜索に来たと言っていました」
「か、神人ぉ⁉そいつは大学の関係者なのか?まさか、我が校に在籍している人物なのか?」
「それは分かりません。彼らの言う神人が大学構内に居るのか、それとも大学組織内に居るのかは明言しませんでした。彼らは明日、もう一度来るそうです。その対応を協議するためにこれから学生大会を開こうと思います」
「ま、待てっ!まさか公共情報保安省に楯突くつもりじゃないだろうな!」
「・・・必要であればそうなります。では失礼します」
新島はそそくさと学長室を出た。
やはり、肩書だけの人物は役に立たない。
900番教室の使用許可を取るため学務部学事課に赴いた新島だったが、騒ぎを聞きつけた学長に詳しい説明を求められたのである。端的に説明したので拘束時間は物の五分だったが、新島は著しい疲労感を覚えていた。
現在の北海道大学学長は教育評議会と経営協議会の選考を経て決定されたが、元上級官僚であることから大学の性質に対しては全く興味を示さず、学生の間では共産党が大学の弱体化を狙って送り込んできた邪魔者と言う認識になっている。新島もそう考えていた。
出来ることなら学長に知られたくは無かったが、元より無理な話か。あの学長がどう出るかは分からないが、万が一にも、我々と一緒に公共情報保安省に立ち向かうことは無いだろう。
「新島会長!」
「?」
〈午後10時〉
〈900番教室〉
900番教室は本館や別館から独立して存在している教室であり、教室と言う名がついているものの実際は独立講堂である。いつもは整然と講義が開かれている900番教室だが今は様子を大きく変え、収容人数を大きく超えた学生が壇上から二階席の隅々まで埋め尽くし、それでも入りきらない学生が、開け放たれた扉や窓から中の様子を窺おうと覗き込んでいた。立ち上る紫煙で講堂内は霞がかり、既に過熱した学生間で飛び交う論議や論駁によって、物々しく騒々しい雰囲気に包まれていた。しかし、学生たちの中心、壇上の前の、長机で区切られた四角い無人地帯周辺はこの限りでは無く、長机に据え付けられた席に座る面々は至って粛々と学生大会の開催を待っていた。
そこは北海道内に存在する各派学生組織の代表席と学生評議連合会役員会の役員席である。北海道大学では現在六派の学生組織が活動しており、壇上前の役員席を始めとして右から日本マルクス主義学生同盟・革命的マルクス主義派北海道大学委員会(マル学同革マル派)、国際共産主義学生同盟北海道大学支部(第四インター)、北海道大学共産主義者同盟、日本社会主義青年同盟北海道大学学生班協議会(社青同)、日本民主青年同盟北海道大学地区委員会(民青)、日本マルクス主義学生同盟・中核派北海道大学委員会(マル学同中核派)である。
「えー、皆さん、只今より臨時学生大会を開催したいと思います」
マイクを持った千田が騒音に負けじと比較的大きな声で開催を宣言すると、話し声は止み、代わりに拍手が挙がった。
「えー、この度は突然の開催となりましたことをお詫びするとともに、多くの学生方がご参加くださいましたことを深く感謝いたします。えー、皆さまビラをご覧いただいたとは思いますが、今回の議題は明日、本校に訪れる公共情報保安省に対し、どのような対応をするかでございます。議論を始めるに当たって、私の方から状況の説明をいたします。えー、本日午後4時ごろ、公共情報保安省の捜査官らが現れました。相手方が申しますことには、大学に神人が居り、それを逮捕しに来たらしいのです。彼らは令状を持たないにも拘らず、大学側に例外的に立ち入りを認めるように要求してきました。神人と云う存在故の行動であろうと思われますが、双方の関係は非常に緊迫したものですから現場での判断はせず、結局は新島会長の説得により公共情報保安省の立ち入りはひとまず断念されました。しかし、彼らは立ち去る際に令状を持参したうえで、改めて訪れることを言い残していきました。つまり、明日訪れる彼らは本校に対して合法的な立ち入りを行うと思われます。これに対し、北大統学戦として如何なる対応をするべきか、当学生大会にて決定したいと思います。以上で説明を終わります」
