むっつめ:仕事の学び方
「おまえさあ、なんで呼ばれたか理由わかってる?」
パーティションで区切られた狭い会議室の中、小さなテーブルを挟んで向かい合う上司が渋い顔で、溜息交じりに問いかけてくる。
理解している。充分に理解しているとも。ああやだなぁ、そう思いながら一度生唾を飲み込んで、なんとか口を開いて、
「ノルマの件、ですよね?」
それだけをなんとか口にした。
自分の職種は営業だ。一月いくらのノルマがあって、その数を達成するために日々追われる毎日を送っている。
それを達成できない人間は、こうして個人的に呼び出されて叱責されるのだ。
上司は長い溜息を吐いて、あのさぁ、と苛立ちの滲んだ声を漏らす。そこから先はひたすら罵倒が続くのだ。数字が達成できないことに対するお叱りから始まり、普段の勤務態度を詰る過程を経て、ついには人間性を否定する単語が出始める。
ここで文句を言っては、この時間が延びてしまうだけだ。ひたすら耐えて、耐えて、上司が満足して去っていくのをただ待つ。
こちらが俯いて耐えている間に、満足した上司は捨て台詞のようなよくわからない大声を出した後で席を立つと、会議室の扉を勢いよく閉じて去って行った。
ばたん、という大きな音にびくりと体を震わせた後で、大きな溜息を吐く。
「……うまくいかないなぁ」
就職難の中、ようやく決まった就職先だった。初めての営業職、特に教育など受けられないまま、飛び込みの営業を任された。
やり方などよくわからない。だけど、何かをしなければ、いや、したとしてもこうして自分を否定される毎日だ。
その上、貰える給料も安いときた。仕事を続けるモチベーションなど沸くはずもない。
マゾにでもなれば楽になるのかねぇ、なんて思いながら、社屋の外、敷地内でも人がこなさそうな建物と建物の間で自販機で購入した缶コーヒーを飲んでいると、
「お、先客がいたのか」
なんて声かけをしながら、同じ課の先輩社員がやってきた。手にはタバコの箱と百円ライター、そして携帯灰皿がある。最近の禁煙風潮にあてられて、我が社でも喫煙スペースを置かなくなっている。こういう場所は、そうやって追いやられた喫煙者の憩いの場になっているのだろう。
人に会いたくなかったのに。失敗したかなぁと思いながら、会釈だけを返して視線を外すと、
「タバコ、吸っても平気かい?」
視界の外で、彼がこちらにそんなことを確認してきた。
律儀な人だなと思いながら、視線を合わせないまま言う。
「大丈夫ですよ。お気になさらず」
「悪いね」
彼は嬉しそうな声音でそう言うと、かちっと音がして、視界の隅に白い煙が見えて、鼻を刺すような臭いが漂った。
無言の間が落ちる。よく知らない人と空間を共有するのは、苦手だった。
さくっと飲んで戻ってしまおうかと思ったところで、ふと声がかかる。
「随分と落ち込んでんなぁ。なんだ、呼び出しでもくらったか?」
一瞬、自分に声がかかるとは思っていなかったら反応が遅れてしまったが、なんとか頷きを返す。
「ええ、まあ。なかなか数字が達成できなくて」
「あー、面倒だよなぁ。この仕事はそういうもんだけどな」
けたけた笑う彼に、なんだか親しみらしき何かを感じて、勢いのまま聞いてみた。
「コツとかってあるんですか?」
「ん? 数字をとるコツってこと?」
「ええ、はい。そうです」
「飯のタネだぜ。そうそう教えるもんでもないだろ」
「ですよね」
笑って、聞いてみただけですと続けようとしたところで、
「……いやまあ、いいか。出来るかどうかは知らんが」
彼は予想外にもそんなことを言った。
「いいんですか?」
「みんなやってることで、まぁあまり褒められた方法じゃあないがな。もう俺辞めるし、教えたところで不都合ないから」
「え、辞めるんですか?」
「田舎に引っ込むの。正直次を探すのが辛いんだけど、親がちょっとなぁ。ってまぁ、俺のことはいいんだよ。コツの話だろ、メインは」
「ああ、まあ、そうですけど」
「言っても、大したことじゃない。そして褒められた手法じゃあない。簡単なことだよ。一人暮らしの爺婆を狙うんだ」
「なんでです?」
「金を持ってるから。金を持ってなくても、一人暮らしだと親密になりやすく、騙しやすいから。
もっとうまくやるやり方や、真っ当なやり方なんかも色々いるだろうが、そういうのは長く続けて見つけるか、向いてるやつが自然とやってるような奴だ。
手っ取り早く数字をあげるなら、狙うのはやっぱり爺婆だよ。ハードルが低い。イージーモードってやつだ」
