落ちる穴 4
「あーら、おかえり伊万里ちゃん。寒かったでしょう」
「た、ただいま」
リビングに入ると椅子に座った姉の衣吹が笑顔で迎え入れた。
「どうしたのこっち来なよ」
「うん……」
テーブルを挟んで姉と向かいあうと、姉はこちらに手を伸ばした。
「わっ、冷たい! もーマフラーと手袋はどうしたの?」
「えと、家を出る前に忘れちゃって……」
私の頬に触れた姉はその寒さに驚いたようだ。ちょっと待ってなさいと言ってキッチンに引っ込んだ。
「はいお待ち」
両手にマグカップを持ってきた姉は一つを私の前に置き、もう一つに口をつけた。姉に倣いマグカップに口をつけるとココアの優しい味が口の中に広がった。
「あの、姉さん」
「なあに」
「怒ってないの?」
恐る恐る聞いてみた。どうせ怒られるのなら遅いより早い方がいい。それに今ならまだ許してくれるかもしれないという微かな希望もあった。
「まあまあ、そんなことよりまずはココアを飲みなよ。話はそれから、ね」
姉は質問に答えずニコニコ笑ってそう言った。その様子に私は少しだけ安堵して促されるままにココアを冷ましつつ飲んだ。
「あっ、飲み終わったんだ」
一旦リビングを離れた姉が戻る頃にはマグカップの中は空になっていた。
「さて、伊万里ちゃんは外に出ちゃったんだよね」
私が話すよりも先に姉の方が切り出してくれた。
「うん」
「それはハルにも内緒で?」
「……うん」
「そっかぁ」
姉の声に若干の落胆が混じり私の身を竦ませる。
「あの、ごめんなさい」
「ん?」
「勝手に家を出てしまってごめんなさい」
そう言って私は頭を下げた。今まで姉を心配させたことは何度かあったけど今回が一番心配させてしまったのではないのだろうか。普段はすぐに笑って許してくれた姉が沈黙を保ったままで顔も心なしか悲しそうだ。なんてことをしてしまったのだろうと今更後悔した。元々明確な理由なんてなかったんだ。家でおとなしくしてるべきだったんだ。
「ごめんなさい」
もう一度だけ謝ると、姉は大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐いた。
「しょうがないなあ、でも次はもうないから」
ということは私を許してくれたのだろうか。本当に? よかった。
私は心の中で安堵して姉に笑いかけ……笑いかけ……
「あ……れ……?」
笑うことができなかった。どうしてだろうと喋ろうとしたけどそれも失敗してしまった。姉はその様子を見て笑ったままだった。何かがおかしい。
「やっと効いたみたいだね。ホントならもっと早いはずなんだけどなあ」
舌が痺れて上手く喋ることができない。手足まで痺れるようになってきた。唐突に訪れた体の異常と姉の言葉についていけず、私は混乱した。
効いたって何が? 何で動けないの?
「……に……が……」
「えっ、何? 何て言ってんの? ああ、何が起きたのかって? あはは、伊万里ちゃんは相変わらずニブイなあ。そんなの私がクスリを盛ったからに決まってるじゃない」
あっさりと、姉は私の体が痺れた理由について語った。クスリを盛ったのだと、だから私は動くことができないのだと。でも死にはしないから安心してほしいと、そう言った。全く安心できなかった。
椅子から立ち上がった姉はポケットに手を入れると何かを取り出した。それは首輪で装飾品というよりも犬や猫につけるようなタイプのものだった。
私にクスリを盛った姉が首輪を持って何をしようとしているのか。ニブイと言われた私でも想像がついた。逃げようとして椅子から立ち上がりかけ、転げ落ちてしまった。肘をしたたか打ち付けてしまったけど痺れのせいで痛みを感じることはなかった。
「大丈夫? 痛くない?」
「あ……うぅ……」
「何言ってるかわかんないけど大丈夫そうだね」
うんうんと満足気に頷いた姉は私の首に手をかけると続けて言った。
「次はないって言ったよね。おやすみ」
抵抗する間もなく姉によって落とされてしまった。
