キャラが勝手に動くとかいう都市伝説について
キャラが勝手に動くとかいう都市伝説について
俺はだんだん状況が理解できなくなってきた。こんな緊張感と不思議な感覚は、中々に味わえない。いや人生初だとも言える。
いや俺は初めから、この感覚を知っていた。すこし前からシャルが段々俺の中で大きな。確固たる存在として動き出したのだ。
俺の中の、俺が執筆する物語では。既にシャルとの人間関係に置いて、発生するエネルギー。シャルは影響力や強制力と言っていたが。それによって既に俺は、シャルの愛の奴隷だ。同時にかよの奴隷でもあるのだがね。なかなかに面白いじゃないか。それで命を捨てられる、そういうキャラを俺が明確に演じきっていたとは言え。もう既に命すら心の底から本当に、これは本心からの。俺の嘘のない感情として、惜しくないと思っているのだからな。
まあこれ自体も、俺の裏側の。”物語の執筆者”にとっては。ただのキャラ付けなのかもしれないがな。まあそこは別にいいのだ。”キャラ”自体である俺には関係ないし、どうしようもないのだ。俺の中の俺自体という。キッパリと上位存在には、絶対に逆らえようもないのだ。
たぶん。所詮小説も現実も、大して違わないという事だ。ただ一つ違うことを上げるとすれば、自分が一からに近い形で作った物語は。より他人が作った物語よりも、自分に対する影響力、強制力。キャラに対する思い入れが大きくなるって事だ。少なくとも俺の中ではな。
それもある意味当然だとも言える。他人の執筆した。一から感情を精一杯込めて描いた小説でも。つまる所他人から見たら。他人の人生を傍から見るような感じだ。だったらその中のキャラに、真に感情移入するのは難しい。難しい理由は他にも星の数ほど、あるのでもあろうが。ここで全て列挙して説明するのは難しそうだ、また別の機会で考察したいと思う。
まとめると。他人の人生を傍から見ているだけでは。もちろん他人の感情を直に感じ、他人の人間関係における。他人が感じている通りの100%の影響力や強制力を受けるはずもない。いや受けれないと表現した方が正しいか。
小説もある意味同じだったのだ。自分で一から書かなければ、中々にキャラに真の意味で。自分が現実を実際に生きて、他人に感情移入するように。その様に存在を感じ、認識→認知→理解→解釈→意識→意思→感覚→動作の。情報を理性がフィルターに掛け、感情として出力する。全、脳のプロセスを最適に働かせ。リアルの=生の=自分の、”感情という情報”を出力するのは至難だ。
理性が無限に感情を律する以上。”現実でない=自分の現実でない”と。他ならない自分自身がそう感じる、そう判断する。他人の人生を傍から見る、という行為によって擬似的に感じる物語では。やはり限界があったようだ。なぜなら一切の嘘偽り無く(これは理想的にはだが)自分自身が”現実である=自分の現実である=自分の物語である”その”認識”こそが。それが第一に重要だったのかもしれない。情報を理性がフィルターに掛ける第一段階だ。ここを疎かにして、非現実である=他人の現実である=他人の物語である。にしては、最終的に出力される、自分の感情も。自分の現実として、そもそもが認識されず出力されないので。動かない、揺れないという事だ。まあこれもあくまで仮説だがな。
俺も含めて間違えて欲しくないのは。現実、リアルの体験。小説等々想像でない経験、情報。そういうのを全て否定するわけでもないし、価値が低いとかも思わない。小説体験の方が現実体験より価値があるとか、そういう事を言いたい訳でもなく。
でもまあ俺が今正に実感している事で、この手の価値を過大評価しているのかもしれない。これも後々考察し、正しい価値を評価したいと思う。
小説も現実もそうだが。それらの情報を他人からの視点で体験してては、不十分になりがちだ。
