落ちる穴 1
「オマエは本当にダメな子だね」
それが母の口癖だった。
対する私も、もはや口癖となった言葉を返す。
「ごめんなさい」
私には母の言葉を否定することが出来ない。すべて事実だからだ。
愚図。間抜け。ダメな子。愚か者。
これらはほんの一部。私を罵る母の言葉のレパートリーはとても豊富だ。父も言葉にはしないが、普段の態度から私の存在を鬱陶しく思っているのは明白だった。
最初は母からの酷い言葉に、父の私をいない者として扱う態度に、私は涙して、改善しようとした。
だけどそれは無駄に終わってしまう。
必死に勉強をしても成績は上がらず、スポーツはどんなに練習をしても上達することはなかった。母の言う通り、私は愚図で間抜けなダメな子という現実を再認識させられただけだった。
自分の心が壊死していっている。いつしかそう思うようになったのは、前ほど母の言葉にも父の態度にも悲しいと感じることがなくなっていたからだ。ただ謝罪の言葉を機械的に述べるだけとなっていった。
それとは別に、不思議な現象が起きるようにもなった。
その日もいつものように私を罵る母だったが、その姿が突然遠くにいるように見えたのだ。もちろん、手を伸ばせば届く距離にいる。にも関わらず母は私の目の前から急激に離れて小さくなっていった。声もどこか遠くから聞こえてくるようにもなり、父親が近くにいる時も同様の現象が起こった。
気になって調べてみたところ、現象にはちゃんとした名前があるらしい。
不思議の国のアリス症候群。
名前からわかるように『不思議の国のアリス』でクスリを飲んだアリスが大きくなったり小さくなったりしたことから、そう名付けられたらしい。
自分の心が壊死していることに加えて、この現象が起きはじめたのは良いことだったのかもしれない。両親の私に対する扱いを、スクリーン越しに見ているようで、私の中では完全に他人事として処理するようになった。
「どんまいどんまい、伊万里ちゃん。あんな人たちの言うことなんて気にすることないよ!」
「伊万里のことは僕たちが守るから。もうすぐこの家からも離れられるから心配しないで」
出来た人間である姉と弟は私の変化に気づいた様子はなかったが、私のことを本気で心配してくれていた。笑うことがなくなった私を見て、三人で親から離れよう計画してくれていた。そしてもうすぐ実行に移すことが出来るらしい。
「ありがとう、二人共」
感謝の言葉に二人は無邪気な笑顔を浮かべる。それを見る私も笑みを浮かべているが、内心ではあまり嬉しいと感じることはなかった。私のために計画してくれたのに。おざなりな謝辞にだって喜んでくれているのに。
チクリ、と心になにかが刺さった気がした。それが錯覚だったのか、それとも私の心は未だ死んではおらず、痛みを感じることが出来ているのか。
答えを知る術を私は持っていなかった。
続きます。