「質問があります」
そう言って手を挙げたのは、社青同の江藤 五月会長である。
「どうぞ」
「神人についての説明はあるのですか」
「それについては新島会長から説明があります」
そう言うと、千田は隣に座っている新島にマイクを渡した。
「公共情報保安省の大学に神人が居ると云う情報の真偽を調べたところ、事実であることを確認しました。但し、神人は大学関係者を指しているのではありません。神人は全くの部外者で、大学構内に身を隠していただけだと思われます」
誰も驚きや怒りなどの声を上げなかった。新島と千田以外の全ての学生が当惑の表情を浮かべていた。
「ちょっと待て」
多くの学生と同じように状況を飲み込めなかったブントの書記長、山内 昌志が思わず声を上げた。
「何故戦犯の手先が大学に居るんだ。まさか、旧政府軍に与する者が居るのか」
「落ち着いてください。追って説明します。事の始まりは公共情報保安省が来る四時間前、薬学部棟の脇の並木道に神人が突如発生したものと思われます」
「突如発生した?」
山内は言っている意味が分からないといった様子でその言葉を復唱した。
「そうです。俄かには信じがたいですが、まさしく亡霊の如く突如として現れたと思われます。そしてそれを文化人類学准教授、鬼村 勝之先生が保護しました」
一瞬、全ての動きが止まった。動いていたのは紫煙だけだったに違いない。そしてその空気は一気に破裂した。
「何と!」
「神人を招き入れたのか!」
「神人を保護した」
「やっぱり人妖を信用するべきじゃなかったんだ」
「嘘だろ?」
「先生がまさかそんな」
「旧政府軍の人妖だったのか?」
「そうなんだろう」
「だから人妖どもは大学から排除すべきだと言ったんだ!」
「待て待て、それは差別主義者の発想だ。アメリカと同じことをするつもりか」
「面倒なことになったな」
「先生はそんなことするはずはない。神人を保護するなんて・・・」
「いつかこんなことが起こるんじゃないかと思ってたよ」
「待ってくれ。先生はそんなことする人じゃない」
「先生は復古主義者だったのか?」
「いや」
「そうだったら、大学からとっくに排除されてる」
「それを隠していたのだろうか」
「どうだろう。でも、今それは関係ないだろう。裏切り者であることに変わりはない」「なんてことを」
「おい、ちょっと待ってくれよ」
「確かな情報なのか?」
「人妖はここからすぐに出ていけ!」
それは集束爆弾が爆発したような狂瀾言うべき状況だった。幾つもの声が重なり合って一つの轟音を作り出し、最早誰が何を喋っているのか分からない。新島の「静聴しろ」の声も瞬く間に飲み込まれてしまう。
「おいお前!お前も復古主義者なんじゃないのか!?」
「ちょっと待ってくれ。確かに俺は人妖だが復古主義者じゃない!」
すっかり頭に血が上った学生が、犬のような耳の生えた学生を矢面に上げていた。
「嘘つけ!貴様ら人妖の言うことが信用できるか!」
「・・・これだから人間は嫌いなんだ!自分とは違う者をすぐ排除したがる。貴様は醜い差別主義者だ!」
「どっちが差別主義者だ!人妖どもはいつも人間を見下してるじゃないか!」
一方は顔を真っ赤に染め今にも掴み掛らんとし、亦一方はその鋭利な犬歯で喉笛に嚙み付かんとしていた。その物騒な雰囲気に多くの学生が凄惨な取っ組み合いが始まるものと想像した。しかしそれは現実にはならなかった。双方激しく残る鈍痛に悶え苦しみ蹲っていたのである。そしてその間に佇む新島の手には、荒々しい無骨さの中に秘める鍛錬された力強い武器として、亦、強大な権力に立ち向かう示威的象徴として、そして、学生の精神的主柱として大きな存在であるゲバルト棒が握られていた。先ほどの二人は、新島によって文字通り叩き伏せられたのである。
