#4 北海道大学
すこし、本筋から外れます。
※この作品に登場する同名の実際の団体、組織、企業、事件とは一切関係はありません。
※この作品には長期連載および不定期更新が予測されます。ご了承ください。
※この作品には過度な著者の自己満足が含まれています。ご了承ください。
※この作品には誤った情報、解釈、認識、価値観が含まれています。ご了承ください。
時は遡り、北海道大学正門。
それは桃華と鬼村が大学を出る十五分前の事だった。
「失礼、あなた方は?」
中年の守衛は正門に現れたコートの男たちに警戒心を持ちながら近づき、一番手近な男に慇懃無礼な態度で声を掛けた。しかし、男は守衛を一瞥しただけで応えない。代わりに別の男が胸ポケットから身分証を取り出し守衛に応対する。
「我々は公共情報保安省です。大学構内に我々の捜索する人物が居ます。捜査にご協力をお願いしたい」
守衛は相手の正体に多少驚いたようだが、強気な態度は崩さない。
「山内隊は正門、水野隊は裏手に回って出入り口を封鎖しろ。誰一人大学構内から出すな。必要なら実力を行使しても構わん。但し突入は増援が到着してからとする。残りは私に付いて来い」
守衛を無視した男はどうやらこの集団の指揮官のようだった。指示を受けた部下はすぐさま行動に移す。
「君、事務室まで案内してくれ」
部下に指示を出していた男が守衛にも当然の如く指示を出した。出会いからも分かるように、この男が守衛を下に見ているのは明らかだった。その口調にも横柄な態度であることが感じられ、指示と言うよりかは命令に近かった。それを表すかの如く、守衛の返事を待たずに歩き始める。校門をあと一歩で潜ろうかと言うところで、男の歩みを守衛が遮った。
「令状を見せてもらえますか」
口調は丁寧だが、顔は強張ったままだ。構内の内と外で二人の男が対峙する。
「令状は無いが?」
「無い?」
「裁判所へ捜索差押許可状を申請しようとしたが、場所が場所であるからか上司が及び腰で私の申請を差し止めた。だから、今のところ令状は無い」
「では、立ち入り許可証も?」
「当然ながら無い」
守衛は表情こそ変化を見せないが内心男に脅威を感じていた。令状を携えなかった理由に登場した上司の判断は、その人物が弱腰であろうことを考慮しても強ち間違いとは言えなかった。
大学は現体制下で唯一政府の管理外に位置する存在である。それは多くの市民の支持を以て確立されており、即ち、これに政府機関、しかも、諜報を担う組織が立ち入ることは慎重な判断を要する行為であるのだ。しかし、男はそれを無視してここに来たのである。
だがしかし、脅威ではあったが令状も許可証も無いのであれば道理が立つのはこちらである。
「誠に申し訳ありませんが、令状、亦は大学の許可が無ければ、何れの行政機関も大学構内に立ち入ることはできません。立ち入り許可証は大学の法人事務局で発行しておりますので、そこに申請を出して頂いて、許可証をお持ちの上再度お越しください」
守衛はこの上なく丁重にお引き取りを願ったが、相手は一遍も引き取る素振りも見せなかった。
「確か、立ち入り許可証発行の諾否は学長がする決まりになっていたな」
行政が大学構内に立ち入る場合、大学法人事務局で立ち入り許可申請書に日付、官署名、責任者名、目的、立ち入り予定時刻及び時間を記入後受付窓口に提出し、学長の許諾を以て立ち入り許可証が発行される。だが、実際に学長の手元に送られることは稀で法人事務局の局長が学長代理として判子を押すことが通例である。但し、令状がある場合は許可を取る必要は無い。
「ならば、私が直々に赴いて許諾を取り付けようじゃないか。多少問題はあるが、こちらは反革命分子を逃がすわけにはいかない。我々が追っているのは神人なのだよ。貴様に感けている暇などない」
さすがの守衛も神人と言う言葉にたじろぐが、少し考え、自分には判断できないことと悟った。
「申し訳ありませんが、例外はありません。令状も許可証も無い者を通すことはできません。お引き取りください」
「飽くまで規則に則ると言うか」
「私は徹頭徹尾、仕事をするだけです」
その宣言に、男は胸ポケットから煙草を取り出して火を点けると低い声で語る。
