落ちる穴 3
ひとつ前の後書きにも書きましたがこの話は全四話に変更しました。
それから、私は家で一人だけのときに外へ抜け出すようになった。反発したいとか、逃げ出したいといった思いからではない。自分でも明確な理由がわからないまま外を徘徊しはじめた。
私が勝手に外に出たことを姉と弟が知ったひどく怒るだろう。だけど二回、三回と私が外に出ても二人は気づいた様子も変化も見られなかった。二人には悪いと思いつつも外出をやめることはなかった。
毎日外に出ていたわけではないけど、流石に一ヶ月も経つとこの辺りについては大体把握できた。私たちが住んでいるマンションは市街地から離れていて周囲にはあまり家も建っていない。道路や土地はきちんと整備されているのに住んでいる人が少ないというのは奇妙だと思うけど、私には好都合だった。私には人見知りのきらいがあるし、平日の昼間から学校にも行かずふらつく私を怪訝な目で見られることもない。何より私自身が人に会いたくはなかった。人に会うと“アレ”が起こってしまうのだ。
不思議の国のアリス症候群。
私の場合は人からの視線を感じると遠近感がおかしくなって相手が近くにいるのか遠くにいるのか曖昧になってしまう。外にいるときにこの症状が起きてしまうと移動に支障をきたすので私が歩くところは必然的に人がいないところになった。
あとになって考えると昼間とはいえ人気のない道を一人で歩くなんて無警戒だったと思う。私はもう少し危機感を持つべきだったのかもしれない。だからあんなことになってしまったんだ――
その日はとても寒い日でちょうどクリスマスだった。こうしたイベント事に目がない姉と弟は前々から今日のために準備を進めていて料理やプレゼントなど色々と買い込んでいた。わざわざ部屋に飾り付までしていつも以上にテンションが高い二人に多少辟易したけど、朝食を摂っている時に二人とも学校と会社から呼び出されて落ち込んだ様子だったのは少しだけ同情をした。
同情して、二人を送り出したあと、せっかくなので私も出かけることにした。コートとマフラーを身に着けて準備を整えると私は家をあとにした。
外に出ると普段は人通りの少ないこの辺りもちらほらと人の姿が見られた。ケーキやプレゼントを買いに行くのだろう。誰もが笑顔を浮かべていて誰もが浮かれていた。そんな人たちを尻目に私はある場所へと向かう。信号をいくつか渡り坂道で何回か滑ってしばらく歩くと河川敷が見えてきた。そこからある程度歩くと公園に辿り着き、私は迷わず足を踏み入れた。
遊具には雪が積もっていて人が訪れた気配がなかったけどこれはいつものことだった。雪の上を歩くとキュッキュッと心地よい音が耳に入ってくる。ブランコに降り積もった雪を軽く払うと私はそこに腰掛けてゆらゆらとブランコを揺らした。ボーッとしているだけだけど家の中でゲームやしたり漫画を読んだりしているよりもずっと健康的だと思う。そうしてしばらくの間ブランコを揺らしてようやく手袋を通して掴んでいた鎖の冷たさを感じるようになった頃、視界の端に人影が映った。どうやらこちらに向かっているみたいだった。
公園内に入ってきたら帰ろうと思ったけど、自分が来たことで私が出て行ってしまったと相手に思わせたくなかったので断念した。せめて視界には入れないようにと近づいてくる人に背を向けてブランコを漕いでいたけど気配はどんどん近づいてきて、あろうことか隣のブランコに腰掛けて私に合わせるように漕ぎ始めたのだ。
内心逃げ出したい気持ちでいっぱいだったけど、相手が女の子でどこかの学校の制服を着ていること。私を気にする様子もなく前を向いたままブランコを漕いでいることから、私も彼女のことを気にしないように努めた。周囲に響くのはブランコが揺れる音だけでそれ以外はとても静かだ。
