落ちる穴 2
「この人殺し!」
久しぶりに再開した母から繰り出された言葉はこれまでない強い感情が伴われていた。隣では父が涙を流しながら私を睨みつけている。
「どうしてオマエだけが! オマエのせいで二人は!」
「……やめなさい」
父は母に比べて、まだ理性的なほうだった。ヒステリック気味に話す母を低い声で宥めていた。父が抑えていなかったら母はとっくに私に危害を加えていただろう。
「伊万里、どうしてこんなことになったのか、私たちに説明しなさい」
「説明とは? 一体どこから説明したらいいんですか?」
「最初からだ。お前たちが家を出て行ったあとのことを最初から、全て話しなさい」
「今更そんなことを話して何の意味があるというんです」
私の言葉に父は怯んだ様子を見せる。昔の私は親の言うことに唯々諾々と従うだけだったので、このような返答は予想外だったのだろう。
呆然とした父の隙を突いてスルリと抜け出した母が勢いよく私に掴みかかり、押し倒してきた。そのまま馬乗りになり私の首に手をかける。
「何の意味があるかですって! 自分の子どものことなんだから知りたいのは当然じゃない! いいから教えなさい!」
首に掛かった手の力は徐々に強くなっていった。頸動脈が圧迫されているのか、視界がぼやけ血の気が引いていくのがわかった。
「あっ……かっ………」
教えろ教えろ、と狂ったように繰り返す母。だが彼女の行為によって私は言葉を発することが出来ない。それに母は気付いているのか。多分、気付いていないだろう。
母の矛盾した行動を滑稽に思い、私の顔は苦しさからではなく笑みによって歪む。
「な、何がおかしいのよ」
首を絞められているのに笑っている私に母は恐怖したのだろう。引き攣った声を上げて後ずさる。椅子が倒され、その音でようやく我に返った父が母の元へと駆け寄った。
「お願いだ、何があったのか教えてくれ」
懇願するような父の声。脅えたような母の顔。それは私が今まで見たことも聞いたこともないモノだった。
「そこまで言うのなら今まで何があったのかを教えましょう。ですが、そうですねえ……話はここではなく、家に帰ってからにしませんか?」
私はそう提案したが二人は躊躇っていた。理由はわかっている。二人ともこの場から離れたくないのだろう。
室内を見回す。昼間は色んな声で溢れていたこの部屋も、今は耳が痛いくらいの静寂に支配されていた。
時計の秒針が何周かしたけど二人は一向に動く気配がない。
「……わかりましたよ。ここで話せばいいんでしょう。」
我慢比べをするつもりはないので自らの提案を早々に撤回する。
安堵の表情を浮かべる両親に「ただ、そう話すことはありませんよ」と前置きをしてから私は語り始めた。
「さあ、今日からここが私たちの家よ」
私と弟を見ながら姉の衣吹は弾んだ声で言った。
「すごいよ衣吹姉さん。こんなにいい部屋よく見つけられたね」
弟の春樹がはしゃいだ声で言う。
確かにその通りだった。建物自体は少々古いが、室内は広く掃除もしっかりと行き届いていた。
一回り程年齢が離れた姉は社会人として企業に勤めていた。働いて得た給料を浪費することもせずに貯蓄していた姉は、お金が十分貯まると以前から目をつけていたというこのマンションを即座に購入した。両親にはそれを知らせずに私と弟を連れて逃げるように家を飛び出したのだ。そして今日からここが新しい家になると言う。反応を見る限り弟も姉に協力していたらしい。
「でも姉さん、本当によかったの?」
「ん? 何が?」
私の問いかけに姉はキョトンとする。
「高かったんじゃないの、ここ?」
「あー、まあね。安くはなかったし、楽じゃなかったなあ。イロイロと苦労もしたしね。でもさ、その甲斐があったよ。これからはずっと私たち家族だけで暮らせるんだから」
「家族だけって? お父さんとお母さんは?」
私の言葉に、姉は何が面白いのかクスクスと笑い出す。
「あははは、伊万里ちゃんは優しいねえ。まだあの人たちのことを親なんて呼べるんだ」
「それは、私が期待に応えられないのが悪いから……」
「伊万里ちゃんは悪くないって」
「でも、家族って……」
「いいから! この話はこれでおしまい。ねっ」
強引に話を遮ると姉は弟の方へと駆けて行った。
姉と親との仲は悪くなかったはずだし、それは弟も同様だ。親との仲が良好だった二人がどうしてこんなことをしたのか私にはわからなかった。前に二人が家から離れると言っていたけど、私は本気ととらえてはいなかった。だけどその結果がこれだ。姉は頑なに理由話そうとはしなかった。