「はぁ」
「あとは、契約の説明をするときには、不都合なところは可能な限り説明をしないことだ。ただひたすら、その契約をすることで起こるだろう良いことだけを並べる。
一般的な意味で誠実である必要はない。
聞かれたことに嘘を言うのはどんな場合でもやっちゃいけないことだが、聞かれなかった、契約者にとって不都合な事実は言う義務もない。相手を乗せること、それが一番大事なのさ。
まぁ最初に言ったが、出来るかどうかは人による。何事もそうだがな。試してみたいなら試してみればいい」
そう言って、彼はタバコを吸い切ると、携帯灰皿に吸殻を放り込んで、
「じゃあ、俺は行くわ。精々がんばんな」
最後にそう言い残して、この場を去って行った。
あまり関わったことはなかったが、随分と気のいい先輩なんだなと思った。
そして後日。実際に彼は職場から姿を消した。
●
彼が居なくなってから数日が経った頃になって、彼から教えられた通りに、まずはやってみることにした。
愛想よく笑い、猫なで声――かどうかは自分ではよくわからないが――のような聞こえのいい高い声を意識して、独居老人のところに通うようにした。
最初はインターホンに出てもらうことすら難しかった。何度も通う内になんとか玄関口に入ることを許されるようになり、契約内容の説明をすることができるようになるまでには、更に時間を要した。
ただ、彼が言ったとおりに、少なくとも自分にとっては以前までターゲットにしていた青年から初老の世代と比べればとっつきやすい感触はあったように思う。だからこそ続けられたとも言える。
契約の説明をするときは、この契約をすることで起こり得る利点のみを徹底して話すようにした。明るい未来を想像できるような、聞こえの良い言葉を並べるようにした。
そうやって続ける内に、今日なんとか、一件の契約をとることに成功した。
正直嬉しかった。なにせ初めて取れた契約だ。嬉しくないわけがない。契約書に印鑑を押してもらう瞬間は、思わずガッツポーズをしそうになったくらいだ。やると不興を買うからやらないように必死になったけれど。
契約が取れたことを報告したら、上司もようやく一言褒めてくれた。次も頑張れと声もかけてくれた。おかげで、会社での居心地も少し良くなったように感じられた。
ただ、契約時に笑いあった相手の表情を思い出すと、少し靄がかかったような、筆舌に尽くしがたい気持ちが湧き上がるのが、少し気にかかった。
その後も、同じやり方で契約をいくつも取った。
おかげで社内の評価も上がった。上司からお叱りを受けることも少なくなった。社内でも過ごしやすくなったし、給料も上がった。充実感もあった。
一方で、喉に小骨が刺さっているかのような違和感も積み重なっていった。
その原因が罪悪感であったことに気付いたのは、以前契約した相手からクレームが入ったときだ。
クレームの内容は、結局のところ、契約したときに聞いた話と全然違うじゃないかと、そういう内容だ。
そう言われるのはわかっていた。しかし、それは相手が勝手に勘違いしていたことだ。騙していたわけじゃない。
だけど、相手が期待している状態にならないことを、自分は知っていた。それを言わずにいたことがずっと気になっていたのだと、そのときになってようやく気付いたのだ。
しかし、現状の自分ではどうすることもできない。
ノルマを果たすことで精一杯の自分では、何も出来ない。
相手が勘違いしているだけなんだから自分は悪くない、と思いこもうとした。だけど、無理だった。
だから、どうすればいいかを考えた。
最初は仕事をやめようかと思ったが、その考えはすぐに却下した。給与は増えてきたが余裕があるわけじゃあない。貯金だって心もとない。次もマトモな職場であるかは疑わしい。懸念点は数え上げればキリがなかった。
現状のやり方を突然変えても、状況はよくならない。
ならば、その罪悪感を減らすにはどうすればいいのかを考えた。
そうして、今まではただひたすらに契約を取ることだけを考えて、相手のことを考えていなかったからだと思い至った。
完璧に相手の要望に沿う商品など存在しないのだから、少しでも相手の要望に近い形で商品を紹介しようと考えることにしたのだ。そうすれば、自分は努力したから悪くないと、そう思えるのではないかと。
そう思ってから、活動の仕方を変えた。
まずは自分の扱う商品についての知識を深めることにした。今までは漫然と紹介するだけだった内容を、噛み砕いて完全に理解できるように読み込んだ。
