■二章 01・翼手族の翼
■□二章
その日も、天気は晴れだった。換気のために工房の窓を一箇所開けて、街へ行く準備を整えていたエリノアたちの所へ、訪問客がやってきた。しかも“窓から”。
「よぅ、嬢ちゃん。元気だったかい」
渋い声でエリノアに声をかけたのは白く長い髪を後ろで縛った、褐色の肌を持つ壮年の男だった。なにやら手に、大きめの紙袋を持っている。
「クロードさん。いらっしゃいませ」
「おう。メンテナンスに来たんだが……キリエは手が離せなさそうだな」
「はい。お師匠様は今、新しい術具を作っているので」
翼手族特有の、背中の翼を畳んで工房へと入ってくる。ただし彼の左の翼は、付け根に無骨な骨組みのある仮初めの翼だ。キリエの術具――それもかなり変則的な作り方をしたもの。
製作法が書いてあるノートを見たが、エリノアは頭が痛くなりそうだった。かなり時間をかけて読み進めてみて、ようやく理論“は”飲み込めた。作れる気が全くしないけど。
「だったら、嬢ちゃんがメンテナンスしてみるかい?」
「む、無理ですって! そんな複雑な術具!」
「かっかっかっ! ま、何事も経験だぞ? 嬢ちゃん」
エリノアが勧めた椅子に座ると、クロードは手慣れた様子で左の翼を外していく。
その昔、空中から落下した衝撃で神経を痛め、翼が動かせなくなってしまったクロード。残された翼も折り、人に紛れて生きていくか悩んだ時、キリエに出会ったらしい。キリエとしても実験的な物として術具を作ったらしいが、残念なことに治験者が見つからず……。互いの利益が一致し、クロードは翼の術具を身に付けた。
落下した理由が女を取り合ってと言っていたが、果たしてどこまで本当のことなのか……。
「本人がそう言っているんだ。せっかくだから見せてもらえ」
「ええ!? お師匠様!」
「製作法は一通り読んだだろう。崩し方は分かるはずだ」
「で、でも……」
メンテナンスは崩すことから始める。分解と呼ばずに崩すと言うのは、術具技工独特の言い回しだ。
ちらりと、エリノアはクロードの術具を見る。恐らく、これ以外には存在しない、世界に一つだけの翼の術具。壊したりしたら大変なことになる。
「基本は通常の術具と変わらない。崩せば同じだ」
エリノアが術具技工を学ぶにあたって、一番初めに覚えさせられたのは、作ることでも崩すことでもなく、『壊す』ことだった。
どこを傷付ければ動きに支障がでるのか、どこまで深く傷を入れれば動きが止まるのか、どこを叩けばネジが緩むか、どの部分に刃先を入れれば“体から”外れるか。
たった一瞬、一つの動作だけで術具をただの飾りに変えてしまう。その全てを教わった。自分たちにはそれが出来る。
「あ、あの、ノートを見ながらでもいいですか?」
キリエとクロードの様子を窺いながら、エリノアは訊ねた。
「かっかっかっ。ま、自分が安心できる方法でやりゃーいい」
「好きにやればいい。失敗したら直せばいいだけだ」
視線だけを向けて言われたキリエの言葉に、エリノアは強く頷く。クロードさんから許可も出た。大丈夫。何かあってもお師匠様が助けてくれる。
クロードから翼の術具を預かると作業台の上に置き、引出しから製作法を書き写したノートを出す。道具は全て揃っている? ノートは間違っていない? 大丈夫、準備は万全。
袖をシャツガーターで止めて、エリノアは深呼吸をする。
「よしっ!」
ナイフを持つと、エリノアは偽物の羽根がついている外皮素材を剥がし始めた。
外皮の下からは、いつもよりずっと多い部品が見える。練り粉が乾き白くなった皮下素材を切り取り現れた軸芯は、普通より細い物が大量に組まれていた。これだけでもかなりの代物なのに、キリエは治験と称して無償で与えたのだ。
それはきっと、彼に今までと同じ生活をしてほしかったから。
――我々の役目は、元の生活に戻る手助けをすることだ。
読めと言われた本、イーゼル・ハウゼンの教本の最初に書かれていた言葉。
師であるキリエの、術具技工に対する姿勢はずっと変わっていない。
細い軸芯の大半は素材強化の構築式。太い軸芯は細かい動作を指示する構築式が複雑に絡み合っている。翼の動きを再現するには、ここまでしないといけないんだ。忘れないようにノートに書き留めては、一つひとつを見ていく。
外皮素材に付けられた、偽物の羽根の羽軸に疑似魔法の構築式があったのには驚いた。確かに、風の魔法がないと浮かせられないはずだ。お師匠様、疑似魔法の勉強してたんですね。
