02・近くて遠い街
荷台の幌布をめくり上げて、エリノアは御者台を見た。
なぜかライナーの隣に、キリエが座っているからだ。あの後、準備を整えたエリノアが来た早々に、いつもの深い緑色のコートをはおると、外に出てキリエはさっさと空いた御者台に座ってしまった。
手綱の確認を取っていたライナーが驚いたように隣に座ったキリエを見ていたから、きっと聞いていなかった事なのだろう。
御者台という寒い場所は古傷が痛むだろうに、キリエは涼しい顔で前を見ている。ライナーの荷馬車に乗るとき、普段はキリエもエリノアと同じように荷台に乗る。なのにどうして今回は、御者台にしたのだろうと不思議に思う。
エリノアと同じように、荷台に乗ったニルスも首をかしげたぐらいだ。ただ、キリエが自分から話すことがないのはいつものことだし、何か思うことがあったのだろうとしかエリノアには分からない。
荷台の外に広がる景色は、針葉樹の深い森。いつも通る場所の濃い緑の影の向こうで、エリノアは何かが動いたような気がした。目を凝らしてみても、それは深い森の奥に行ったのか、もはや確認することは出来ない。
(動物? それとも魔物?)
鹿などの動物ならいいが、魔物だと大変だ。それでも単体の魔物なら、大人数には襲ってこない。この荷馬車なら大丈夫だろうと思うが、やっぱり少し怖い。
「お疲れ様、ライナー……と、キリエ殿!? なぜ御者台に!?」
馬のいななきとともに荷馬車が止まれば、街の出入り口にある詰め所の騎士の、驚愕の声が響いてきた。
やっぱり思うことはみんな同じだよねと、こっそり心の中でエリノアは呟く。
「あ、あの、騎士の方、すみませんがちょっといいでしょうか?」
「おや、お弟子殿。どんな御用でしょうか?」
実際には弟子ではなく、弟子見習いです。エリノアは苦笑いをしながら、キリエが街に入る手続きを終える間に少し前に見た影のことを話す。動物の類ならばいいが、魔物ならば街道を使う人が危ない。
「なるほど、地図でいうとこの辺りのようですな。さっそく調査隊を送りましょう」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ、ご協力感謝いたします」
にこりと人当たりのいい笑みを浮かべて、騎士の一人は詰め所へと小走りで戻っていった。
「エリノア、置いていくぞ!」
「ま、待ってくださいお師匠様!」
御者台に足をかけた状態で怒鳴るキリエに、エリノアは慌てて荷台に転がり込んだ。
街に入ってすぐに、にぎやかな声が荷台の中にも聞こえてきた。あの屋敷では聞くことの出来ない大量の人の声。
そっと帆布を上げて外を見れば、色とりどりの布屋根の屋台が並んでいた。雪かきをされた広い通り、歩く人は少ないが、それでも活気付いている。
「エリー! 屋台なの!」
エリノアのフードの中に隠れていたリムが、一足早く開けた屋台の、焼き菓子の匂いにつられて騒ぎ出す。ひくひくと鼻を動かす姿に、匂いに食欲が刺激されたらしい。
急いでリムを両手でつかむ。この場所で食欲を満たす行動に出られたら、開けたばかりの屋台がすぐに閉店になる。
「それはお仕事終わった後。明日は見る時間があるだろうから、そのときね。お師匠様から言われたことをちゃんと守るのよ」
「分かってるの! 屋台屋台!」
本当に分かっているのか非常に不安になるが、外に飛び出さないのだから信じてみよう。
これで飛び出そうものなら、屋敷に帰ってからダニエラに皮を剥がされるか、今すぐキリエに放り投げられるかの二択が待っているだけだ。はたして、リムにとってはどちらがいいのか。
きっとエリノアなら、師弟関係解消か、それとも屋敷を追い出されるか。……どちらも避けたい選択肢だ。
まだ屋敷に来たばかりのころ、キリエに連れられ街に来たことがある。ちょっと目移りしたうちに、案の定迷子になった。周りは暗くなってくるし、キリエの姿をあちこち捜し回って疲れて、道端で座り込んでいたところをキリエに発見された。
「ふらふら出歩きたいなら、もっと歳をくってからにしろ」
そう言って、キリエはエリノアの頬を叩いた。それは軽いものだったけれど、なぜかすごく痛く感じて。キリエに会えたことで緊張の糸が切れたのか、屋敷を追い出されるかもしれない不安から声をあげて泣いた。
泣いたエリノアにキリエは顔をしかめたけれど、泣き止めと怒鳴ることも、やさしくなだめることもしなかった。ただ黙って抱き上げると、エリノアの背中を軽く叩きながら宿屋へ戻った。泣き疲れて眠るまで、傍にいて手を握ってくれていたのを覚えている。
翌日、エリノアを捜してくれた騎士たちに迷惑をかけたことを謝りに行ったとき、ルークがこっそり教えてくれた。
「エリーちゃんがいないことに気が付いたキリエ、すっごい焦ってたんだよ。よっぽど心配だったんだろうね」
エリノアを見つけたときも、ここに来るときも、キリエの表情にほとんど変化はなかった。悪い人ではないと、分かってはいたけれど……よくわからない人だとも思っていた。
けど、ルークのその言葉に、エリノアはキリエという人間を、見た目ほど冷たい人じゃないと知った。本当に冷たい人なら、赤の他人のエリノアが迷子になったとき捜したりなんてしない。
ただちょっと、口数が少なすぎて、人に何かを伝えるのが苦手なだけなんだ。
「みんな! キリエさんが来たぞ!」
「よっしゃ! 団長の機嫌が直る!」
「やっと来たぁぁぁ!」
エリノアたちが屯所の裏にある演習場に到着したとたん、歓喜に溢れた声があちこちから聞こえてきた。
