こい
「ねぇ、恋でしょ?どう思う?」
いきなり何だよ。・・・別にどうも思わないけど。
「えー、すごく恋味なのに平気なんだ。」
なんだ、こいって、そっちの濃いか。なぜ俺は恋と勘違いしたんだろう?
「あのさ、物思いにふけっている余裕があるんなら・・・この失敗したハンバーグの後処理、任せてもいいよね。食べられるんでしょ?」
まぁいいけど。
「ありがと!でもまぁ、どうしても食べられなかったら残して大丈夫だから!先に部屋で勉強会の準備してるね!」
彼女は速足で自分の部屋に戻ってしまった。・・・うわ、このハンバーグ塩とナツメグ入れ過ぎだまっず
「わぁ、恋だ」
いや、鯉だろ。
「えっ。ちゃんと恋って言ったよね?」
所変わってここは神代植物公園。あの日から俺は、彼女が発する「こい」という言葉が全て「恋」と変換されるようになってしまった。原因は分からない。しかし、あの日何かがあったことは覚えている。あぁ、しっかりと覚えている。
「恋ってさ、きっと私達より賢いよ。」
いや、俺たちのほうが賢いだろ。何てったって脳みそは奴らの数百倍もあるし、数式だってすらすらとけちゃうんだぜ?
「そういうことじゃないの。・・・賢いよ、恋は。」
彼女はそう言って池の鯉を見た。橋の下には、俺達の持っている餌を求めたがめつい奴らが争っているだけだった。・・・やっぱり賢いとは思えない。
「ほら、あれを見て。ああ言った理由がわかるからさ!」
促され、彼女の指さす方向を見た。
そこには二匹の鯉が寄り添って泳いでいた。暗い黄土色と深い青色の鯉。彼らはお互いを他の鯉に見せつけるかのように泳いでいた。少し水が濁っていたのと彼らの色が地味なので、すぐ見失ってしまったが。
あれが何だよ。ただのつがいの鯉じゃないか。
「そう、つがいなの。しかも、どちらもかなり年を取っているの。老夫婦なのよ。」
「多分ね、あの二人は今までいろんなことがあったと思うの。良い事もあっただろうし、喧嘩も、お互いにに失望したこともきっとあったと思うの。でもあの二人はすべて乗り越えた。そして今も、恥ずかしがらずに一緒に泳いでいるの。すごいでしょ、恋なのにそんなことができるのよ。」
それは、感情移入のし過ぎじゃないか。大体鯉だって好きで一緒にいるわけじゃないと思う。ただ、いつも一緒にいるから今日もそうしているだけなんじゃないか?
「ふーん。でも賢いもん私達より!」
彼女は昼間の植物公園で、人も少なくはないのに、人目もはばからずに大声で言った。
「意識しあってるのに!ムードはなかったかもしれないけど、キスするぐらい大好きなのに!
それを認められないし!愛し合うどころか付き合っての一言も言えない私達より、誰かに冷やかされるのを恐れて一歩踏み出せずにいる私たちなんかよりっ!」
ここで彼女は言葉を切って、こちらを少しだけ見た。すぐに池に目をやってしまったけれど。確かに俺を目で射抜いた。
「ずっと、賢いもん。」
池の鯉はびびってしまったのか、どこかに泳ぎ去っていった。遠目から見ていた人もいなくなっていた。いたのはあの二人の老夫婦だけ。
そうだ、思い出した。いや、やっと冷静に考えられるようになった。
あの日、俺と彼女はキスをした。・・・正確には口移しというやつだが。あまりにもまずそうなハンバーグを見て、俺は味見を拒否した。代わりに味見をした彼女が急にこちらに近づいてきて・・・。と言う訳だ。
「ねぇ」
何だよ
「付き合ってくれないかな」
「ほら、こうやって人前で・・・今はいないけど、公開告白みたいなのしちゃったしさ。ここで付き合わないとその、何・・・メンツがさ?私の、メンツがぶち壊しじゃん!ねっ、お付き合いごっこでもいいからさ!お願いします!」
そういって手を差し出した彼女の手は震えていた。俺はいったい何をやっているのだろう。女の子にこんな恥ずかしい思いを一人でさせて。あの老夫婦の堂々としていた理由が分かった。確かに賢い。恥ずかしさは二人で分ければいいのだ。
俺も彼女と恥ずかしさを分かち合いたい。
俺は手を取る代わりに、ぎゅっと抱きしめた。
彼女はびっくりしたような顔で僕を見上げ、直ぐ満面の笑みになり、そのまま泣き始めた。
「嬉しい」
「私達、あの鯉に一歩近づいたね」
二人は泳ぐのをやめてこちらを見ていた。まるでこちらを静かに、懐かしいものを見るように見守っているようだと思った。
いつの間にか彼女の涙は止まり、いたずらっ子のような笑みを浮かべていたことに気づく。
「ねぇ、知ってた?あの人ごみの中ね、えっちゃんがいたの。」
市原英子。噂好きの、特に他人の恋愛事情に目がない奴だ。あいつがいたとすると、かなり面倒くさいことになりそうだ。・・・まさか彼女は、それを見越して?
「学校でも、見せつけちゃおっか!ラブラブ具合をさ!」
しょうがないな、付き合ってやるよ。一緒に恥ずかしい思いしてやる。二人で半分こだ。
恋は実り愛になった。きっともう、「こい」が「恋」に聞こえることもないだろう。
彼らが仲睦まじくなって去ったあと、遠目から見ていた人や鯉が続々と戻ってきた。
鯉も人もおしゃべりが好きだ。あの二人の話ばかりしている。笑うもの、羨ましがるもの、怒るもの。大食いの貪欲な鯉ですら、餌に目もくれず、ずっと二人のことを笑っていた。
皆いつもとは少し様子が違っていたが、老夫婦だけはいつもと変わらず、しかし少し何かを懐かしむかのようにゆっくりと、他の鯉も、人間すらも気にせず、悠々と泳いでいた。