どよめく学生を圧する新島の声が響いた。
「静聴しろ!何故、学生大会を開いたか忘れたのか。公共情報保安省が大学に合法的に立ち入ろうとしている事の重大性に何故気付かない!人間だろう人妖だろうと、我々は同じ大学の同じ学生だ。静謐な学生生活を護る為に一枚岩でなければならないのだ。仲違いしている場合ではない!」
学生らは押し黙った。それを全く意にも介していない様子の新島は、元の席に座るとマイクを取った。
「神人は既に大学構内には居ません。同じように鬼村先生も姿を消しました。神人は鬼村先生の手引きによって大学から移動したようです。二人は今どこにいるのか、また、一緒に居るかは一切不明です。今回の議題は公共情報保安省にどう対処するかと云うことに加え、神人に関する情報をどう扱うかと云うことも議論しなければなりません」
ようやく事態の複雑さに気が付いた各々は完全に黙っていた。
「まず、前提として神人に対する北大統学戦としての姿勢は、その思想及び活動を断固として認めない方向でよろしいでしょうか。賛同の方は拍手をお願いします」
これに学生は圧倒的拍手を挙げた。
「ありがとうございます。では、この一連の問題に対する対処を議論していきたいと思います。意見のある方は挙手をお願いします」
「その前に、確認したいのですが」
そう言うのは五月である。
「鬼村先生が神人に協力したことと、その二人が大学構内に居ないと言うのは確かなことなのでしょうか」
「はい。その二つは確かです。証拠もありますし証明もできます。しかし、この場で提示することはできません。どうかご理解ください」
「分かりました。私は全面的にあなたを信用していますし、その二つが真実であると言うことが確認出来ただけで十分です」
「では、改めて、意見のある方は挙手をお願いします」
これに真っ先に手を挙げたのは民青の委員長、井上 哲郎である。
「公共情報保安省に協力すべきだと私は考えます。神人に関する情報も提供すべきです」
「何を馬鹿な!」
それに対して声を上げたのはマル学同革マル派の書記長、黒部 太一である。
「公共情報保安省を安易に信用するべきではない。私は神人に関しては自浄に努め公共情報保安省に対して徹底抗戦を敷くべきだと考える。あいつらは狡猾な奴らだ。今回の神人の捜索だけで大学から手を引くとは思えない。手を貸したが最後、大学は神人と云った日帝系思想犯にとって恰好の隠蓑となっていると言って、大学に対する圧力を強めるだろう」
「しかし、強硬姿勢を示せば神人を擁護していると見られてしまいます。例え、こちらが神人との関係を否定しても、その矛盾を突かれれば正当性の観点からどうしても立場的に弱くなってしまいます。そうなれば圧力を強めるだけではなく、社会的な大学の孤立を招く可能性があります」
「私は井上委員長に賛同する。公共情報保安省を拒むことが、結果的に神人を幇助することになるのであれば、これは全力で回避しなければならない。一番避けなければならないのは、権威主義、帝国主義的独裁政治を復活させようとする日旧政府軍との関係を疑われることだ。最悪、大学が旧政府軍と同じ、崇高な民主主義的共産主義社会に対する反逆者と見られてしまうだろう。ここは敢えて拒まず、疑念の回避を図るべきだ」
そう言うのはブントの書記長、山内 昌志である。しかし、すぐに反対意見がマル学同中核派書記長、本多 嘉昌から上がった。