「勘違いしてもらっては困る。君が判断に困り、ひとまず規則に則ると言う行為に落ち着いたのだろうが、抑々、これは君の存在が介入できる話ではないのだよ。しかし、君が頑なにその態度を取り続けるならば、我々も我々の仕事をせざるを得なくなる。それは我々も避けたいのだよ。不必要な仕事だからな」
男の眼光が鋭く守衛に向けられる。しかし、守衛は動じない。
「それは脅してるつもりか。一つ言っておくが、ここが何処だか理解した方が良い」
守衛の言葉の意味を男はすぐに理解した。正門での騒ぎを聞きつけた学生が集まり始め、あれよあれよと百人の集団を形成していたのだ。その内の一人が煙草の火を踏み消している男の方を向き、握手を求めた。
「初めまして、私は北海道大学統一学生戦線学生評議連合会会長、新島 総一郎です」
男は新島の握手を返した。
「緊急を要する事態であることは分かりますが、しかし、あなた方をそう易々と招き入れるわけにはいかない。それはご理解いただけますか」
「・・・ああ、良く分かっているよ。ジョセフ・マッカーシー上院議員と下院非米活動委員会による政府機関、軍組織、ハリウッドからの共産主義者の追放運動が行われたアメリカや、大学からの共産主義者追放の必要性を説いたアメリカ軍政庁民間情報教育局顧問ウォルター・クロスビー・イールズとアメリカ軍政庁司令官ダグラス・マッカーサーによって米英中占領区での公職及び一般職からの共産党員と共産主義者の追放運動が行われた日本連邦共和国。我が国ではこれを反面教師として憲法第二章『人民の基本的権利と義務』で全ての人民が平等であり基本的人権を享有していることを保障している。大学に関しては、憲法第二章第三十七条と第三十八条で学術の獲得、科学的研究と芸術的創造の自由、一定の自治権の保有が保障されている」
「しかし、条文と現実とでは大きな差がありました。実際に現実となったのは1958年、フルシチョフ前書記長のスターリン批判演説は、ソヴィエト連邦共産党内に於ける非スターリン化を促進させ、共産圏の国々に様々な影響を与えました。我が国では自由化を求める民衆運動が活発化し、スターリン批判により動揺していた日本共産党は国民の声に応じて、労働環境の改善と大学の自由と自治の関連法案を成立させました。法案成立により民衆運動は更に勢いをつけ、民主化を求める市民集会やデモ行進が盛んに行われるようになりました。しかし、ハンガリーの一件で状況は変わりました」
男は「ハンガリー」と言う単語にピクリと反応し、新島を低く見据え静かに警告を伝えていた。それは新島にしっかりと伝わっていたが、話を止めない。新島はその単語が危険を孕んでいるものであることは
分かっていた。覚悟の上の行為だったのである。
「当時、ハンガリーでも自由化を求める民衆運動が活発になっていました。しかしその運動は蜂起を含んだ過激なものとなり、遂にソ連の軍事介入を招きました。それを知った日本共産党は同じように民衆運動が起こっていた国内情勢に危機感を抱き、積極的にこれを取り締まるようになりました。厳しい規制に過熱していた民衆運動は徐々に沈静化しましたが、これに大学教授を始めとする学生が反発。1957年6月20日、東北大学ポポロ劇団の演劇会場に密かに潜入していた公共情報保安省職員二名に学生が暴行を働く、〈東北大ポポロ事件〉の発生後は国家と大学の対立は深まり、大学直轄の防衛組織である守衛隊が組織され、学生自治会は大学の自治を堅固なものとする為にその活動を活発化させた結果、学部やセクトの垣根を超えた超党派的学生組織である統一学生戦線が結成されました。研究と探究が学生の本分とするならば、このようなことに身を窶すべきではないと思います。しかし、それも大学に自由があってこそ。大学の自由は我々学生が行動し護らなければなりません。令状が無いのであれば、お引き取りください」
話の最中にも学生は集まり続け、その数は三百に達しようとしていた。いつからかシュプレヒコールの大合唱となっていた。
「「「「「「 帰れ!帰れ!帰れ!帰れ!帰れ! 」」」」」」
「「「「「「 帰れ!帰れ!帰れ!帰れ!帰れ! 」」」」」」
「「「「「「 帰れ!帰れ!帰れ!帰れ!帰れ! 」」」」」」
