04・準備作業
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作業台の上の、真新しい外皮素材にエリノアは向かっていた。人の肌の色に近い素材の内側に、少しずつ構築式を刻んで行く。軸芯と違って厚みの薄いものだ、だからといって浅く彫り込んだのでは効果が出ない。慎重に、神経質と言われるぐらい、丁寧に。
戦場に向かう面持ちで彫刻刀を握り、エリノアは息を止めて彫り進む。依頼人は、第七支団の師団長だ。これは替え脚の、外皮素材。本番用の材料を使用して、依頼された術具の一部を作る。
練習の時と比べ物にならないくらい、異様な緊張感にごくりと喉を鳴らす。大丈夫。何回も確認した下書きに間違いはない。軸芯とは違う皮下素材、何度か依頼の品でも作っている。その時を思い出して――。
「……っ、できたっ!」
最後のひと彫りに彫刻刀を持つ手を止めて、構築式が刻まれた素材を見る。組み立てたとき表になる方を見ても、穴は開いていない。保護と強化の構築式に間違いはないか、描き出した紙と比べながら、素材に馴染ませるように指で刻んだ場所をなぞっていく。
何度経験しても彫りこむときの緊張感は凄まじい。これがもっとも重要な軸芯の本番になったら、心臓が持つか心配になってくる。
「エリー、終わったのー?」
「ちょっと待って。もう一回確認するから」
キリエに最終チェックをしてもらう前に、自分で分かる部分があれば作り直しだ。外皮は埋めると出来栄えにかかわる。軸芯も何度か埋めて彫り直すことが出来るが、あまりやると動作が悪くなってくるのが欠点だ。
彫り直しは深部構築式をきちんと作ってあれば可能だ。一から作り直すよりは安く済むし、技工師によるメンテナンスも受けられる。モグリの技工師やまがい物の術具だと不可能。そもそもきちんと動いてくれる保証すらない。
「っと、これで最後。――うん、完成」
「後はキリエの審査なの」
「それが一番難しい気がするよ」
同じように工房で、エリノアよりも狭い作業台を使用してキリエが作っているのは軸芯だ。埋め直しだけですまなかったときのためにと作っている。軸芯の深部構築式からになると、一から作ることと変わらない。
多分お師匠様は、団長の使いが激しいことを考えている。だから場合によっては、直すのではなく、作ることを想定して用意しているんだ。
支団長ともあろう人の、動きに支障があってはならない。今はとくに、“万が一”があるかもしれないから。
「お師匠様。外皮の構築式が彫り終わったので、確認をお願いします」
比較的入り組んでいない場所を彫っているのを確認してから、エリノアは声をかけた。
ちらりと視線をエリノアに向けたものの、キリエの手は止まらない。
「……少し待っていろ」
「はい」
一歩下がって、エリノアはキリエの作業を見る。
迷うことなく動く指先、黒髪の間から見える瞳は真剣で――エリノアはこのときの、キリエの表情が好きだ。普段は口も悪ければ目付きも悪いし、ぶっきらぼうで、慇懃無礼な態度だけど……術具技工師として作業に向き合っているキリエの、真っ直ぐな姿は、嫌いじゃない。
弟子見習いとしての扱いはされても、術具技工を教えるこのときだけは、キリエはエリノアを子供扱いしない。そういうところも。
「エリノア、見せろ」
「は、はいっ!」
青と緑の瞳が、エリノアの琥珀色の瞳を射抜く。暗に「ちゃんとやったんだろうな」と言われている気がしてたまらない。
途中で止めた術具の隣に、エリノアは仕上げた外皮を広げた。
「今回はだいぶ早いな。予想ではもう少しかかると思ってたんだが……」
紙の構築式と比べながら、外皮素材をなぞっていくキリエの指を目で追う。
「…………問題ない。慣らし作業の箱に入れておけ。今日はそれで上がってかまわない」
「え? でも、まだ他の作業残ってますよ、お師匠様」
「眠そうな目でやられるぐらいなら、切り上げさせた方がましだ」
「うっ……」
バレていた……。昨日はなかなか寝付けなかったから、確かに睡眠は充分じゃない。午前中に届いた材料の運び入れ作業は、何度か転びそうになったりもした。
