前編
乙女ゲーム、それは乙女のハートをきゅんきゅんさせるゲームである。
この『ハート・きゅん!学園!』とかいうふざけたタイトルの乙女ゲームも例外じゃないと思う。
…たぶん。
はっきり言えないのは、私がこのゲームをプレイしたことがないからです。
だってねぇ、こんな恥ずかしいタイトルいい大人が買えますか?
二十代後半にさしかかってるので…気になっても恥ずかしくて買えなかった。
それくらい買えよって思われるかもしれないけど、一度恥ずかしいなって思ったらもう駄目なのです。
あぁ、でも攻略対象はちゃんとチェックしましたよ?
うん。これが幸いなのか分からないけど私は今、その乙女ゲームの世界にいます。
モブとして。
「小森、おはよう」
「夏江くん、おはよう」
クラスメイトの夏江くんは攻略対象です。
オレンジ色の髪と人懐っこい笑顔が印象的です。
私――小森 里衣が乙女ゲームの世界に転生したと気付いたのは高校の入学式のときでした。
それまでは前世の記憶をもったまま転生したなって程度でした。攻略対象にかすりもしなかったから、あまり気にしてなかったんだけど、学校名の“はーとふる学園”もなんかゲームみたいな学校名だなって程度だった。でも、クラスメイトを見たときにビビッときました。攻略対象だ、と。
好感度を上げようとした時もあったけど、上がらなかったから諦めました。
もちろん、他の攻略対象も諦めました。
ヒロインにとって攻略対象なだけで、私の攻略対象じゃないからです。
それで、どうしたかというと…攻略対象外に走りました。
「羽ケ崎先生、おはようございます」
廊下をパタパタと走って先生に挨拶です。
「おはよう。小森、廊下は走らないように」
少し困ったように笑うと、少しだけ色素の抜けた色の髪が揺れる。あ、ちょっと明るいだけで地毛みたいですよ。初対面で気になって「教師も髪染めるんですね」って言ったら、笑って否定されましたから。
「はーい」
私は元気よくお返事した。羽ケ崎先生は世界史の先生です。担任でもないので接点も少ないです。
授業で顔を合わるその他大勢でしたが、名前を覚えてもらうまでになりました!嬉しくなったので好感度を上げようと頑張ってます。
「先生、今日はお手伝いありますか?」
切れ長な目が考えるように視線をずらしました。
「…今のところはないな」
「お手伝いする事ができたら言ってくださいね。私以外の人に頼んじゃ嫌ですよ?」
ちょっと強く言い過ぎたかな?でも、たぶんそんなに気にしないはず…。
「わかった、わかった。小森に頼むから」
そう言ってポンポンと私の頭を撫でました。
突き放さないので優しいし、生徒と教師の距離はちゃんと保ってくれます。
すばらしいじゃないですか。恋に恋してみたかったんですよね。
そう考えてると花のような声が聞こえました。
「羽ケ崎先生」
ヒロインちゃんです。あいかわらず声まで可愛いです。
先生の隣に立つと美男美女です。あ、先生もイケメンですからね。
私は邪魔にならないようにその場を離れました。
*
授業が終わって浮上するはずの気持ちが全然上がってきません。
羽ケ崎先生の授業の後は率先してお手伝いに行ったり、授業で分からないことの質問
をしに行ったりするのですが今日は止めようと思っているからです。
頑張るあまり近付きすぎて嫌われたら、へこみますからね。
毎日毎日、駆け寄る私を面倒に思われたら嫌だな。
…もう少し距離をとりましょうか。
閉じた教科書を見つめたまま溜息が出る。
「元気ないね、大丈夫?」
顔を上げると夏江くんが私の机の前にいた。心配そうな表情をみせた後、それを振り払うように明るい顔で言葉を続けた。
「帰りにクレープ食べに行こう?」
元気付けようとしてくれてるのだと思う。
夏江くんは優しいからクラスメイトにもこうやって気に掛けてくれる。
前もこんな風に誘ってくれた事があった。