普段ならあまり手伝ってこない騎士たちが、率先して荷運びを始める。……術具の不調から来る団長の機嫌の悪さが、騎士たちをここまで追い詰めたのかと思うとエリノアはぞっとする。
現金な騎士たちを軽く一瞥するだけにとどめると、キリエは何も言わずに演習場の奥へと向かった。取り急ぎ必要な道具を詰めた鞄を持って、エリノアもキリエに続く。
直後、目に入ってきた光景にエリノアは大きく目を開いた。
「……お、お師匠様!!」
「ちっ、あのオヤジが」
雪かき済みの、きれいに整備された地面の演習場の中央に、なぜか騎士たちが倒れていた。まさに死屍累々といった体だ。
訓練にしてはやりすぎな気がしてくる。動くことさえできない状態にしてしまっては、意味がない。
「ぬるいわ! お前たち、その程度で動けなくなるとは実践ではすぐに死ぬぞ!」
次々に運び出される騎士たちに、容赦ない言葉をかける男が一人。
まさに仁王立ち。ぴかりと輝く頭部に、筋骨隆々な体。訓練用の服が窮屈に感じてしまうほどの、大きな体の持ち主は、キリエの術具の使用者である第七支団の支団長だ。
腹に響くような声を出して、待機している騎士たちに発破をかけている。そんな団長に、キリエは無言のまま近づくと、
「おい」
横柄に声をかけると同時に、キリエは腰にあったサーベルを引き抜いた。
一閃。
横に薙ぐサーベルよりも早く、キリエの袖に仕込んである細身のナイフが団長の右足に突き刺さる。
「おお、キリエかよくきたおぁぁぁ!?」
「だ、団長さん!」
カチリと、場違いな金属音が団長の声に重なる。傾いでいく体から引き抜かれたナイフに、血はついていない。団長の右足の付け根が不自然に曲がり、キリエのサーベルが右足のズボンだけを切り取った。防御のあいた団長の腹部に、キリエは容赦なく蹴りを入れる。
どさりと音を立てて団長が盛大に地面に倒れた。その右足の付け根の辺り、切れたズボンの裾から金属の接続部が覗く。
「むぅ。相変わらずだな、キリエよ」
「団長殿も相変わらずな使い方をしたらしいな」
「いやはや、熱くなり過ぎてしまった。おお、挨拶が遅れた。よく来たな、キリエ、エリノア」
「……ああ」
「ご、ご無沙汰してます、団長さん」
お師匠様、わざと直接壊しましたね。団長に頭を下げながら、エリノアはこっそり思う。
ある意味、鮮やかな手さばきで術具を体から外した。壊す経験はエリノアもしているが、実際に使用している人の体から直に外したことはない。接続部と軸芯を、痛める可能性があるから。
団長ほどの実力ならば、キリエの攻撃を避けることなんて簡単だろうに。大人しく蹴りまで入れられたということは、団長も術具に不具合を起こしたことに、若干の申し訳なさがあったらしい。少なくとも、キリエの機嫌がよくないと判断できるぐらいには。
キリエが接続部の軸芯を掴んだ状態で、ずるずると地面を引き摺りながら団長の術具を運ぶ。まるで怖い物語の一場面のようだ。さすがに他の騎士たちも、その光景に引いている。
「む! 待たれよキリエ! 替え脚がないと困る!」
「…………」
団長、なんて勇気のあるセリフですか! 恐らくエリノアと同じことを、他の騎士たちも思ったはずだ。
それはそれは嫌そうにキリエは振り向くと、遠巻きに二人のやり取りを見ていた騎士たちを静かに見回す。その中に目的の人を見つけたらしく、声をかける。
「ルーク。俺の伝言をもう一度言え」
「……団長、ちゃんと伝えたじゃないですか。当日は替え脚がないものと思え、と。今日は諦めてください。じゃないとキリエにまた踏みつけられますよ。やめてくださいよ、支団長なんだからそういう姿を晒すのは」
「ということだ。行くぞエリノア」
「……は、はい」
それ以上言う必要はないと、キリエは止めていた足を動かす。
「いや、しかしだな。訓練が――」
「ささ、団長。足がその状態では立つのも大変でしょう、こちらに椅子を!」
「そうです。休憩しましょう団長、飲み物持ってきましたから!」
「ちょっと待てお前た――」
「せっかくですから団長、たまった書類を片付けましょう! 今日いい天気ですから捗りますよ!」
「なぜ外で書類整理になる!!」
訓練をさせてなるものか! と行動を開始した騎士たちの声を後ろに、エリノアたちは屯所に近い場所にある武器をしまっている整備場の建物に入っていった。
いつもとは違う場所で、それでも工房に近い状態にするべく、エリノアは急いで準備を始める。
すでにキリエたちが来ることは連絡済だったからだろうか、簡易の暖炉に火が入っていた。正直かなり寒いので助かる。整備用に使っている作業台をルークと一緒に動かしてから、エリノアはハタと気が付く。
「あの、ルークさん何でここにいるんですか?」
さも当たり前のようにいたから、まったく違和感を覚えなかった。
手馴れた様子で作業台を並べ、重たい道具をてきぱきと運んでいく。
「いや、休憩だよ。さすがに団長のあのしごきはきつかった」
「……お疲れ様です」
やれやれと肩をまわすルークに、もう少し早く来ればよかったなとエリノアは申し訳ない気になった。
そうでなくとも、いろいろと準備を手伝ってもらっているのだ。うん。お師匠様も何も言わないし、ルークがここで休憩しているのは黙っていよう。
細かい工具の入った皮のケースを広げながら、エリノアはこっそり決めた。
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