さっきはちょうどよく集中できたのは、たぶん構築式の彫り込みだったからだろう。もし単純作業なら、眠気が襲ってきていたかもしれない。
「ここまで上手く出来ているのに、眠気で無駄にさせる気はない。寝る気がないならダニエラのところに行け。タルト作りで手が足りないだろう」
「タルト! リムはベリーのタルトがいい!」
「お前のタルトじゃない」
「あ、でも……」
「行くのエリー!」
渋るエリノアのスカートをリムが引っ張る。体を持っていかれる。この小さな体のどこにそんな力があるのか? いつも不思議に思う。
「あれがつまみ食いをしないか見張ってろ」
「え、でも、あっ! ちょっとリムったら!」
たたらを踏むように立ち止まり、渡された外皮を箱に入れる。いかにダニエラがそういったことを気にしない人でも、このままキッチンに持っていってしまったら大変だ。ましてや商品である。台所に置くわけにはいかない。
作業箱の札に間違いがないか確認をしてから、エリノアはキリエに一礼をして工房の扉を閉じた。
一足先にリムが行ったであろうキッチンに入った瞬間――
「キュキョキョー!!」
「リム!?」
キッチンの作業台の上で、尻もちをつくリムの姿が。そしてそのリムの前に、一本の肉切り包丁が突き刺さっていた。間違いない、あれはダニエラのものだ。
……どうやら一足遅かったらしい。
「あれほど、作業中に、つまみ食いを、してはいけません、と言っているでしょう? リム」
一言ひとこと、いい聞かせるようにゆっくりとダニエラは言う。
血走った目をリムに向けながら、ダニエラは突き刺さった肉切り包丁を前後に揺らし引き抜く。ガクガクと震えながらリムは何度も頷いた。
「もし、またつまみ食いをしたら……」
ごくりと、エリノアは息を飲む。もし、つまみ食いをしたらどうなるのだろうか……。
「その皮を剥ぎますよ」
「キュキューッ!!」
「あっ……」
す、素早い。エリノアが引き止める隙すらなく、あっという間にキリエのいる工房へと逃げてしまった。
お師匠様の作業の邪魔をして、廊下に放り投げられなきゃいいのだけれど。
「エリノア。あなたはどうしたのですか、まだ作業時間でしょう?」
「お師匠様が今日はもう上がっていいと。ダニエラさんのお手伝いに来ました」
ダニエラは少し考えるように何度かまばたきをすると、壁にかかったエプロンをエリノアに渡す。
肉切り包丁を腰の鞘にしまいながら口を開く。
「では、冷めたタルトにクリームを詰めてください」
「はい! 手を洗ってきます」
結局リムは、夕飯が出来たとエリノアがキリエを呼びに行くまで、キッチンに戻ってくることはなかった。
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手元を照らすように集めた明かりが、作業をするキリエの姿をぼんやりと浮かび上がらせる。ひたすら細かく動かす指先を見る目が、少しだけ疲れてきた。自分で改良した結果とはいえ、やはり面倒に思うことも多い。
きりの良い所、と言うのがなかなか見つけにくいのが難点の構築式。判断する基準になるのは、休めた手を再び入れたとき、次の式を繋げやすい場所になるかどうか。それなら最後まで彫り込んでしまおうと、結局手を動かしてしまうのがキリエの悪い癖だ。
それでもここ数年は割とマトモな生活サイクルを送っているのだから、住人が増えたことによる環境変化は歓迎すべきなのだろう。
「お師匠様……」
小さく軋む音に、彫り込む手を止めキリエは扉を見る。その環境変化のきっかけになった住人が、そこにいた。寝間着に分厚い上着をはおったエリノアが、扉の隙間から中を覗いている。口元からはく息がかすかに白い。
ちらりと時計を見れば、既に針は深夜を指していた。締め切られた工房は暖かいせいで気付かなかったが、外は寒さが厳しい時間だ。
「どうした、エリノア」
「あの、もう夜遅いです。明日に響きますから休みませんか、お師匠様。ダニエラさんも心配してます」
「……そうだな」