次は、相手に取り入るためだけの会話をやめた。その会話の中から相手の状況を慮り、自分の知っている商品をどう組み合わせれば相手の要望に近いものが提供できるかを考えるようにした。
そうやって続けている内に、契約の数が増えるようになった。
充実感以上に、やっている仕事が楽しいと感じられるようになったし、社内での居場所を確保できるようになったと考えられるようにもなった頃には、入社してから数年が経っていた。
「……あー、疲れた」
仕事は相変わらず楽ではない。楽しいと思える瞬間も増えたが、基本的には気を使う仕事だから、疲れがひどい。
たまには少しサボろうと、そういえばあそこに久しく行っていないなぁとふと思い出したから、自販機で缶コーヒーを買ってから人の来なさそうな建物の間に行ってみた。
すると、そこには明らかに意気消沈している若い先客がいた。
まるで昔の自分を見ているようだと思い、あの時のことを思い出した。なんだか懐かしいような、恥ずかしいような、なんとも言えない気持ちが胸の辺りに留まった感じを覚えた。
もしかしたら、あのときの彼も、たまたま自分を見つけてあえて声をかけてくれたのだろうかと思いながら、声をかける。
「こんなところでサボってると怒られるぞー」
相手は、突然かけられた声にびくりと体を震わせた後で、こちらに視線を向けてくる。その視線には不満や苛立ち、不信感でいっぱいだ。
向けられた視線に苦笑しながら聞いてみる。
「随分な目を向けるもんだ。誰かに呼び出された後かな?」
視線がぷいっと外される。図星か。まぁよくあることだ。今になっても、無縁とはいかない。
「新人さん? どこの部署?」
「……営業です」
答えの内容に驚いた。そういえば新人は入っているとは聞いていた。顔までは覚えていなかったが、相手がそうらしい。この会社の営業は、自分の所属する部署しかない。
「うちの部署じゃん。呼び出しはやっぱりノルマの件?」
「……ええ、まあ」
やっぱり、と思って少し笑う。相手はそれが気に入らないようで、恨めしげな視線が向けられたが、受け流した。
「最初はみんなそうだよ。達成できなくて怒られる。耐えられなくなったやつはやめていく」
相手は少し迷うような間を置いて、聞きにくそうに尋ねてきた。
「……何かコツとか、あるんですか?」
まぁ聞くよなぁと思う。自分も聞いたことだ。
だからどう答えようかなと思って少し考えて、間を置いた後で言った。
「数字をとるだけならあるよ。誰でもできそうなの」
「……っ、教えてくださいっ」
「おお、うん、いいよ。あんまりいいのじゃないけどね」
相手の勢いに少し面食らったが、以前彼に教えてもらった内容を自分なりに話した。
相手は少し頭の回る人間らしい。聞いた内容をすぐに咀嚼したのか、不快感――だろう、多分――をありありと感じさせる表情を浮かべた。
優秀なんだろうなぁと思いながら、
「まぁあんまり褒められたやり方じゃない。けど、今は数字を取って状況をよくすることを考えたほうがいいよ。他に考える余裕ないでしょ、今」
そう言って反応を見れば、
「…………」
沈黙が返って来る。この場合の沈黙は肯定だ。だから、
「まずは契約取れる過程を体験しなよ。そうすれば、どうすればいいかが見えてくるんじゃない?」
そう続けて、ああ、となんだか合点がいったような感覚が湧いてきた。
あの人、こういうことを言いたかったのかもしれないな、と。
本当にそうだったのかどうかは本人に確認できない以上はわからないけど、そうだったなら有難いことだ。そして、それを誰かに対して出来る立場に自分がなれた――かもしれないことは、喜んでいいことだろうとも、そう思う。
悪くない気分転換になった、と頷いた後で、缶を傾けて中身を飲み干した。
「じゃあ、もう行くから。あとは自分で頑張りなよ」
「あ、ありがとうございました」
お礼の言葉を貰って、そういえばあの時お礼言えてなかったんだよなぁと思い出す。それにばつの悪い気持ちになりながら、
「俺も教えてもらったことなんだよね。そういうもんでしょ。気にしなくていいよ、うん」
お礼の言葉にそう返して、自分のダメさ加減を思い返して溜息を吐きながら仕事に戻った。
使ったお題は以下の三つ。
1)塩
2)エントランスホール
3)印鑑
塩は苦労という意味もあるそうで、まぁそんな感じに使ってみました。
話を落とすのって難しいですね……。