「確かにそれは一理ある。だが、統一日本学生自治会総連合内での立場はどうなる。幾ら釈明したところで絶対的に立場が悪くなるのは間違いない。それに、学生の賛同を得るのも難しいだろう。要は、公共情報保安省を受け入れれば我が学生自治会の全体的な弱体化は避けられないと言うことだ」
「そうかと言って、明日行われる公共情報保安省の立ち入りは完璧な合法的行為ですから、それを拒否すると言うことは即ち、社会全体に対しての敵対行為と言うことになりますよ」
「井上委員長。君は学生なのか共産党員なのか、どちらだ」
本多の言葉はあからさまに侮辱を孕んでいた。これは井上の癪に障ったようである。井上は至って平常を保ったまま、しかし怒気を込めた表情で反論した。
「私は日本民主青年同盟北海道大学地区委員会の委員長だ。私の発言は学生身分を逸脱することは無く、また、行動は北大統学戦に帰属します。私は民青委員長として学生自治会会員として一学生として、意見を出したのです。それを誤解しないよう肝に銘じて、先ほどのような発言は二度と無いようにして頂きたい」
本多は怒りを見せるわけでもなく謝罪の句を述べるわけでもなく、ただ、沈黙を保ち井上を見据えていた。真偽のところを推し量っているのか、将又、鼻から虚偽であると決めつけているのか、どちらにしても、沈黙は場の雰囲気を張り詰めたものにした。
数秒の間の後、本多が溜め息をついた。
「すまなかった。議論を続けよう」
その謝罪は議論を遮ってしまったことに対してだけだと思われるが、井上はそれ以上言うこと無く、ひとまず収まりが付いたようだ。
侃侃諤諤の論争を続けること三時間、大休止が挟まれた。近くの者で輪を組み談議を交わしたり、外に用を足したりするなど其々思い思いに休む中、壇上に居た篠原 円は不意に立ち上がった。それに気付いた千田が、講堂から今まさに出ようとしていた円に声を掛けた。
「篠原、どこかに行くのか?」
足を止めた円は一瞬の間の後、振り返り、笑みを浮かべて戯けたように言った。
「千田さんは私の彼氏か何かですか?」
千田は暫く円を見つめていたが、観念したように肩を竦めた。
「何の気なしに聞いただけだ。気にするな」
「ふふ、写真部の部室に行くだけですよ。今、写真を焼いている最中だと思いますので。ゲバ棒で争いを止めた新島会長の写真も上手く焼き上がっているはずですよ」
「そうか。じゃあ、後で見せてくれ」
「わかりました」
そう言うと二人は別れた。
長く続く廊下の窓から並木道の街路灯の光が差し込む。廊下は所々、窓枠の形に照らし出されてはいるが、人間の目ではその空間の大半を深い闇が占めていた。そこを一人、円が歩いていた。灯りを持たずに廊下を進む円の表情は硬く、手は強く握りしめられている。しかし腰が引けているわけではなく、飽くまで強気な態度を崩さまいとしていた。
ゆっくりと歩く円の行く先の何処からか鍵の開く音が聞こえ、丁度窓明かりに照らされていた部屋の扉が音を立てて開いた。部屋に灯りは灯っていないらしく、僅かばかりの扉の隙間は暗闇に埋められていた。ホラー映画のような状況だが円は迷うことなくその部屋に入った。後ろの扉が閉じられるのとほぼ同時に、部屋に吊るされていた電球に灯りが灯る。急激な光量変化に対しての対光反射が正常に作動し終わったところで、物の多さからその部屋が倉庫として使用されていることが分かった。独り言を呟くように、そこに居ると思われる電気を点けた張本人に話しかけた。
「灯りは点けない方が良いのではないでしょうか」
その言葉は倉庫に吸収され返ってくることは無かった。しかし、反応はあった。倉庫の隅に置かれている古めかしい蓄音器が、重厚な調べと情熱的な混声合唱団の歌声を響かせた。
Встава́й, прокля́тьем заклеймённый,
(起て 呪いにより烙印を押されし)
Ве́сь ми́р голо́дных и рабо́в.
