■三章 01・白い世界
■□三章
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白、白、白――。
どこを見回しても、辺りは白一色。エリノアを覆い隠してしまう白は、まるで拒絶されているような気さえしてくる。
足を一歩踏み出せば、それは冷たくてしっとりとした水気があった。やがて白は溶けだし靴を濡らす。直接触れているわけでもないのに、感覚が気持ち悪い。
冷たい空気、乾いた風。空から落ちてくる白は、エリノアと眠っている母の上に降り積もる。
母は、ピクリとも動かなかい。仰向けに、曇天の空を見るように。青白い顔を見せて、静かに目を閉じていた。唇は、青紫色だった。エリノアは傍で膝を突き、落ちていく雪に埋もれるままにその姿を見ていた。
ゆっくりとエリノアは手を伸ばす。肩に触れる。まだ、母の体はあたたかかった。指先に触れた雪が溶け、赤くなった皮膚の上をつたう。もう一度、肩を揺らす。揺さぶられるまま動く体に、意識があるようには思えなかった。
エリノアは震えながら、母の首筋に二本の指をあてた――。
白く吐き出された息が、舞い上がる。
脈は、なかった……。
エリノアは知っている、あの時の父と同じこの状態を。たった一つの言葉でしか、言い表せない状態。
一緒に国を出てきた母が、死んだということだ。
ぱたりと手をおろす。雪に手が入っているが、気にならなかった。
驚きはなかった、しかも、なぜか悲しくもないのだ。まるで逃げている間に、感情をどこかに落としてしまったみたいに。本当なら、泣いて縋って声を上げて、母の死を受け入れなければいけないのに。
頭が考えることを止めてしまったように、エリノアは呆然と、母の遺体をただ見ていた。
国を出たときのままの服は、もう防寒の役目を果たしていない。風が吹けば隙間から入り込んでくる冷気が、容赦なく体の熱を奪う。このままここにいれば、母と同じ場所にいけるのではないか? ぼんやりと、エリノアは思った。
真冬の森を抜けるのは、やはり無謀だったのだろうか。本当なら、五日もかからずに隣国についているはずなのに。エリノアも母も、深い森の中を歩いたことはない。ミレハには、人が入り迷うような森はなかったから。
ましてやこの雪だ。旅なれた商人でさえ、雪の中の道選びは慎重になるのだ。家から持ち出した、いつ作られたかわからない地図が頼りない命綱となった。
国境の門で出会った商人たちが、きちんとその役目を果たしてさえいれば……。エリノアを売ろうと、襲ってくるようなことをしなければ。母が怪我を負うこともなかった、森の中を逃げ回ることもなかったのに。
エリノアは空を仰ぐ。曇天の空は、エリノアがミレハで見た、城が焼け落ちる黒煙の跡のようだった。
内乱により起きた混乱は日ごとに増大し、治まる様子も見えず。いつしか国を出て行く者が増えていった。気が付けば、近所に住んでいた人が何人もいなくなっていた。
王が変わったものの、先の見えない不安に、母がエリノアをつれて国を出ることを選んだ。流行り病で亡くなった父の墓前に国を出ることを話し、隣国のスピカヴィルを目指した。
それなのに、なぜ、こんな雪の中で自分は立ち止まっているのだろうか。
どうして母は、こんな冷たい雪の上で眠ってしまったのだろうか。
「お母さん……」
「お前、そこで何をしている?」
まだ若い男の声に、エリノアはのろのろと顔を向けた。
真っ白な雪の中に立っていたのは、深い緑色のコートを着た青年だった。雪に濡れたフードの下から覗く黒い髪と、一際強く惹きつけられる瞳。右目は森の緑色で、左目は空の青色。
その二色の瞳がエリノアを見て、そして、雪に眠る母を映した――。
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(いやな夢――。まだ覚えている。あの時の、お母さんの体のあたたかさ。それに、雪の冷たさも)
忘れたいのに。けど、それは忘れてはいけないもので。
雪が溶ければ、春が来るのに。記憶の中と心の雪は、いつまでたっても溶けない。
(どうしてお師匠様はあの時、あの場所にいたのかしら。フィスラとは正反対、ロベリタ国境近くの場所に)
枕に深く頭を沈めて息を吐くと、エリノアは目を開けた。真っ先に見えたのは、屋敷の自分の部屋だ。間違えようのない場所。もうだいぶ日が高くなっているらしい。“開いた”カーテンから、差し込む日差しが眩しい……。
「――っ! 寝坊した!?」
日が昇っていること、カーテンが開いていること。そのことに気が付いて、エリノアは一気に目が覚めた。毛布やら何やらを蹴飛ばす勢いで起き上がり、出しておいた服に着替える。やっぱり前日までに準備をしておいてよかったと、本気で思った。
一人がけのソファーに置いた荷物を引っつかんで、大きな足音を出しながらエリノアは階下に急ぐ。
キリエが、まだ出発していないことを祈りながら。
慌てて階下におりれば、扉の開いていた談話室で、初老の男――ライナーがソファーに座って寛いでいた。扉から中を覗くようにしていたエリノアに気が付くと声をかける。
「おはよう、エリノア。すっかり寝坊してしまったようだね」
「は、はい。すみませんでした。あの、まだ出発してないんですよね?」
「そりゃそうさ。私がここにいるからね。御者がいなければ馬車は動かない」
今日、配達の帰りに同乗させてもらう商人のライナーが、朗らかに笑いながら言った。
まだ出発していないことが分かると、エリノアはほっと息を吐く。
「それに、玄関前の雪かきをしないと馬車が回せない」