静かな空間は私の好むところだけど、見知らぬ人がすぐそばにいて、お互い言葉を発することもなくブランコを漕ぎ続けているというのは何だかシュールで、私は一体こんな所で何をやっているんだろうと思ってしまった。
「いい天気ですね」
声が聞こえた気がする。天気がどうとか。隣を見たけど少女は前を向いたままだった。聞き間違いだったのだろうか。
「いい天気ですね」
また聞こえた。呟くようなそれでいて透きとおった声。この場には二人しかいないので今の声は隣の少女が発したことになる。再び少女を見るけど彼女はやはり前を向いたままだった。
「あの……もしかして私に言いましたか?」
とりあえず話しかけてみると少女は前を見たまま答えた。
「そうですよ。だってここにはあたしたちしかいませんし……あー、もしかしてあなた、見えないモノが見えるとかそういう系の人ですか?」
「……いえ、違いますけど」
というか“そういう系”ってなんだろう? もしかして幽霊とか妖怪とか? …………まさかね。
ブランコを漕ぐのを止めると相手もそれに合わせて止まりこちらを向いた。横顔を覗き見たときから思っていたけどやはり目の前の少女は可愛らしく美少女と呼んでも差し支えないだろう。ただ……
「寒くないんですか?」
少女はコートも羽織らずマフラーも巻かず制服を着ているだけだった。どこの学校の制服だろうか。黒いセーラー服に黒いリボンで黒づくしなんて変わっている。だけど、どことなく古風な感じがするその格好は少女の雰囲気にとても似合っていた。いや、そうではなく、彼女は寒くないのだろうか。防寒対策をしていてもこの町の寒さは私には結構堪える。彼女の青白い顔を見ているだけで余計に寒く感じてしまう。
「寒いですよ、寒いに決まってるじゃないですか。ですけど、まあ、今はお金がないんですよ。金欠ってやつです。養ってくれた親は死んじゃってますしお金は自分で稼がないといけないんです」
「そう、なんですか」
「もー大変ですよ」
大変と言う割に彼女から悲壮さは感じられない。自らの境遇を嘆いている訳ではなく親の死を引きずっている様子もない。私たちが日常で起きた些細なことでさえも大変と言ってしまうように彼女の“大変”も本当に大変なのではないのだろう。そういう気安さを私は感じた。
「あの、これどうぞ」
そう言って私は身に着けていたマフラーと手袋を少女に渡す。少女はそれを見て一回、二回と大きく目を瞬かせた。
「いいんですか?」
「はい」
「ありがとうございます」
「あ、いえ」
少女はマフラーと手袋を受け取って身に着けると私に笑いかけた。その笑顔はとても可愛らしくて思わずドキリとしてしまった。同時に久しぶりとはいえ上手く会話することが出来ない自分が情けなくなった。
とりあえずあちらに移動しませんか、と提案されたので屋根付きのベンチに移動する。その前に近くにあった自販機で彼女の分まで飲み物を買うと彼女は思いの他喜んだ。早速蓋を開けて飲みはじめた彼女を見ながら私は缶を握りしめることで両手を温めた。そのまま静かな時間が続いた。彼女は飲み物に夢中で話しかけてくる様子がなかったので今度は私から話しかけてみることにする。今の空気に耐え切れなくなったわけではなく、純粋に彼女に興味が湧いたからだ。
「あの、どうしてこんなところに?」
興味本位から尋ねてみると彼女はあっさりと教えてくれた。
彼女は人探しのアルバイトで数日前からこの町を訪れたらしい。探し始めて大分経つし探す人数も結構多いのに未だ一人も見つけられないと彼女は愚痴を零した。見つからないのなら諦めたほうがいいのではないかと言ってみると、それは無理だと即答された。彼女の雇用主が探している人の一人と彼女自身が探している人が偶然にも同じで、生活も雇用主が保証してくれているので恩義があるのだという。
結構重い話だった。
「さて、次はあなたの番です」
「私の番って、何がですか?」