(飢えたる者と奴隷の全世界よ)
Кипи́т на́ш ра́зум возмущённый
(猛り立つ我らが理性は沸き立っている)
И в сме́ртный бо́й вести́ гото́в.
(生死を賭けた戦いをする用意はできている)
Ве́сь ми́р наси́лья мы́ разру́шим
(圧制の全世界を我らは粉砕する)
До основа́нья, а зате́м
(その根底まで その後で)
Мы́ на́ш, мы́ но́вый ми́р постро́им,
(我らは我らの新しき世を築く)
Кто́ бы́л ниче́м, то́т ста́нет все́м.
(何者でもなかった我らがすべてになるのだ)
Э́то е́сть на́ш после́дний
(これぞ我らの最後にして)
И реши́тельный бо́й.
(決定的な戦いだ)
С Интернациона́лом
(インターナショナルと共に)
Воспря́нет ро́д людско́й!
(人類が立ち上がる!)
それはソヴィエト社会主義共和国連邦の旧国歌『Интернационал(英訳:international)』だった。元々は1871年パリ・コミューンの際に作詞、1888年に作曲されたフランスの革命歌であるが、労働者や社会主義者に広く愛唱され、1902年にロシア語に翻訳、1922年から1944年までソヴィエト連邦の国歌の地位にあった。現在はソヴィエト連邦共産党の党歌として使用されている。
その気分が高揚する旋律に交じって男性の声が話し掛けてきた。しかし、声の主の姿は窺い知れない。
「この部屋は役員会が所有する倉庫でしたが、久しくほったらかしにされていたようです。貴女はこの倉庫に写真部で使える備品があると知り、それを取りに来ました。その過程で蓄音器を発見して気まぐれにレコードを流した。これが、貴方がここに来た理由です。探し物をするのに電気を付けないわけにはいきませんよね?」
「私の都合を考えてくださるとは、全く痛み入ります。それで、私に何の用なんですか。公共情報保安省さん?」
円がここに来たのは偶然では無かった。気付いたのは学生大会の真最中、肌身離さず持ち歩いていたはずの手帳の最後のページに、書いた覚えのない「23:15 Комната204」の走り書きが書いてあったのである。
「公共情報保安省はこの件に関して、貴女に情報収集に従事するよう望んでいます」
円は隅にあった木製の小さな椅子に腰掛けた。
「この件と言うのは、今学生大会で議論されている議題のことですか」
「そうです。信憑性に拘らず、この事に関して知り得た情報は全て提供してもらいたいのです」
「具体的に、私は何をすれば良いのでしょうか」
「そうですね。まず、現在我々が手にしている情報は、神人を幇助したのが准教授の鬼村 勝之だと言うこと、神人は既に大学から逃亡していると言うことの二つです。しかし、二個目に関しては確証が無いので念のため調べてください。そして、我々が知りたいのは神人の素性と容姿、鬼村に協力した学生の存在の確認、そして統一学生戦線および各学生組織の動向の三つです。貴女にはその三つに重点を置きつつ、大学内の状況を適宜報告してください」
「簡単に言いますね。少なくとも大学はあなた方を警戒して情報管制を敷くはずです。その中から情報を持ち出すのは難しいと思いますが」
「その状況が想定されるから貴女に依頼しているのですよ。我々の保有している大学内の情報源の中で最も情報を扱う立場にある人材ですから、期待に応えてくれるよう願っていますよ」
「くれぐれも素性がばれないように気を付けますよ。リンチにはされたくないので」
「この件に我々は強い関心があります。貴女が失敗をしないように情報の受け渡し手段については我々から提供しましょう。さて、この件に関して何か質問はありますか」
「ありません」