……そうだ、昨日お師匠様が言っていた。降りが多かったら玄関前の雪をかく、と。さっと、血の気が引いてくる。
「た、大変!」
その場に荷物を放り投げて、エリノアは玄関に駆ける。
「おいおい。エリノア、雪かきなら――」
寝坊したうえに、雪かきすら手伝わなかったと分かれば何を言われるか分からない。
すでに手遅れな気がしなくもないが、エリノアは大量の冷や汗をかきながら玄関扉を開けた。
エリノアが扉を開けるのと、人の腰の高さほどもある雪だるまの頭部にスコップが突き刺さったのはほぼ同時だった。
「あああー! せっかく頑張って作った雪だるまが~~~!!」
「遅い」
頭にスコップが突き刺さった雪だるまを前に、驚愕の悲鳴をあげたのはライナーの娘ニルスだ。
隣で嘆くニルスに視線すら向けず、キリエがエリノアに言い放ったことは実に短い。
不幸な雪像に成り代わってしまった雪だるまに、エリノアの腰が引ける。あれはもしかして、自分の頭のつもりでスコップを突き刺したのではないかと思ってしまう。そうでないことを切実に願う。本物のエリノアの頭に突き刺したら死んでしまう。
「おおおお師匠様、寝坊してすみませんでした!!」
エリノアは勢いよく頭を下げる。キリエがどんな顔をしているのか、恐ろしくて見れない。
キリエからの答えは何なのか? 次に発せられる言葉はどんなものになるのか。まるで判決を待つ囚人のようだ。
しばらく待てども、キリエからの声はなく。やがて小さなため息が聞こえてきた。
「ダニエラ。こいつの身支度を手伝え」
「へ?」
思わずエリノアは、ぽかんとした表情でキリエを見る。予想だにしないセリフに、一瞬考えが止まった。
キリエが雪だるまからスコップを引き抜くと、ニルスが慌ててその出来た隙間に雪を埋める姿が見えた。ものすごく気合を入れて作ったらしい。
「寝間着で飛び出さなかったのは褒めてやる。顔を洗うのは忘れたようだがな」
「あ……」
とにかく着替えてキリエのところに行くほうに考えがいってしまって、そっちをすっかり忘れてしまった。今の自分の顔がどんなものなのか、ある意味顔を見たくない!
「エリノア、こちらに来なさい。それではキリエ様、失礼いたします」
いつの間にかそばにいたダニエラに促されるように、エリノアは出てきたばかりの屋敷の中へと戻ることになった。
事前に用意されていたお湯に、相変わらずの準備のよさに驚きながら、エリノアは身支度を整える。絡まってほどけない後ろの髪をダニエラに梳いてもらいながら、エリノアは息を吐いた。
いつものように一分の隙もないメイド姿のダニエラに、起こしてくれてもよかったのにと思ってしまうが、結局起きれなかった自分が悪いのだからどうしようもない。そもそも昨夜は、自分がベッドに戻った記憶すらないのだ。いったいいつ眠ったのか。
よくよく思い出してみれば、夜中に来たあの依頼人、シエネとの会話の途中でぶつりと記憶が途切れている。お肌の話から寝るようにと言われたとたん、朝になっていた。
「エリノア。昨夜来たお客様のことは口外しないようにと、キリエ様からの伝言です」
「え? あのシエネさん、ですか?」
アンカルジアの人がスピカヴィルに、それもキリエのところに来ていたから?
「そうです。シエネフィルミリアースタ様は、本来であれば気ままに外出できるような立場の方ではありません。キリエ様の所に来るときでさえ、煩雑な手続きを踏んで来ています。昨夜はまったくの想定外の訪問でした」
今はこっちも忙しいと、シエネが言っていたのはエリノアも覚えている。高貴な方、それこそやんごとなきご令嬢なのだろう。けどこの国の貴族ではないはずだ。スピカヴィルでは珍しい白銀の髪を持つ貴族がいるなら、話題になっているはずだから。
魔道具とは違う動きを見せた、工房の中の小物たち。……あれは、魔法なのではないのか。もしそうなら、シエネはやはりアンカルジアの貴族で。今は忙しいのは、テイラーズとの戦争の準備。剣をおろせばお飾りというのは、階級の高い女性兵士あたりだからなのか……。
「普段はあのようなことはありません。あのお客様には、エリノア、あなたは不用意にかかわってはいけません」
「それって……」
目の前の鏡を通して、エリノアはダニエラを見た。けれど鏡の中のダニエラは髪を梳く手を見ていて、視線はあわない。
「“権力者”の暴力は、目に見えてわかる力だけとは限りません。いいですね?」
「は、はい。わかりました」
不意に、ダニエラと視線が重なった。射るような瞳に、ある種の強制力のようなものを感じる。
つまり、シエネという依頼人はそれだけの力を持っているということだ。術具技工師など、その気になればいつでも害すことが出来るだけの権力が。
思わずごくりと息を飲む。技工師は、依頼人のプライベートな事柄に触れる。だからこそ、外に話すことはない。依頼人自身が口外しない限り、漏れでた情報はすなわち、術具技工師の信用に直結するのだから。
「さあ、髪も梳き終わりましたから行きましょうか」
ダニエラの後ろに隠れるように、エリノアは談話室へと向かう。ライナーと一緒にキリエもそこにいるのだろう。
予想どおり部屋の中にキリエはいた。キリエが、問うような視線をエリノアたちに向けると、ダニエラが静かに答える。
「確かに、準備を“整えました”」
キリエの、その釘を刺すかのような鋭い目に、背中に冷たいものを感じながらエリノアも同じように頷いた。
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