全然知らなかった……。そんな様子、まったく見なかったから。
崩す作業に夢中になっていれば、あっという間に終わってしまった。作業台の上にあった、細かい部品となった術具が並ぶ。組み立ててあった状態に近いように並べ直して、傷や磨耗が見つかったものには目印をつける。しばらく来ていなかったせいか、クロードの翼は磨耗箇所が多い気がする。
「う~ん。細い軸芯の何箇所かは新しくした方がいいかも」
「磨耗損傷か?」
「そうなんだよね。構築式の磨り減りは太い軸芯なんだけど、軸芯自体の磨耗は細い方に多くて。ヒビは入ってないけど使い方を考えると、折り畳む関節箇所の補助具も構築式が薄くなってるから、新しくしたほうがいいかも」
「他は」
「ええっと、一番大きい関節箇所のネジの溝も浅くなってるし、使っているうちに抜けちゃうかもしれないから新しくして。翼の先端部分は総入れ替えしないと、たぶん折――」
そこまで言って、エリノアははっとする。自分は今、誰と会話をしていた? 工房にいるのは自分とキリエとクロードだけだ。消去法で行かなくても、キリエしか考えられない。
ぎぎぎっと音が鳴りそうな首を動かし、キリエのいる作業台を見た――いない!?
「初めて崩す術具の診断だったが、まあ及第点だな」
すぐ隣からキリエの声が降ってくると、ガシガシと頭を乱暴に撫でられた。
及第点とは言われたけれど……これは、褒めてる? 褒めてますか、お師匠様?
「お、お師匠様っ!? 作業終わったんですか!?」
「ああ。クロード、おおよそエリノアの見立てどおりだ。時間があるならあらかた直せるがどうする?」
「こっちは自己メンテ以外は門外漢だ。丸投げすらぁ」
「分かった。エリノア、お前が見立てた基準で必要な物を用意しろ」
「は、はい!」
分からない、けど、多分褒めてくれたんだと思う、ことにした。頭撫でられたし。及第点ということで褒められるのも微妙な気がするけど……。赤点じゃないのだから良しとしよう。
緩んできた頬をパシリと叩いて、エリノアは工房の棚に向かう。ニマニマとエリノアたちを見るクロードの視線に、少しだけむず痒い思いをしながら。
「しっかし嬢ちゃんも、アイツに師事してよく持つな」
「そうですか? お師匠様はちゃんと教えてくれますよ?」
修理を始めたキリエの作業台から離れた場所で、エリノアは練り粉を液体接着剤と混ぜ合わせる。空気を含ませるように均一に混ぜるのだから、地味な作業の見かけによらず時間がかかる。
「いやいや、住み込みだろ? 四六時中仏頂面のアイツと顔合わせてりゃ、気が滅入るんじゃねぇのって話」
「別に滅入りませんってば」
「……嬢ちゃんいい子だな。俺なら無理だわ」
アイツ全然笑わねーし、と眉を寄せてクロードが言う。
待っている間暇だからと、クロードはエリノアの作業台にやってきてこうして他愛もない話に興じる。いつもはリムが話し相手だが、今日はお昼寝タイムを満喫中だ。ヘタをするとリムは、仔猫ばりに寝ている。
「確かにお師匠様は、いつも難しい顔をしてますけど……」
「キリエは変わってるからなぁ。嬢ちゃんみたいな女の子が一緒でも、街中に住もうとは思わないみたいだし」
「うーん。街中になると工房を作らなきゃいけませんし。正直かなり大掛かりになると思うんですよ」
そもそもキリエが街中で生活しているイメージが湧かないのも問題だ。街で泊まるときの定宿もあるし、知り合いもいるし、お店だって開けるだろう。それでもやっぱり住むとなると、その街に馴染まない気がするのだ。
エリノアは頭の中で街の雑踏を思い浮かべる。そこにキリエの姿を置いてみると……やっぱりというか、浮いている。服装などは問題ないのに、周りの空気とでもいうべきなのか近寄り難い。
「ま、王都での召し上げの話も、『興味がない』の一言でばっさり断ったらしいしな」
「ええっ!? それ本当ですか!?」
呆気に取られながらエリノアはキリエを見た。
国一番なのは判っていたけど、まさか召し上げの話まで来ていたなんて。しかもそれを断るとか、お師匠様らしい。
「口には出さんが、王都に行けば騎士団所属になる可能性だってある。アイツにゃーデメリットしかないだろ」
「騎士団……」
「騎士団って言えば、ここ最近あっちもこっちも妙にピリピリしてるよな」
クロードの言葉に、エリノアの手が止まる。この間ルークが言っていた、アンカルジアがきな臭いと。そのことと何か関係があるのだろうか?