「それでは、そこの箱を持って行ってください」
円は椅子から立ち上がり箱を持ち上げる。中にはフィルムや現像に使用する薬液が入っていた。
「全ては国家に有り、国家以外に何も無く、国家に反逆する者は存在しない」
それは日本共産党のイデオロギーだった。激情込み上げる音楽が終わりを迎え、間もなくしてブツリと音を立てて蓄音器が止まった。男の声もそれっきり聞こえない。
話が終わったものと判断し、電気を消して片手で器用に扉を開けた。
「一つ、言い忘れていましたが」
その言葉は耳元で囁かれたかのように穏やかで近かった。しかし、誰かの口が近づけられているようなことは確認できない。いや、不可視であると言った方が適切に違いない。魂魄に話しかけられているのではないかと思える不可思議な現象だった。
「千田 謙司くんと言いましたか、恐らく貴女も気付いているのでしょうが、彼は貴女に何かしらの疑いを持っているようですね。くれぐれも気を付けてください」
円は何かを答えることは無く、沈黙のまま止めていた足で廊下へと踏み出し、扉を閉めた。
そんなこと、言われなくても分かってますよ。
心の中でそう吐き捨てた。
仄暗い廊下を歩く中、円は思慮を巡らせていた。
調査する三つの項目の内、統学戦と六派の学生組織の動向については新聞会会長の私が見聞きすることで十分だろう。問題は残りの二つだ。この二つはどちらも神人に関する事柄で、学生大会での新島会長の言葉からも分かるように、その情報については役員会が厳重に管理しているはずだ。
ひとまず、学生大会で開示された神人に関連する情報を確認しよう。
まず、神人は突如現れたとされることについて、これは公共情報保安省が神人の容姿を掴んでいなかったことからそうなのだろう。次に鬼村 勝之が保護したことについては、この情報を新島会長が公表したことから事実であろうと思われる。
嘗て、この地が大日本神国と云う名前だった時代、植民地解放と大東亞共栄圏の建設を大義名分に帝国主義的思想でこの国を戦争に導いた旧政府勢力は、東西の分け隔て無く忌諱や憎悪の対象であり、徹底的且つ完璧に否定、弾圧、唾棄、排除されるべきものである。そして、その時代の政治中枢や政府機関、特に二・二六事件以降、政府に強い影響力を持ち始めていた陸海軍部の幕僚は専ら人妖の職業だった。
人妖と人間との軋轢は、戦争犯罪者として多くの人妖が公開非公開の処刑により排除され、人間主導の国家が誕生したことで表面化した。人妖は排他的な世論によってアパルトヘイト紛いの不当な扱いを受けたが、昨今は自由主義を掲げる大学の確立と政府の働き掛けもあってか、戦後すぐよりかは大分寛容になった気がする。しかし、表面に表れなくなったと言うだけで、それほど少なくない人間の心の中には、未だ人妖に対する恐怖や憎悪が根深く残っている。斯く言う、私の中にも存在しているそれは、水面下の極浅いところに燻っていてほんの些細なことでも忽ち姿を現す。それこそ、あのような事を明かせばどうなるか、それは火を見るより明らかだ。
新島会長が学生大会で人妖と人間間の軋轢と言う火種に油を撒き、北大統学戦の分裂を招きかねないことを言ったのは、それを明かさなければならなかったからに他ならない。
今回、新島会長が避けたかったのは、これを確固たる証拠と共に公共情報保安省に公表されることである。その場合、事実を把握していたか否かに拘らず統学戦内に亀裂が生じることは免れず、無差別な人妖批判や六派学生組織の独立志向の醸成に対して事態の掌握が難しくなるのである。
これを先んじて公表することで回避したわけだが、重要なのは役員会がその事をどうやって知り得たかだ。
二つほど、思い当たる節はある。
一つは役員会直轄の実働部隊である〈防衛隊〉を使用して情報を収集した可能性である。防衛隊は学生大会開催時に警備活動を行う程度で構成員は少ないが、新島会長や千田会長が公的に動かせる組織であり、能力的には情報収集も可能である。