「あたしがここに来た理由を話したので次はあなたが話してください、ってことですよ」
「ああ、なるほど」
理解した。理解はしたけどあまり気が進まない。彼女ほどではないけど私の事情も少し変わっていると思っている。それをどう話したらいいのか。そもそも誰かに話してもいいものなのか。だけど彼女の重い話を聞いてしまったため私も何か話さないといけないという考えが脳裏をよぎった。
「ええと、じゃあ、話しますね。私の家はですね――」
両親が私のことを疎ましく思っていること。それを見た姉と弟が私を家から連れ出してくれたこと。だけど二人は私を新しい家から滅多に出してくれないこと。そして不思議の国のアリス症候群のこと。気がつくと私は全てを話していた。自分でも気がつかないうちにストレスが溜まっていたのだろうか。
「へえ、なかなか愉快な人生を送ってますね」
話しを聞き終わると彼女はそんな感想を漏らした。
「全然愉快じゃないです」
「不思議の国のアリス症候群、ですか。初めて聞きましたよ」
「私だって自分で調べて初めて知りましたよ」
「遠近感がおかしくなるんですよね。今もそうなってるんですか?」
「はい、困ったことに」
「いいじゃないですか、面白そうです」
「面白くないです」
私は少し怒ったように言ったけどその実、私の境遇に同情しない彼女のことを好ましく思っていた。彼女の恵まれない境遇に私が同情していないように、お互いに共感しているのかもしれない。
私たちは他愛のない話をした。好きな食べ物やおすすめのゲーム。今はまっていることや家族についてとか、多分友達同士がこういった話がするんだろう。ということは私と彼女はもう友達ではないのだろうか。あったばかりの相手に何を求めているんだと思うけど彼女も私を友達だと思っているのではないか。
「おや、もうこんな時間ですね」
彼女のつられて公園に設置されている時計を見るといつの間にか三時を過ぎていた。姉と弟は何時に帰ると言ってたっけ? 二人ともできるだけ早く帰ると言っただけで詳しい時間まではわからない。もしかしたら既に帰ってるのかもしれない。
サッと血の気が引いた。もし私が勝手に外に出ていたことを知られたら二人はどうするだろう。怒られるのは当然として酷ければそれ以上のことをされるかもしれない。
「これからどうしましょうか? どこかのお店に……はお金がないから無理として、そうだ! あたしがお世話になっている人の家に行くのはどうですか? ここからだと少し離れてるんですけど」
彼女の申し出はとても嬉しい、だけど姉と弟が既に家に帰っている、もしくは帰る途中かもしれないという可能性を考えるとこれ以上外にいるのは得策ではない。
「ごめんなさい、用事を思い出してしまったのでもう帰らないといけないんです」
「そうですか」
残念そうに彼女は言った。私だって残念だ。でも勝手に外に出ていたのがバレたら今後外出することがほぼ不可能になってしまう。それだけは避けたかった。
「ごめんなさい、今日は無理ですけど近いうちにまたここに来るのでその時にまた話しませんか?」
「そうですか。そうですね、今日が最後というわけではないのでまた会えますよね。あたしもちょくちょく来るようにします」
また会いましょう、と実現できるかわからない約束をして私は公園をあとにした。途中で友達になろうと言っておけばよかったと後悔したけど、それは次に会えたときに言えばいいし私は彼女のことをもう友達だと思っているからいいかと結論づけた。
人目を集めることを厭わず私は走った。早く、とにかく早く。何回か滑って転んでしまいさらに人目を集めてしまったけど私はそれを気にもせずに家まで急いだ。おかげで普段よりもずっと早く家にたどり着いた。乱れた呼吸を整えて静かにドアを開ける。玄関に誰もいないことに安心して、視線を下げたところに見慣れた姉の靴を見つけてしまい、私は戦慄した。