06・謎部屋
捲れた布の中を、エリノアが見ることはできなかった。代わりに中身を知ったのは、か細い男の声を聞いてからだ。
「やあ、キリエ……。しばらく、見ない、間に……目付きが悪く、なった、んじゃないのか……」
「お前は……声変わりはしたくせに、成長しても女顔だったか」
布の中から、細い腕が出てきた。その腕には、変色した血液だと分かる色がついていた。怪我を、しているのだろうか。だとしたら、あの布の赤黒い染みは……。のろのろとキリエへと伸びていく腕は、どこか躊躇っているようにエリノアには見えた。
「……すまない、キリエ」
ぱたりと落ちた手を、キリエが握ることはなく。キリエは屈むと、包まれた人の、その布を捲る。わずかに、キリエが息をのんだのが分かった。
室内に訪れた沈黙。呼吸すらするのがはばかられる空気に、誰もがキリエの次の行動に注意しているようだった。
「……『施術室』を開ける」
「――っ!? キリエ様!?」
「オズワルド、そいつを連れてついて来い。ダニエラ、湯を沸かせ。麻酔、消毒、止血、造血を用意しろ」
ダニエラの叫びに、眉一つ動かさずキリエは指示を出していく。
聞き覚えのない部屋の名前に、エリノアは戸惑う。そんな部屋は聞いたこともなかった。目の前を通り過ぎていくキリエを視線で追っていけば、あの、『謎部屋』の前へとオズワルドを案内する。もしかして謎部屋が、その施術室?
「お待ちくださいキリエ様! あの部屋を開ける意味が判っているのですか!?」
「判っているから開ける。早く準備をしろ」
鍵は部屋に置いているのか、キリエは足早に二階へ向かった。
とたんに慌しくなった様子に、エリノアは一人迷う。ダニエラが、珍しく動く気配を見せない。きつくこぶしを握って、キリエが下りてくるのを待っているようだった。何か、絶対に何か理由がある。普段はどんなことがあっても、キリエの術具技工師としての行動に口を挟まないダニエラが、怒鳴って止めるだけのことが。
自分は、キリエを手伝うべきなのだろうか……。ダニエラは今回のことに反対の姿勢を見せている。けれど施術室の前に立つオズワルドの、腕にいる人物にはこれから行うことは必要だ。そう、師は判断した。
だけどキリエは、エリノアに指示を出さなかった。これから師弟関係を解消する弟子見習いに、何かをさせる気はないのかもしれない。
どうすればいいのか悩んでいるうちに、キリエが鍵の束を持って下りてきた。鍵をとりに行く前と変わらぬ位置にいるダニエラと、キリエが無言で睨み合う。
「ダニエラ、準備はどうした」
「お断りいたします」
「……そうか。なら勝手にお前の調剤室に入って持ってくるまでだ」
「なっ!?」
「開けて先に入っていろ」
鍵束から一つを取り外すと、キリエはオズワルドに放り投げる。そしてほぼ立ち入り禁止となっている調剤室に向かう。
戸惑った様子で鍵を受け取ると、オズワルドは躊躇いながらも鍵穴に差込みドアノブを回した。
「キリエ様! 放っておけばよろしいのです! わざわざ火中の栗を拾う必要はありません!」
後を追ってダニエラも調剤室へと入った。もともとダニエラが管理しているあの部屋は、驚くほど整理整頓されている。普段入らない人間でも、恐らく簡単に目的の薬品を見つけてしまえる。キリエならば、エリノア以上にあの部屋に入ったことがあるはずだ。ある程度の置き場所の検討はついてしまうだろう。
まだ言い争いをしている二人に、施術室へと入ったオズワルド。血に濡れたオズワルドの服を見ると、もしかしたらオズワルド本人も手当てが必要かもしれない。
それにあの部屋は、明かりがなかったはずだ。勝手に動くべきじゃないのかもしれないけれど……。自分は弟子見習いで、しょっちゅう怒られてもいる。今さらだ、エリノアは談話室に戻る。隠して持っていたままの、火かき棒も元の場所に戻しておく。
「エリー、なにかあったの?」
「ちょっとお師匠様とダニエラさんが、ケンカしているだけ」