目を覚ますと自分の部屋にいた。体の痺れは回復したみたいなので状況を確認すると首にはしっかと首輪がついていた。自由に動けるようなのでベッドから抜け出すとそれを見計らったかのように部屋のドアが開いて姉と弟が入ってきた。
「起きたんだ。大丈夫?」
「気分悪かったりしない?」
開口一番二人は私の心配をした。二人の問いかけには答えずに私は何故、と疑問を口にする。
「何であんなことしたの? 何で首輪がついてるの? 何で春樹はおかしいと思わないの?」
後ずさる私に二人は一歩ずつ近づく。
「伊万里は疑問ばかりだな。何で何でーって」
「私たちが伊万里ちゃんのことが好きだからに決まってるじゃん」
二人は笑い合いながら言った。だけどその笑みはいつもとは明らかに質が違っていて私が恐怖を覚えるには十分だった。
「す、好きって……」
「マフラーと手袋さあ、ホントは誰かにあげちゃったんでしょ? あー、いいよ、聞いてたからさ。見ず知らずの赤の他人にまで優しいよね。でもさ、その優しさは私たちだけに向けてほしいわけよ」
「なに、それ……」
「だからさ――」
私のことが好きだから前の家から連れ出した。
私のことが好きだから今の家から出てほしくない。
私のことが好きだからゲームや漫画など好きなものを買い与えた。
私のことが好きだから二人は毎日頑張っている。
私のことが好きだから。
私のことが好きだから。
「なのにさ、伊万里って僕たちのことを好きじゃないよね。でもそれって酷くない? 僕たちはこんなに伊万里のことが好きなのに」
「そんなこと、ないよ」
「じゃあ僕たちのこと、好き?」
純真無垢な瞳で弟が問いかける。
「好きだよ、春樹のことも、姉さんのことも」
瞳に気圧されながらもなんとかつっかえずに答える。でも二人はそれでは満足しなかった。
「そっか、嬉しいな。でもさ、その好きって家族愛だよね。それじゃあダメなんだよ。その“好き”は、私たちは、いらない」
私に言い聞かせるように一言ずつ区切って姉は言った。しかし言葉は耳から入っても頭では理解することができない。
ふと前を見るとすぐ近くに姉の顔があった。姉の小さな顔がそのまま近づき私の頬に唇を寄せた。ギョッとして離れようとしたけど、逃がすまいと背後から忍び寄った弟に体を抑えられてしまう。抵抗する間もなく今度は口へと。姉の舌が私の口内にまで入りこみ歯をなぞる。それを押し出そうとしたけど逆にお互いの舌が絡み合い辺りに水音が響くだけだった。
十秒、あるいは数分、酸欠になりかけたところでようやく満足したのか、最後に頬をひと舐めして姉が離れた。続けて弟も拘束を解く。
「私たちの好きはこういうこと」
私は床に手をつき足りなくなった酸素を取り込む。そして落ち着いたところで改めて二人を見る。姉は弟にスゴかったと感想を伝え、次は僕の番だと弟が意気込む。それを聞いて私はまたギョッとした。姉だけでなく弟までするつもりなのか。
二人は会話に夢中で私に気が向いてない。逃げるなら今だ。でもどこに? いや、まずは少しでもここから逃げないと。
私はすぐに行動した。姉と弟の間をすり抜けて玄関へと向かう。鍵とチェーンがかけられていた。震える手でなんとかチェーンをはずして鍵を開けたけどそのタイムロスは俊敏な弟が追いつくには十分だった。
「まったく、伊万里は短絡的だな、っと」
弟は私の髪を掴むと強引に引き倒した。
「どうして逃げようとしたの? 今までずっと優しくしてたのに」
「だ、だって、こんなのおかしい――」
「あんまり抵抗しないでよ、伊万里だって痛いのは嫌だよね」
弟は手をプラプラとさせて私に笑顔で言う。
「顔はやめときなよ。可愛い顔が台無しになっちゃうし、それにする時に萎えちゃうでしょ」
追いついた姉のセリフは以前見たドラマの悪役が使っていたものだ。顔は殴るな。殴るなら他の場所にしろ。ドラマではそういう意味だった。
「わかってるって衣吹姉さん」
私の髪を掴んで無理やり立たせると弟は握りこぶしを作ると私のお腹へと打ち付けた。