熱烈な非歓迎の言葉が罵詈雑言とともに投げかけられる。学生たちはその快活さを殺気で表していた。
――――
「中には入れそうにないですな。どうしますか、私はここに居ても何も得る物は無いと思いますよ」
騒動から少し離れた場所に居る二人の内の一人、薄灰色のコートを纏い、身長の割に筋肉が足りなさそうな細身の男性が、頭一個分背の低い上官だけに聞こえる声で判断を促した。
「エレーナ?」
しかし、エレーナと呼ばれた女性、エレーナ・ウリヤネンコKGB少佐は赤煉瓦の校舎を静かに見つめ反応が無い。声が届いていなかったのかと下士官は思ったが、声はしっかり届いていたようである。
「いや、予想外にも得るものがあった。随分と可愛らしい女の子だったわ」
下士官は首を傾げて上官の口元に自らの耳を近づけ、上官の顔色を窺った。自分の上司が普段言わない冗談めいたことを言ったような気がしたからである。部下の少し嬉しそうな顔を見た上司は、近づいた顔をすぐさま手で払い除け「気にしないで」と付け加えた。
「日向 武志部長、私は他の所へ行く。目標を捕縛出来たら知らせてくれ。それでは」
エレーナは端的にそれだけを告げると、部下共々軽快に大学を後にした。
――――
「分かった。手続きを踏まえた上でまた来よう」
「神人の背恰好を教えてくだされば、我々守衛隊が捜索いたしますが」
「すまないが、情報は開示できない。だが、大学構内に潜んでいるのは確かだ。これは私の推測だが、大学内部の者が神人を匿っていると考えている」
守衛と新島は息を呑んだ。
「明日、もう一度ここへ来る。君たちの言う通り令状を持ってな。そうだ、新島君。一つ忠告、いや、助言をしよう。固く信念を貫くことは大切なものを護る為に必要なことだ。しかし、頑なに信念を貫けば、多くの敵を作り破滅を齎すことにもなりかねない。今回、我々が追っているのは神人だ。神人は君らにとっても好ましくない人物だろう?我々の間に敵味方の区別は無い。区別を付けるのは明日の君たちの態度に如何であることをしっかりと認識したまえ」
「・・・分かりました。お心遣い感謝します」
新島は軽く頭を下げた。
「ああ、そうだ。君も、先ほどは失礼したな」
先ほどから一転しての態度だが、守衛はそれを素直な謝罪とは受け取らなかった。
「思っても無いことを言うんじゃねぇよ。信用無くすぞ」
「それもそうだな」
「本当に思っても無いことだったのかよ」
立ち去ろうと距離を空けた為に声が届かなかったのか、単に意に介していないのか、守衛に言葉に反応は無かった。
「よし、ここでの用事は終わりだ。お前らは先に戻って仕度しとけ。俺は人民警察に行ってくる」
日向は部下に命令を下しながら部下の開けたドアから車に身を滑り込ませる。
数台の黒いセダンが新島の視界から消えた時、周囲から歓喜の声が上がった。国家保安省を追っ払ってやったと言う戦果に沸き立つ学生に取り囲まれた新島に拍手と称賛が浴びせられる。しかし新島にはそれを受け止めている余裕は無かった。公共情報保安省の探している人物、しかも神人が大学構内に居ると言う問題は新島が会長に任命されてから初めて経験する重大問題だった。
「新島!」
人垣の中から自分の名前を呼ぶ声が挙がる。その声に聞き覚えのあった新島は助けを求めるかの如くその人物の名前を呼んだ。
「千田!」
千田 謙司は新島と同回生である。高校以来の仲の二人は志を共にして学生自治会に参加し、今や新島は北海道大学統一学生戦線学生評議連合会会長、千田は北海道大学統一学生戦線学生評議連合会役員会会長と、二人とも重役を勤めている。
「新島、大変なことになったな」
事の経緯を見ていたのか聴いたのか千田の顔も険しい。
「ああ。これは学生大会を開いた方が良いだろうか」
「だろうな。普通は定期的に開くものだが、この問題は学生大会相当の規模での協議が必要だろう。緊急で開催するしかあるまい」
「やはりそうか。それなら千田は役員全員に集合を掛けてくれ。場所は九〇〇番教室だ。出来るだけ他の学生も集めてくれ。私はその使用許可を取ってくる」
「今すぐにだな」
「取り急ぎ頼む」
そう言うと新島は集団を抜け校舎の方へ駆けて行った。