「キュッ! ダニエラ、怒ると怖い」
さっと、リムはひざ掛けから出した体を隠した。見事な怯えっぷりである。
テーブルの上に置ける小さなランプに明かりを点すと、エリノアは急いで施術室に持ち運ぶ。開いた状態のままの扉をくぐり、エリノアは初めて謎部屋――施術室へと足を踏み入れた。
ふっと明るくなる室内に、窓は存在しなかった。いや、前はあったのかもしれない。だって、窓が在るべき場所には、板が打ちつけられているのだから。部屋の中央にあった、診察台のようなベッドに人が横になっていた。鈍い銀色の髪を持った、男の人。確かにキリエが言ったように、男性的な線が柔らかく感じる。
「あなたは……」
「っ、失礼しました。私はエリノアと言います。あの、部屋に明かりを持ってきました」
傍にいたオズワルドに声をかけられて、慌ててエリノアは視線を逸らす。キリエの依頼人を不躾なまでに見てしまった。急いで謝罪して、部屋を見渡しランプが置けそうな場所を探す。
他の部屋よりも多く、壁にかけられたランプ。足場になりそうな台を持ってきて、油の量を確認しながら一つずつ火を点けていく。油は問題なさそうだ。先日ダニエラが部屋に入っていたからか、そのときに油は足していたのかもしれない。
「あなたが、キリエ殿の弟子、ですか?」
「は、はい。一応、そうなります」
「そうでしたか」
首の皮一枚で繋がっている弟子見習いだけど……。すべてのランプに火を点せば、部屋は思った以上に明るくなった。
「一つ、お聞きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「わ、私にですか!?」
オズワルドからの質問宣言に、エリノアは一瞬で緊張する。どうしよう。これからお師匠様がなにをやるのかという質問なら、自分には答えられない。接続部の、人体側の術具の手術は、エリノアは教えられていない。あれは、今は術具医師の領分になっている。
昔は技工師がどちらも行っていたらしいが、今では完全に分けられてしまっているものだ。そう、あのミレハの事件以降。
「はい。あの、キリエ殿は、普段からあのような物言いなのでしょうか?」
「……はい。私が知る限りは、お師匠様は普段からあのままです」
「そう、ですか」
玄関での会話で、この二人とキリエが古い知り合いらしいことはエリノアにも分かった。「お前は……声変わりはしたくせに、成長しても女顔だったか」キリエのこの言葉から、しばらく会っていなかったらしい相手。
服の材質、仕立ての具合。たぶんキリエの、高貴な知り合いの一人。
「エリノア、ここで何をしている」
「お師匠様……。あの、部屋に明かりを」
ダニエラは説得できたのだろうか。キリエが薬ビンを入れた籠を持って入ってきた。
「そうか。お前はもう外に出ろ、オズワルドもだ。ここから先は俺一人で行う」
「お師匠様、私、何か手伝います」
少し不安そうに、けれど無言で頷き廊下へ向かうオズワルドと逆に、エリノアは引きとどまりキリエに訴える。
だがキリエはエリノアを見ることもなく。テーブルの上にビンを並べると、壁に並んだ棚から、珍しく迷いながら道具を取り出していく。
「お師匠様――」
「お前は部屋に戻って荷物をまとめろ。吹雪が止み次第ライナーが来る、一緒に街へ行け」
「そ、それって……」
「破門だ」
「――っ!!」
今度こそ、キリエははっきりと言った。聞き間違えようがないほど、はっきりと。それも、自分を見ることすらせずに。作業の片手間のように言われた。
二の句が継げず、エリノアは立ち尽くす。
「キリエ殿」
咎めるように、けれどそれは控えめなオズワルドの言葉にも、キリエは反応しない。
「二人とも作業の邪魔だ。出て行け!」
苛立ちを含んだ怒鳴り声に、エリノアはびくりと肩を震わせる。いつもなら、ここまで怖いと感じたことがなかった声。それが今は、途方もない恐怖感となって伝わってくる。