「っ! かはっ!」
弟は多少手加減をしたと思う。だけど暴力はおろか殴られることすら初体験の私にとってその苦痛は耐えきれるものではなかった。涙で視界はぼやけ呼吸ができない。おまけに胃の中のものまで吐き出してしまった。
「うわ、痛そっ。でも、伊万里ちゃんが悪いんだよ」
後始末を弟に任せると姉は蹲る私を背負いリビングに放り投げるとキッチンに消えた。
次に現れたとき姉の手には包丁が握られていた。
「ごめんね伊万里ちゃん。私もお仕置きしないといけないの」
「おし、おき? 殺すの?」
「そんなことしないよ、ただ両足の腱を切って逃げられないようにするだけだよ」
「ひっ……」
そんなことをされたらもう外に出ることができなくなってしまう。歩けなくなってしまう。ブランコに乗れなくなってしまう。そんなのは、イヤだ。
「い……や……だぁ…………」
涙混じりの声を姉はうっとりとした顔で聞いた。
イヤだ――
姉が私に馬乗りになる。
イヤだ――
動けないように私の足を手で固定する。
イヤだ――
「ちょっと痛いけど我慢してね」
イヤだ。
イヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだ、イヤだ!
「イヤだあああああああああああああああ!!!」
「なっ!」
姉が驚いた声をあげる。初めて聞いた声。私がこんな大声を出すのも初めてだ。
誰か助けて! 私の声を聞いて誰か! 誰か!
「あーびっくりした。はい、近所迷惑だから静かにしようね」
我に返った姉が私の口に手をあてる。
「そんな必死な顔初めて見ちゃった。あはは、その表情もイイね」
膝で私の腕を押さえて胸に乗りなおす。体重の掛け方が上手いのか全く動くことができない。
「んんー!」
「だぁから静かにって。勘違いされたらどうするの?」
こらっ、と叱る口調で姉は言う。
そのときリビングのドアが開いた。弟が様子を見に来たのだろう。ドアの向こうには案の定弟がいた。
胸にナイフが突き立てられ虚ろな目をした状態で、弟が立っていた。
「聞いてよハルー、伊万里ちゃんったら急に凄い声出しちゃって……さ……?」
遅れてドアに目を向けた姉は胸にナイフを突き立てられた弟を見て目を大きく見開いた。
よく見ると弟の背後には誰かいて、その人物が弟を支えていた。私たちが気づいたことを確認すると、その人物は弟を開放した。弟は真正面から倒れると胸のナイフはさらに深く突き刺さり一気に貫通した。血が勢いよく流れ出し辺りには赤い水溜りが広がった。
弟が死んだ。脈拍を確認したわけではないがナイフは明らかに心臓に刺さっていた。生きている可能性は限りなくゼロだろう。
「こんばんは、インターホンを鳴らしたんですけど、返事がなかったのでお邪魔しちゃいました」
まるで友達の家を訪れたかのような気安さで、公園で出会った少女はそう言った。
「あんた、誰?」
「すいません、異常者に名乗るような名前は持ち合わせてないんです。そういうあなたは馳川衣吹さんで間違いないですね」
「さあ、どうだろうね」
初対面の、しかも弟を殺した相手に姉はごく普通に話しかける。少女もこの場にそぐわない明るい口調で対応した。
「一体うちになんの用? 見たところ私のことも殺す気満々だけどこっちはそんなことされる覚えはないよ」
「またまたー、偶然この辺りを通ったら友達の悲鳴が聞こえるじゃないですか。これは助けないととドアを開けたら男の子が襲いかかってきたので返り討ちにしただけです。正当防衛ですよ」
「へえ、正当防衛か。ねえ、どうすんのこれ? ハル、死んじゃったんだけど」
姉に慌てた様子はない。恐怖で一言も発することができない私とは違いこんな状況は慣れっこだともいわんばかりだ。
少女は屈託のない笑顔を見せた。
「その心配は無用ですよ。これからあなたは死ぬんですから」