「みんな、聞いてくれ。これから臨時で学生大会を開く。今すぐ九〇〇番教室に集まってくれ。それから、ここに居ない学生にもこの事を伝えてほしい。なるべく多くの学生を集めるんだ」
集団からどよめきや当惑の声が上がったが、それもすぐに止み、何かしらの議論する者、知り合いにこの事態を知らせに走る者、全体としては静かな喧騒を纏いながらゆっくりと講堂の方へと移動して行った。
宣言の後、早々に集団から離れた千田が向かったのは「新聞会新聞部」の部室だった。
新聞会は役員会の下部組織であるが、発行している新聞が学生間コミュニティの形成に大きく役立っている事と、当新聞会を始め、東西の区別なく多くの新聞会が加盟している「日本学生新聞連盟」経由で輸入される大学自治の庇護下でなければ規制の対象となるであろう情報が、学生の間で重宝されているが故に大学に於ける影響力は強く、学生評議連合会でも役員会の管轄下でありながら会長職を設け、独自の指揮権を有し役員会と同等の発言力を持っている。一定の指揮権が与えられていることは、新聞の自由性を確保することと多量の仕事の処理を考慮した結果で、これは成果となっている。しかし、保有する権力の強さも相まって新聞会の独立意識を高めることになり、役員会の管理を外れる行動を取ることも屡で、新聞会の半ば役員会を蔑ろにした態度は役員会との不和を生むこととなった。
千田は新聞会新聞部と書かれた室名札の下のドアを四回叩いた後、「失礼」と言ってドアを開けた。
新聞会に於いて新聞部とは学生新聞の紙面を作成する部署で、ネタを仕入れ、原稿を書く取材班とそれに随伴する写真班、そしてその原稿と写真を使い紙面を構成する編集班で組織されている。
部室では小さな机で書類に囲まれながら頭を抱えて原稿を書いている者や渡された原稿に赤鉛筆で文章校正の訂正を書き込む者、仮の紙面上で写真を動かし構成を考えている者など、全ての人間が自分の作業を忙しなく熟していた。しかし、部室の大きさと主不在の空き机があることから閑散としている印象を受けた。そのお陰か編集作業をしていた一人が、千田が入ってきたことに気が付いた。千田が役員会会長であることから何用であるか察したようで、「部長」と呼ばれて物陰から顔を出した人物は千田の目当ての人物だった。
「千田会長がいらっしゃったと言うことは、噂は本当のようですね。何があったか教えてもらえませんか」
北海道大学統一学生戦線学生評議連合会新聞会会長兼新聞会新聞部部長の篠原 円は、壁に凭れながら冷静に言った。
「詳しく説明できるほど情報は無いけどな。公共情報保安省の奴らが令状も持たずにやって来た。曰く、大学に神人が居るらしくそれを捕まえに来たのだという。とは言え、元より手続きを無視した不当な捜査であることから我々は捜査への協力を拒否した。しかし、公共情報保安省は明日、捜査を正式なものにして改めて現れるそうで、これに対処すべく、今晩、学生大会が開催される運びとなった」
「なるほど。それで、私に会いに来たと言うことはつまり、その開催を広告するためのビラを作ってほしいってことですか」
「そう、ビラを配ることで早急に多くの学生を集め、更に学生評議連合会、役員会、新聞会、監査委員会其々の判子がビラに押されていれば、正確で信用のある情報を伝えられるし無用な混乱を避けられる。緊急で申し訳ないが印刷所での印刷を頼めないだろうか」
印刷所とはその名の通り、紙などの媒体に文章や絵、写真などを再現して印刷物を作る場所のことである。だが、大学は一切の印刷物をすることが出来ないようになっていた。当然のことながら、大学の自由と自治が認められた同時期に、創造的学術研究の促進の為に大学専用の印刷設備が必要であるとしてこの保有を政府に求めたが、政府は憲法第二章第九条に違反するとしてこれを拒否した。
―――憲法第二章第九条―――
人民は民主主義的な一切の言論、出版、集合、結社の自由を持ち、労働争議及び示威行進の完全な自由を認められる。この権利を保障するために民主主義的政党並びに大衆団体に対し印刷所、用紙、公共建築物、通信手段その他この権利を行使するために必要な物質的条件を提供する。亦、民主主義的大衆団体の国際的聯繋の自由は保障され助成される。