そっと肩に置かれた手に、エリノアは手の持ち主を振り返る。困ったような表情で、エリノアを見おろすオズワルドがそこにいた。
「行きましょう、エリノア。今のキリエ殿には、集中できる環境が必要です」
俯きながら頷いて、オズワルドに促されるまま退室する。
エリノアの目の前で、扉が閉まった。
そう、キリエにとって扉は、拒絶を表す。
絶対に、そこから先に入ってくるなという、明確な意思表示。
「エリノア、どうしたのですか?」
はらはら流れてくる涙を手で拭うエリノアに、沸いたお湯の入った器を持ったダニエラが怪訝な顔で問いかける。だけどエリノアには答えられない。
状況ぐらいは分かるだろうとオズワルドにダニエラは視線を向けるも、彼は首を横に振るだけだ。
「談話室に行っていなさい。それにオズワルド様も。キリエ様より、怪我の治療をするようにと言われました」
「……あなたはそれで、よろしいのですか?」
「はなはだ遺憾ですが、キリエ様から頼まれましたので」
「まことに申し訳ない」
分かっているのなら、なぜここに来た。そう言わんばかりの表情になるが、ダニエラは黙って施術室へと入っていった。
談話室は、エリノアが出てくる前と変わっていなかった。テーブルの上に広がる教本と、途中まで書き写してあるノート。それを黙ったまま片付け始める。
「エリー、どうしたの? その人誰なの?」
「リム。なんでもないの。この人はオズワルドさん、お師匠様……にきた、依頼人の一人よ」
「この人に意地悪されたの?」
「されてないわよ。だから大丈夫」
隠れていたひざ掛けの中から出てきて、エリノアが片付けているテーブルの上に飛び乗る。
ぎょっとしたようにオズワルドがリムを見ている。やはり霊獣のリムクレットを、こんな間近で見るのは珍しいらしい。
「お待たせいたしました。オズワルド様、傷のある場所を見せてください」
「見せるといっても、自分で対処しましたので」
「ご自分で……?」
ダニエラが眉根を寄せて、オズワルドを見る。
「……焼きました」
「焼く?」
「緊急時、近くに治療ができる場所がない場合に限り、有効な手段の一つです。傷口を焼いて止血をする方法です」
「――っ!」
傷口を焼く姿を想像して、エリノアは思わず持っていたノートをぎゅっと抱いた。
わき腹をダニエラに見せるように服を捲るオズワルド。
「確かに、焼いていますね。それもかなり手荒く」
「時間がありませんでしたので」
淡々としたオズワルドの答えに、ダニエラが呆れたようにため息をつく。
そして普段の救急箱とは違う大きな箱を開け、エリノアへと振り向くと、
「エリノア、手伝いなさい」
「……はい」
有無を言わさぬダニエラの視線に、エリノアは抱えていたノートを戻して、ダニエラの手伝いに動く。
それが彼女なりの気遣いであると、エリノアは気付かなかった。
+++++
「何か、言いたそうだな。マティアス」
隣で、道具の消毒を始めたキリエの動きを、マティアスはぼんやりと追う。
その手の動きに、僅かな揺らぎを感じるのは、自分のはっきりとしない視界だけが原因だろうか。
「あの子を、破門して、よかったのか」
「……あれが最善だ」
「僕たちが、来たのが、原因か?」
「……否定して欲しいのか? 肯定して欲しいのか?」
手を止めず、キリエは視線だけをマティアスへと向ける。
マティアスの記憶にある、かつてのキリエとは随分と印象が変わった。成長した姿も、あの二色の瞳とその目付き。気になり何度か調べさせ、知っているその理由。そうなってしまったのが、自分の国が原因なのだと思うと酷く苦しかった。そして今、キリエに負担を強いる自分が情けなかった。
「すまない、キリエ」
だから、贖罪の言葉が口をついて出てくる。
けれどキリエは、その言葉に返すことはなかった。
ただ一言。
「死んでも恨むなよ」
そう、マティアスに告げた。
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