夏江くんは攻略対象だったから、ちょっと期待した。そう思ってたのは私だけでヒロインちゃんや他のクラスメイトも一緒で、その期待は一瞬で吹き飛んだけどね。
乙女ゲームらしく、イベント的なものが見れると思ってたのにな…。
でも、こうやってクラスの皆に優しいとこが夏江くんの良いとこだと思う。
なんだかんだ言っても嬉しいので「行くよ」と返事をしようとしたら、呼び止められた。
離れていても穏やかだけど真っ直ぐに、よく通る声で。
「小森」
「はい」
「雑用頼んでいいか」
先生は私に無茶な用事は頼まないので、もちろんイエスですよ。
今日は止めようと思ってましたが、先生から言うのは別です。
準備室で、今日もプリントを束ねてホッチキスでとめる簡単な作業です。量が多いのでちょっと時間はかかるけど。
「小森」
「はい、なんですか?」
「夏江が好きなのか?」
どうして、いきなりその話題なんだろうか。首を傾げてると、先生が私の名前をもう一度呼ぶ。
私は、とりあえず答えようと口を開いた。
「好きか嫌いで言ったら、好きです。でも…」
もう攻略する気は
「でも?」
「あ、いえ。その、…たぶん友達です」
私は友達だと思ってるけど、夏江くんは私のことをクラスメイトとしか思ってないかもしれない。
「…たぶん、ね」
そこで会話は途切れてしまった。手が止まってしまったので、慌てて作業を再開した。
「悪いな、いつも手伝ってもらって」
「いえいえ、羽ケ崎先生のお願いは絶対です」
私がそう言えば、先生は少し驚いたように瞬きをしました。
あ。まつげ、結構長いんですね。じゃなくて、なにか変なこと言いましたか?
「羽ケ崎先生?」
「小森は嫌になってないか?」
先生のお手伝いをすることですか?
私から言い出したことなのでそんな事まったくない。嫌だったら朝一番に先生に声を掛けたりしないですよ。むしろ逆だと思ってましたし。そう思いながら口を開く。
「嫌じゃないです。好きです」
先生の目が見開かれる。ん、お手伝いすることは変ですかね。別に誰にでも進んでお手伝いしてないですよ?先生が私の好みだったのでちょっと贔屓してるだけですよ。
「小森」
やわらかい眼差しが落ちてくる。距離が近い。
「あの、どうしましたか?」
「つれないな」
「え」
私の頬にかかった髪を撫でられて、そのまま頬に羽ケ崎先生の指が触れました。
先生が深く笑いました。すごく甘い表情に見えます。
視線が絡まりあって、なんだかこれは…。
「小森は可愛いな」
これは恋愛フラグってやつですか。
「小動物みたいだな」
「それは、どういう意味ですか」
「そのままの意味だよ」
全然答えになってないと思います。うーん…と考えるていると先生の指がおでこに触れる。
眉間にしわがよってたのかな。少し力を抜いて先生を見れば、彼の言葉が落ちてきた。
「懐かれたら悪い気はしないだろ」
「もっと懐いてもいいってことですか?」
先生は肩を震わせて笑った。
「先生の言葉は難しいです」
「そうか」
そうです。フラグがたったのか、折れたのか全然わからない。そもそも攻略対象じゃないから、この言い方は適切じゃない。じゃあ…好かれた?
先生は両手を広げた。
「もっと懐いていいぞ」
考えを中断して、飛びついた。だって目の前に恋が転がってたら抱きつきたくなるじゃないですか。
「先生、私のこと好きなんですか」
私の問いに、くぐもった笑い声が返ってきた。背中にまわされた手が熱い。
「せんせ、羽ケ崎先生――」
猫を撫でるように、頭を撫でられる。「んー?」と気の抜けた返事が返ってくる。
「質問に答えてもらってないです」
唇を尖らせれば、唇に先生の指が触れてきた。
「知りたいか?」
見上げればそれは綺麗な笑顔だったので一瞬、固まってしまった。
逃げる隙を与えてくれているのだろうか。そもそも腕の中が心地いいので逃げる気はなくなってます。
「知りたいです」
視界に影がかかり、甘く痺れる声で私を呼んだ。
'15.8.30修正