弟に刺さったナイフを無造作に抜くと軽く振るった。ピチャっと水滴が顔にかかる。唇にまで流れたソレを無意識のうちに舐めると鉄の味が口の中に広がった。いつの間にか自由になった右手で水滴に触れる。ぬるりとしたその水滴。それは水滴ではなく、血。
「う、あ……」
「伊万里ちゃん安心して。悪者はお姉ちゃんがすぐに殺すから」
「へえー、伊万里って言うんですね。良い名前です。伊万里、これが終わったらあたしが知ってることを全部教えてあげます。だから、少しだけ待っててくださいね」
最後に私が見た光景。それは狂乱の笑みを浮かべ踊るように殺し合う二人の姿だった。
両親に語り終わると私は時計をチラリと見た。約束の時間まで、あと少し。
「結末を見る前に私は気を失ってしまったんですけどまあ、あとは言わなくてもお二人は知っていますよね」
今日行われた葬式がその結果だ。私はそれを遠くから見ていたけど姉と弟がどれほど慕われていていたのかがよくわかった。あとからあとから人が訪れて父と母が二人きりになるまで随分待たなくてはならなかった。
「あのあと私は友達の家で目を覚ましたんですけど、そこで色々と教えてもらったんです」
正確には私が目を覚ましたのは友達の依頼主の家で色々教えてくれたのも依頼主のほう。教えてもらった真実はそれまで私が抱いていた家族への想いを容易に覆した。
「私ってあなたたちとは血の繋がりがないんですってね」
「ど、どこでそれを」
私と彼らの間に血の繋がりがない。それは私たちが家族ではないということで、つまり私たちは他人同士。
「姉さんと弟が欲しがったから買ったんですってね。買うときに私の記憶を弄って元からあなたたちの子という設定にしたと。そんなことが本当にできるのか疑わしいですが、実際そうなっているので信じざるを得ないですし、納得できる点もありました」
淡々とした口調で私は語る。責めたつもりではなかったが二人はそうとらなかったみたいだ。父は何か言おうとして言えず視線をあちこちに彷徨わせ、母の目には怯えの色が浮かび上がっている。私は両親を安心させるため言う。
「別に二人のことを恨んでいるとかそういうのはないんです。たしかにあなたたちからは疎まれていましたが、そのぶん姉さんと春樹からは優しくしてもらっていましたから。まあ二人の愛情は少し異常でしたけど……」
よくよく考えてみるとその片鱗はあったのかもしれない。私を部屋から出そうとしなかったのも、前の家から連れ出したのも全て二人で独占するだけだったのかもしれない。もし少女が家に来ていなかったらその未来は大いにあり得る。けど今は――
「そんなことはどうでもいいんです。今日私がここを訪れた理由は他にありますから」
「理由? 何なんだ?」
覇気のない言葉で父が答える。
「あなたたちに尋ねたいことがある人がいます」
タイミング良く部屋のドアが開いた。そこにいたのは私と友達になった少女。
「私は彼女の案内人ですよ」
こんばんは、と彼女は挨拶して二人に質問を始める。
最初は訝しげに聞いていた両親の顔色は目に見えて悪くなっていった。彼女が話しているのは二人が以前行っていたことで、いわば恥部だ。必死になって釈明し、少しでも自分の行いを正当化しようとする両親。しまいには私にまで謝りだし、これが白日の下に曝されてしまうと自分たちは生きていくことができない、と救いを求めた。
「ええ、わかっています。大丈夫です。心配する必要はありませんよ」
その言葉に二人は感謝して額を床に擦りつけんばかりにお礼を言った。そんな二人の様子を一瞥し、少女にあとのこと任せると私は部屋から退出した。
あなたたちが先のことを心配する必要は一切ない。
「これから死ぬ人には関係ないことですからね」
その直後、部屋から悲鳴が響いた。悲鳴はすぐ断末魔にかわり最後には何も聞こえなくなった。
部屋から出てきた少女は私の隣に追いつくと嬉しそうに言った。
「お仕事終了です」
「おつかれさま」
「はい、じゃあ帰りましょうか。あたしたちの家に」
「うん」
静かな空間の中で家路へ向かう私たちの声だけが響き渡った。
以上です。