止まった手に慌てて作業を再開する。この皮下素材、混ぜるのを止めると途端に固まり始めるのだ。
「クロードさんのところもですか?」
「んや。俺んところは国属はしてねーから、自衛の準備だけ整えてる。もしまた人魔戦争が起きるなら、まず間違いなく魔物の被害の方がデカイからな」
「エリノア、皮下素材」
「は、はいっ! すみませんクロードさん」
「おぅ、行ってこい」
自分の術具なのに随分とおおらかな人だ。急いで混ぜていた容器ごとキリエのもとに持って行く。作業台の上を見れば、軸芯は組み終わっていた。まるで金属で出来た翼の骨格標本だ。皮手袋をはめて、キリエは組み合わせた軸芯の間を手早く埋めていく。埋まった場所があっという間に白く変わる。
窓の外を見れば日が傾き始めていた、夜になる前にはクロードに返せそうだ。あの話を聞くと、やっぱり遅くに返すのは気が引ける。
少し暗くなり始めた工房に、エリノアはランプを点けた。
「クロード、接続して確認してくれ」
「あいよ」
背中に露出している、神経と繋がる接続部に術具を合わせる。カチリとはまる音とともに、クロードは翼をゆっくりと動かす。馴染むまで軸芯の擦れる音が響いていたが、それがやがて聞こえなくなる。
「問題なさそうだな」
「そうか。途中で何かあったら戻ってきてくれ。それで技術料は――」
キリエの提示した額は、エリノアの知る中では安い方だ。街中の技工師ならばもう少し高く見積もるだろう。ただ明らかに他に流用することが出来ない術具、だからキリエは好きに決めている。
最初は試作品を使っているのだからと、技術料は受け取らなかったそうだが……いろいろあってこうして金銭のやり取りをするようになった、らしい。いったい二人の間で何があったのか非常に気になるエリノアだ。
エリノアの作った不良品も、最終的にキリエが手を入れた完動品が、破格の値段で農村部へと行っている。
「そうそう。それとこれ、カミさんからだ」
そう言ってクロードは、持ってきていたあの紙袋をキリエに押し付ける。あからさまに嫌そうな顔をしていたキリエは、すぐさま脇にいたエリノアにその紙袋渡す。
お師匠様、ちょっとは中身に興味を持ちましょうよ。
「変な物を持ってこないでくれ」
「おいおい、中身を見てからモノを言えっての」
意外と重みのある中身と、受け取った時のガラスのような音に興味を引かれ、エリノアは袋を開いた。中にあったのは、チェック模様の蓋のガラス瓶が三つ。瓶の中は紫色で、粘度の高い液体に小さな実のようなものが見えた。
「ブラックブルーベリー、のジャム?」
「嬢ちゃん正解だ。今年はかなり出来がいい、当たり年だ」
「お師匠様! ブラックブルーベリーのジャムですよ! 変な物じゃないです!! 高いんですよこれ!!」
翼手族の村で作られる名産品だ。真冬にならないと採ることが出来ないブラックブルーベリー。あまり実をつけないことでも知られているこの実は、市場に出ればあっという間になくなる。特に富裕層、それも貴族たちだけで買い占めてしまうことが多いからだ。
加工品でも同じだ。そんな貴重品がエリノアの腕の中にある、しかも瓶三つ分も。どうしよう、食べるのが勿体ない! やっぱりパンに塗るのは外せない。ああ、ダニエラさんが作ったタルトに詰めるのもいいかも。
「そーだぞーキリエ。今年の初競りは高価格だ!」
「……用は済んだだろう、さっさと帰れ」
「あーあ、これだから感動とかけ離れた小僧はよう。もっと嬢ちゃんを見習え。あんなに嬉しそうにしてるだろうが」
クロードに指摘されてキリエがエリノアを見た。
その胡乱げな表情に、エリノアはジャムの瓶を抱えたままピシリと固まる。お師匠様、目が怖いです。
「さして嬉しそうにしていないが」
「お前が睨むように見たからだろうが!」
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