真夏のペンギン
勤めていた小さな証券会社が倒産し、週に一度は面接を受けに行ったが結果は思わしくなかった。
その年の夏はとても暑かった。数年前に平成という新しい年号に変わっていた。バブルがはじけた直後で、景気は最悪だった。ちょっとしたきっかけで大きな会社があっという間に消えた。世の中は沈滞ムードで、人々は浮かない顔をしていた。海外から山のように押し寄せていたミュージシャンたちも潮が引くように姿を見せなくなっていた。
人口五十万の街。その西に位置する低い山の麓に動物園がある。この街に住み始めて五年になるが、動物園の周辺はいつも人が少なくて景気が悪そうだった。しかし特に憂慮することでもなく、バブルの前も後も常に安定してそのような様子だから何の心配もないという噂だった。
会社が消えてからの僕は散歩がてら近所のペットショップへ出かけるようになった。店の奥にはもう一つドアがあって、そこは例の動物園へ通じていた。
ペットショップは動物園直営で、四十歳くらいの彫りの深い顔立ちをした冗談好きな男性と、二十歳くらいの目がぱっちりとした可愛らしい女性の二人が働いていた。毎日のように奥のドアを抜けてペンギンに会いに行く僕を見ても、彼らは入園料を払えとは一度も言わなかった。本当はきちんと千五百円払わなければいけなかったらしいのだが、目と鼻の先にあるペンギン舎くらいまでならいいと思われていたのだろうか。
僕は別に動物が好きというわけでもない。犬も猫もライオンも象もキリンも嫌いだ。ペンギンだってたいして好きではなかった。
ペンギンは大きなおさかなのようなキョトンとした目で僕を見た。そんなペンギンたちを見るといつも思う。南極から連れてこられてこんな暑いところで毎日苦しくはないのだろうか、彼らの毎日の楽しみは何なのだろうか、たまに現れる人間を観察することが退屈しのぎにちょうどいいのだろうか、それとも仲間たちとの会話が至福の喜びなのだろうか。
それにしても、どんなことを話題にしているのだろう。毎日暑いね、と言っているのか、今日の餌は新鮮だったねと喜び合っているのか、南極に帰りたいねと故郷を懐かしがっているのか。彼らのおさかなのようなキョトンとした目からは何の手がかりも得ることはできなかったが、僕はそうやっていつもいろいろなことを想像するのだった。
失業給付があと一ヶ月になった頃、職安で知り合った人から紹介されて深夜から早朝の青果市場でアルバイトをするようになった。日本中から野菜や果物を満載したトラックがやってきて大きな屋根に覆われた市場に入ってくる。荷台から段ボール箱に入った大根や小松菜やジャガイモやナスやスイカなどを下ろし、アスファルトで舗装された構内に丁寧に積み上げ、それぞれの種類毎に大きなタワーを作った。不幸にしてトラックの荷台から落ちて砕けたスイカを休憩時間に分け合って食べた。もう死んでもいいと思うほどうまかった。
一晩で一万以上稼ぐことができたが仕事はきつかった。朝になってアパートに戻ってくると死んだように眠った。職安にも通い続けた。このまま就職が決まらなければ一生青果市場で大根やスイカをトラックから降ろし続けるのだろうか。いつまで体力が持つのだろう……
夕方になった。今日もペットショップへ行き、店員と冗談を言い交わす。それからあたりまえのようにペンギン舎へ向かう。風が止んだ園内はとても暑い。こんなに暑ければ、いや、たとえ暑くなくてもペンギンは僕のことを待ってはいないし、僕の姿を見てもちっとも嬉しくはないだろう。なのに僕はペンギンに会いに行く。世の中の誰も必要としていないのに僕はこうして世の中に留まっている。明日突然僕が消えてしまっても誰も困りはしない。ペンギンに必要とされてもいないのに僕はペンギンに会いに行く。今突然僕が消えてしまってもどのペンギンも決して困りはしない。でも、そんなことはどうでもいい。あの大きなおさかなのようなキョトンとした目を見ていると幸せな気持ちになれることに気付いたのだ。理由はわからないのだけれど……
夏が終わる頃、卸会社の事務員に採用された。職安で知り合った仲間から「運がいい」と言われた。次第にペンギンに会いに行く回数が減り、行かなくなった。
あれからおよそ二十年。近隣の街にあるいくつかの青果市場が新しい場所に統合移転することになり、人員整理に応じた。事務員でまだ独身なのは僕だけだ。
梅雨の晴れ間の明るい朝。今日が最後の出勤。古い車のギアをニュートラルからローに入れ、クラッチを離す。車はゆっくりと進み始める。再就職先はまだ決めていない。これから先の自分をどうするのか、しばらく考えたかった。明日からの予定は何もない。
朝日が眩しい。今日も暑くなりそうだ。ギアをセカンドからサードへ入れた時、ふと思った。あのペンギン舎はまだあるのだろうか、ペンギンは今もいるのだろうかと。
そうだ…… 明日は動物園に行ってみよう。毎晩ライオンが啼いているからまだ潰れてはいないはずだ。大きなおさかなのようなキョトンとした目のペンギンたちを再び見ることができることができるかもしれない。よくわからないけれど、なんだかわくわくしてきた。
明日も暑いに違いない。あの夏のように。僕はアクセルをゆっくりと床板まで踏み込んで充分に加速し、ギアをトップに入れた。