新しい家に引っ越してから数週間が経った。私は学校に通っていなかった。というか、姉に辞めさせられてしまった。
「いや、姉さん。さすがにそれはちょっと、卒業して進学しないと姉さんみたいにちゃんとした会社に就けないし」
「だからいいって、伊万里ちゃん。勉強なら私が教えるし、お金ならちゃんと稼いでくるから。ハルだってそのうち働くしね。ねっ、ハル?」
「そうだね。伊万里は何の心配もしなくていいよ。外のことは僕たちに任せて伊万里には家のことを頼みたいな」
二人は当然といった様子で私が学校へ通うことを拒んだ。それだけではない。私が外に出ることも嫌がるのだ。散歩も買い物もゴミを出しに行く少しの時間さえ、私が外に出るのを二人は渋り、とにかく家の中にいてほしいと言った。
その過保護ぶりは今にしてみれば異常だとわかるけど、当時の私はそれほど気にせず二人に従っていた。私のためにマンションを購入したと言う姉の言葉に負い目のようなものを感じていたのかもしれない。
そういうわけで私は外に出ることもなく毎日を家の中で過ごしていた。さぞかし暇な日が続くだろうと思われたが、そのようなことはなかった。私を退屈させないようにと姉と弟は漫画やゲームに映画といった娯楽を私に提供してくれた。加えて姉は言っていた通り私の勉強の面倒を見てくれもした。
『卒業して進学しないと』と私は言ったけどそれは学校に通うための方便だった。本来私は勉強が苦手だし進んで取り組むこともなかったけど、姉の教え方は学校で教わるのよりもわかりやすくて私の学力は以前よりも遥かに向上していった……と思う。
勉強をこなして、漫画を読んで、映画を鑑賞し、ゲームをクリアすることで私の毎日は消化されていった。しかし私は次第に飽きてきてしまった。いくら娯楽が用意されると言ってもこのようなルーチンが続けば当然だろう。
そもそも。と私は考える。私はこの家に引っ越してから楽しいと感じたことはあっただろうか。姉と弟は私を両親から離してくれたけど、引っ越す前から私は両親からの対応に折り合いをつけていた。何も感じてはいなかった。
じゃあ今はどう?
客観的に見たら私は幸せなのかもしれない。私のことを心配してくれる姉と弟がいる。少なくとも家の中では自由な生活を送れて多少怠惰に過ごしても許される。
でも本当に?
本当に二人は私のことを心配している?
家の中でも自由に過ごせている?
二人が家にいるときに私と一緒にいようとするのは気のせい?
一人過ごしているときに時折感じる視線は勘違い?
つい考えてしまう。もしかしたら二人は私のことをペットのように見ているのかもしれない。まだ私が学校に通っていたときのこと。勉強もスポーツもまるで駄目だったけど、学年問わずよく告白をされた。姉と弟も整った顔をしてるけど、私は群を抜いて優れている。そう誰かから褒められたことがある。当時の私は付き合うとかよくわからなかったのですべて断っていた。二人には告白されたことを言わなかったがどこからか聞きつけたのか、どうして教えてくれなかったのかと珍しく怒られたので覚えている。
二人は私に執着しているのだろうか。だから私のことをペットのように、愛玩動物のように大切にし、可愛がっているのではないか。そう思ってしまう。そして仮にそうだとして、それの何がいけないの? とニッコリと笑いながら言う姉の姿が容易に想像できた。
「とまあ、多少歪でしたが平和な日々を送っていましたよ、私たち三人は」
過去――そう昔のことではない話を私は両親に語ってみせた。
それほど時間は経っていないがこれほどの時間、両親と向かい合って話しをしたのは今日が初めてだった。
ふと、窓を見ると外は雪が降っていた。
「そう、そんなことが……」
ペット云々では眉を顰めていたが母は落ち着きを取り戻し、父の硬かった表情も大分崩れていた。離れた子どもがどう過ごしていたのかを知ることができてやはり嬉しいのだろう。そこに私が入っているかはわからないけど。
「続きを、話してくれないか?」
急かすような父の声。その気持ちはわかるけど、私自身どう説明したらいいのか迷っていた。
なぜなら、これから話す出来事が一番重要で、今この場にいる理由に繋がっているのだから。
「えーっと、はい。それから……」
私は言葉を選びながら今に至る過去を紡ぎだした。
「それから―――」
次で終わります。
すみません。次で終わりますと書きましたが全体のバランスを考えて全四話とします。十月十六日