恐らく、換気のために何度かダニエラが工房に入っていただろうが、まったく気が付かなかった。基本的に彼女は、作業中のキリエに話しかけることをしない。いつも作業が終わってから向けられる、咎めるような視線にキリエは申し訳なく思う。
構わずではないが、ためらいながらも声をかけるのはエリノアぐらいだ。あのリムですら、作業中はタイミングを計って声をかけるのだから。
「ところで、お前はどうしてこんな時間に工房に来た」
「あ、えーと。その……なんか目が開いてしまって、そしたら工房の明かりが見えたので……」
「子供が起きてる時間じゃない、早く寝ろ。風邪を引いても世話はしてやらないからな」
……この間の話が原因か。おおかたエリノアの生まれた国で起きた内乱と、今回の戦争の話を重ねでもしたか。
追い返すように言っても、エリノアは動かない。どこか落ち着かない様子で、不安げな表情でキリエを見返す。
「……お師匠様。お師匠様は、アンカルジアに、行ったりしないですよね?」
か細い声で紡がれた言葉は掠れていた。
予想していた内容に、キリエは内心で深く息を吐く。遠ざけることは簡単だが、知らなければならない情報を与えないわけにはいかない。術具技工師を目指すのならなおのこと。
「――俺は面倒事が嫌いだ。誰が好き好んでしがらみしかない場所に行くか」
はっきりと告げてやれば、安心したようにエリノアの表情が緩む。
まったく、この娘は……。どうしてこうも顔に出るのか。
「さっさと寝ろ。明日、作業中に眠りこけても放置するからな」
「お、お休みなさい! お師匠様! お師匠様も早く寝てくださいよ!」
自室のある二階へと戻っていくエリノアの足音を聞きながら、キリエは静かに片付けを始めた。ああやって様子を見に来るエリノアに、渋々作業を止めるのもなかば恒例と化してきている。暖炉の火を消し、椅子にかけたままの上着を持ち上げたとき、折りたたまれた小さな紙が床に落ちた。
先日、ルークが持ってきた忌々しい封筒の中身。便箋に綴られていたのは、他の手紙と同じ勧誘――他よりはいくぶん文面は丁寧であった――で、不自然なほど開いた便箋の下部が妙に気になり、まとめてつき返すところを封筒だけをルークに戻した。
再度読み返してみても勧誘文でしかなく、最後に宰相であるあの男の、サインが記されてあるだけ。なぜ、こんなに空白を開けたのか。サインの場所をずらせばそれほどおかしくはなかったのに、まるでわざと空けたかのように、最下部の文面に重なるギリギリに記してある。
ちらちらと揺れるランプの炎に、キリエはある可能性に気付いた。ガラスを外して、炎の先端にあの便箋をあてる。不自然な空白をあぶれば、色の変わっていく便箋に熱せられた紙の匂いが鼻につく。
執拗に、神経質になるほど細かく炎にあてていくと、やがて便箋を囲う蔦の模様の近くに文字が浮んできた。それも小さな文字だ。何かあると思って見ないと、模様に紛れ見落としてしまいそうなぐらい小さなそれは――
『ミレハ 気をつけろ S』
たった一文とイニシャル。セピア色の文字に、キリエが目を細めた。当時を知る術具技工師なら、不快感から顔をしかめるその内容。ミレハ地区に気をつけろというのか、それとも“あの事件”に気をつけろというのか。どちらだ。
やはりあの送り主にいい感情は持てない。今回のように、中途半端に干渉をしようとするところも。罪悪感の軽減に、付き合わされる身にもなってほしい。
燃やそうとして、暖炉の火を消してしまったことを思い出しキリエはその手を止める。消す前に読むべきだった。
握りつぶしてゴミ箱に入れても、ダニエラが気付くだろう。エリノアの目に止まらないよう、暖炉で燃やすしかない。
あの二人に、この手紙を見せるわけにはいかない。余計な不安を与えるだけだ、だが、ダニエラには一言いっておくべきか……。
「ああ、まったくもって忌々しい。ありがた迷惑このうえない」
鍵のかかる引出しを開けると、キリエは手の中の畳んだ便箋を苛立たしげに押し込んだ。
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