つまり、この条文にある提供される物質的条件は人民に等しく提供されるべきであり、輪転機及び謄写版等の印刷機と用紙及びインク等印刷関連用具用品は公共的有効性の観点からこれに該当するものとし、資本主義的な使用者を限定する専有化は厳しく戒めるべきであると政府は判断したのである。
この為、大学の諸活動に於ける一切の印刷物は、国営企業である「東日本総合印刷局」に委託しなければならなかった。
東日本総合印刷局は印刷業を生業とし全国に支局として印刷所を設置している。大学が印刷を依頼する場合、最寄りの印刷所に原稿を持ち込むのが通常である。だが、依頼したからと言ってすんなり印刷されるわけではない。
理由として二つが挙げられる。まず一つに印刷局の印刷量割当制度がある。印刷局が熟せる作業量は、政府より供給される物資量に比例(実際はそれより少なく七割程度)する。供給量は需要の影響を受けないので、必然的に限り有る資源をやり繰りしなければならない。使用量の割り当ては、社会性公共性の観点からその重要度を審査され、高いほど多く割り当てられるようになっている。日本共産党の機関紙「赤旗」が一番多く、それに共産党以外の政党の機関紙、タブロイド紙、大衆雑誌が続く。現在大学に割り当てられている量では、運営に必要な分で割当量をほとんど使ってしまう状態なのである。
次に印刷物倫理審査会の存在がある。印刷物倫理審査会は出版・印刷書籍販売委員会の下部組織に位置し、法に基づき検閲を行う機関である。実際に印刷を行う前に、原稿に不適切な内容が無いか検閲を掛け、これが認められた場合はその箇所の訂正、亦は削除をしなければならない。検閲は分け隔て無く印刷する全ての原稿に対し行われるが、特に大学に対して厳重な検閲が施されていると思われてならなかった。
印刷設備の所有を認められなかった大学は、この二点、割当量の拡大と印刷表現の自由化を求めた。これに対して政府は、東日本総合印刷局の印刷量割当制度は厳正な審査と公正な判断によって定められている為、大学のみを拡大させることは民主主義的ではないとして認められないとした。但し、印刷表現の自由化に関しては作業効率の観点から改善が認められるとし、しばらくして規制の緩和が施された。
しかし、先ほど千田の言った「印刷所」は「東日本総合印刷局」のことではない。
東日本総合印刷局での印刷物作成は、検閲が多少緩くなったとは言え大変時間が掛かるものとなっている。最短でも検閲から印刷まで一週間を要し、長くなることはあっても短くなることは無いので大学側がそれを考慮して印刷物作成の日程を組むしかなく、緊急に印刷が必要になった場合でも諦めるほか無かった。だが、これは印刷局で印刷をする場合の話である。印刷局の不便と印刷物倫理審査会の検閲に対してサミズダート(自己出版)が発達するのは当然の結果だった。
「それで?」
「それでとは?」
「人に頼み事をするときは何かあるでしょう。まさか千田会長ともあろう方が手ぶらで来たわけじゃあないですよね?」
「・・・まあ、ろはで受けてくれるとは思っていなかったが。がめつくない方が女性として受けが良いんじゃないか」
「がめつくないと会長職は務まりませんよ。それより、手土産が無いのなら代わりに私のお願いを聞いてもらえませんか?」
そう言うと円は千田の至近眼前に一枚の紙を突き出した。視点の合わせることが出来る最短距離まで顔を離すと、その紙には『承諾書』の題名が書かれていることが分かった。
「なんだこれは」
「承諾書ですよ」
「それは分かる。何の承諾書なのか聞いているんだ」
「簡単に言うと次の定期学生大会の予算決議で我々新聞会が提出する予算増額を認めてくださいって内容です」
千田は腕を組み眉を顰めた。
「今の額では足りないと言うか」
「足りないとは言いませんが、新聞会では仕事の内容上有り余ると言うことはありません。もっと発行部数を増やしたり、もっと印刷所の秘匿性を向上させたり。それは新聞会ばかりでなく学生自治会全体の利益になると思いますが」