自分が本心から、いくらかでも。感情を動かすには、だ。その為には限りなく自分自身が”現実である”と錯覚できるほどの、そういう情報で無ければいけない。だからそれは難しいのだとも言えるが。人間は自分自身が実際に直面している現実ですら、自分の現実ではない=自分の物語でない=ただ単純に現実でない。等々と、現実から目を背け逃避してしまうのだから。それを他人の人生を傍から見る事や。他人の精一杯書いた小説からでも、いくらかでも感じる事は。それだけでも大きな難事業なのかもしれない。
もちろん現実を実際に生きた上で。の方が。小説など執筆による、擬似的な人間関係の影響力、強制力よりも強いのかもしれない。
だが人間関係が希薄で。そもそも自分自身のキャラが薄い、人間関係によるプラスの影響力や強制力が低い。それが低水準な人間は。
とりあえず沢山の小説を読んで。ブラインドタッチを極めて。苦もなく小説を書ける状況になった方が良いかもしれない。
なぜなら、自分自身で全力で、キャラの背景設定を考えたり。想像力を極めた形の。自分自身が第二の現実=現実である=自分の現実である=自分の物語である。そう感じられる様な物語。つまりそう感じられれば。自分の一から生み出したキャラから。リアルの人間関係のような、有用な影響力、強制力を感じ。人間関係による、感情の揺れ等々を発揮して、現実を生きる事ができるのだから
でもまあ、そんな事は今。あんまり関係ない、俺はただシャルと。今この瞬間、全力で俺にとって。そしてなによりシャルというキャラにとって。最良最大の人間関係を作り上げる事だけを考えればよいのだから。
ほかにも言いたい事は全て言っておこうか。一から小説を書くという事は、執筆している最中。ずっとキャラに情報を注ぎ込み、それを反映させた。情報を複雑にアウトプットした一人の明確に認識できる形の、物語という現実。史実を生きたキャラを自分で裏設定等々、想像を出来る限り働かせて、沢山の背景を創造しながら。そうして描くのだ。
この場合、そういうネタは質量ともに。沢山あった方が、良質な。高次元な。自分にとって影響力、強制力の高いキャラが出来易くなるであろう。だからこれからも、こういうネタを沢山収集する価値は。小説をこれからも執筆する以上、高くなるであろう。これは嬉しい発見だ、好きな小説を読む楽しみが。もう一つ大きく増えるのだから。
特に自分で一からキャラを作る価値は大きくありそうだ。もうすこし掘り下げて書いておく。割と重要で有用な内容だからな。
上記で説明したが。理性が情報にフィルターを掛ける上での、第一段階。認識がまず最重要といった。
これは人間ならば最重要なのだろう。自分の現実でもない情報を、全て無意識に一切のフィルターなく。自分の現実だ。と理性が判断して感情を揺れさせたり、動かしたりしていれば大変だ。どう考えても、人間が生まれた時から、習慣。それ以上の本能のレベルで、このフィルターは二十四時間。心臓期間のように人間を支えているのであろう。
それを上手く錯覚させるのが重要なのだろう、その為に。まず認識の第一段階で。自分の現実=自分の物語と錯覚させやすい。そういう土台から作っておくべきだったのだ。他人の物語では、自分の現実と考えがたいのかもしれない。
そして自分で一から物語を作るメリットは。無限大に一次情報=オリジナル史実として。小難しくなった、簡潔に言うと自分の物語なので、いくらでもオリジナルとして。様々な想像ができるのだ。それが世界の真実として定義できる。
これは他人の創作した物語では難しいであろう。自分のオリジナルの、理想の物語だからこそ。その現実が自分の物であると。確固たる確信とともに、認識できるのだから。さっきも言ったが、この”自分の現実=物語である、という認識”こそが最重要っぽいのだ。まだまだ俺の中ですら仮説っぽさを拭えないが、ある程度信憑性のある。何か法則性のようなモノを感じる、適当に参考とかにしてくれ。
それでは俺は、これからも。俺の中の俺の物語を執筆し続ける。まあ誰でもリアルを現実を、生で生きてる奴なら。無意識でやってることだから。別に応用もクソもないかもしれないが。これが知らない誰かにすこしでも助けになれば幸いだ。それじゃまた合う時まで、シーユーアゲイン。