もう一つは、統一学生戦線内で活動する学生に公表されていない秘密組織である。
初めて存在を確認したのは二年前、日本マルクス主義学生同盟が革命的マルクス主義派と中核派に分裂した時である。イデオロギーの相違によって起こったこの事件は、中核派が〈糾察隊〉と呼ばれる武装組織を設立したことをきっかけとして急速に悪化、革マル派がこれに対抗して〈特別行動隊〉を設立し、抗争寸前の事態となった。
事の顛末は、流血の惨事に至ることを未然に防ぐために学生評議連合会が仲裁に入り、学生大会での相互衝突防止協定の締結によって事態はひとまずの収束を得た。
実は、この一連の動きの裏で革マル派書記長、黒部 太一の暗殺未遂事件が起きていた。過激思想に傾倒していた糾察隊数名が独断で起こしたこの事件は、相互衝突防止協定の頓挫を目的として、学生大会開催の前日に決行された。私はこの動きを事前に掴んでいたが、敢えて役員会に報告するようなことはしなかった。
当日、事態を静観しようと襲撃班を尾行していた時、自分以外にもう一人の尾行者がいることに気が付いた。革マル派の人間かとも思ったが、いよいよ決行しようと黒部の下宿先近くの公園に襲撃班が集まった瞬間、申し合わせたかの如くゲバ棒で武装した防衛隊が現れ、瞬く間に襲撃班を武装解除させた。防衛隊は役員会直轄の組織なので千田会長が指揮を執っていたのだが、その傍らに先ほどの尾行者が居たのだ。後にその男の身元を調べたところ、第四インターに所属する学生だと分かった。
どうやら、統一学生戦線には六派学生組織間を跨いだ組織網が存在しているらしく、その構成員は学生のみならず外部にも及ぶため未だ全容の把握には至っていない。また、組織名も不明なため、暫定的に〈И機関〉と呼称している。
しかし、公共情報保安省が大学に来てから学生大会を開催するまでの六時間の間に、鬼村が神人を保護したこと、神人が既に大学構内に居ないことを把握することは可能なのだろうか。実際、私も印刷所にビラの作成を指示する傍ら、新聞部の取材班に事実確認を指示していたのだが、結局、学生大会での新島会長の言葉を聞くまでそれを確認することはできなかった。私の組織で不可能だったことが、あいつらの組織にできるわけがない。
私が情報を手に入れることができなかったのは、私が動いた時点で情報が役員会の管理下に置かれて保護されていたからに他ならない。あいつらが私よりも先に情報を確保する方法は一つ、情報を提供した者が居るのだ。それはつまり、鬼村に与した学生が居るということである。
その情報提供者を特定できれば、神人の情報に辿り着くことができるかもしれない。
「はあ」
新聞会写真部の部室に備品を置いた円は溜息を吐いた。
気乗りはしているがやりたくないのが正直なところだ。何故なら、私は千田会長に目を付けられているからだ。まさか横領が知られているとは終ぞ思いもしなかった。
会費を横領していたのは事実だが、それはヒットラーとスターリンの組んず解れつな官能小説を書くのが主たる目的ではない。官能小説は横領の動機を誤魔化し隠蔽するためであり、多少の個人的な副次的目的である。しかしそれは横領が発覚した場合の為に用意した囮であり、つまり私の正体と目的を守る最終防壁なのだ。
横領の段階で発覚しないように、出来る限り巧妙に台帳の改竄などの工作をしていたはずだ。しかし千田会長はそれを見破った。囮に引っかかったのは、幸運だったのか千田会長の意図なのかは分からない。ただ、私にはどうしても単なる幸運だったとは思えなかった。
私が教室を出るとき千田会長はどうして声を掛けたのだろう。その時は茶化してやり過ごしたが、実際は冷汗が止まらなかった。しかし千田会長は、それ以上何も言ってはこなかった。何故だろうか。
千田 謙司。
死ねば良いのに。
公共情報保安省の件は私の身の安全を第一に確保しつつ調べるとしよう。
円は結論を出すと、再開の迫る900番教室へ急いだ。