「篠原、お前無茶言ってるって分かっているか。予算の増額を希望しているのは体育会や文化会も同様だ。それに、今の新聞会の予算額は新聞会の必要性を加味して我々役員会が贔屓目で付けたものだと言うことを理解してもらいたい。確かに我々役員会が増額の必要性を訴えれば実現は難くないが、学生自治会内での不和を増大させることは確実だ。最悪、内部分裂を招きかねない。代替案を考えておくから今は借りにしておけないか」
「無理です」
円は即答した後、大仰に呆れたような手振りをする。
「印刷局以外での印刷行為は法を犯した犯罪行為で、大学に自治権があったとしても治外法権があるわけではないですから取り締まりを受けるんですよ。それから逃れるために印刷物の誤魔化しや台帳の改竄、その他諸々。緊急での印刷は隠蔽工作が不十分にならざるを得ないんです。そうなれば、多少なりとも印刷所を危険に晒すことになる。これは有耶無耶にできる個人的な貸しの一つや二つで済ませられるものではないんです」
「私の信用無いな」
「いえいえ、千田会長。貴方は信用できる人です。作った借りは必ず、それ相応の形で返してくれるのでしょう。ですが、今回ばかりは口約束で済ませられる話ではない。我々が貴方方の為に危ない橋を渡るほどの信用を得るには、書面で契約を交わして頂かないといけないわけです」
「そうか・・・。ああ、分かった」
「分かってくれましたか。じゃあ、これに署名を」
「ああ、よく分かったよ」
千田は再度眼前に差し出された書類をそっと押し下ろす。
「どうやら使いどころはここみたいだな」
「使いどころ?」
「篠原が外で何をするかは自由だが、会費と印刷所の私用は頂けないな」
千田の言葉を聞いた円は、一瞬の間に千田の言葉を噛み砕き考えを巡らせ一つの答えを口にした。
「あーっと、えー・・・まさか、読んではいないですよね?」
「俺にはよく分からなかった」
円は青ざめた表情を浮かべた後大きく項垂れた。望んだ答えでは無かったからだ。
「しかしどうして、スターリンとヒットラーがロミオとジュリエットみたいな関係になっているんだ。それに二人とも絶世の美少年だし」
「え?そりゃあ、美少年じゃないと誰も読まないし。まあ、それは置いておいて、それをどうするおつもりですか。千田会長」
「学生自治会の規則に於いてお前の行為は言わば横領に当たる。新聞会の性質上、君の処分は役員会と監査委員会、それに学生評議連合会会長を加えた人員で臨時委員会を開いて決定される。あの『いけない大祖国戦争❤』も証拠として提出されるだろう」
「題名を言うな」
「新聞会は学生評議連合会内で強い影響力を持っている。だが、新聞会は飽くまで役員会の下部組織だ。最終的な処分は各委員会の意見を以て決定されるが、最も尊重される意見は役員会のものだ。つまり、君の処分の程度は私の裁量に依る。断言しておくが、私はお前を新聞会会長辞任させ学生評議連合会から追放する」
千田の言葉は重いものだったが篠原は至って動じた様子は無い。
「なるほど、そうなりたくなければ大人しく従えと言うわけですか」
「そう言う言い方をされるとこちらが悪役みたいで感じが悪い。勘違いしてほしくないのだが、これは脅しではなく提案だ。現状、印刷所のコネを持っているのはお前だけだし、辞任させた場合の後任の選定と引き継ぎも手間が掛かる。出来ることならば辞任は避けたい。だが、横領に対して重い処分を下さなければ学生に対して面目が立たない。そしてお前も辞任は避けたいだろう。となればつまり、私がこの問題を問題にしなければ良いってことだ」
「ああ、つまり問題になる前に闇討ちしろと?」
「違う」
「冗談ですよ。わたしが素直にビラを刷れば横領は有耶無耶にしてくれるってことですよね」
「そうだ」
円は自らの胸の無い胸ポケットから手帳を取り出すと、何やらすらすらと鉛筆を滑らせる。
「学生大会でしたっけ。開催場所はどこですか」
「九〇〇番教室」
鉛筆が滑る。どうやらビラに記載する内容をメモしているようだ。
「それではビラはちゃっちゃと作って刷りますので、学生評議連合会と役員会、それと監査委員会の判子を持って来ておいてください」
「いやあ、引き受けてくれて嬉しいよ」
「何だかその反応、むかつきます。用が済んだのなら帰ってください」
千田は言われるが早いか既に立ち去ろうとしており、際に「じゃあ、頼んだぞ」と言葉を残した。