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田中は青春を謳歌する女子高生で、毎日晴れやかに校舎をスキップするように徘徊し、たくさんの人から羨望を受ける美しさを振りまくことだけで人気を得、高校生活という集団で一つの建物に押し込められて他人というものを知る空間を、満喫して過ごしている。楽しい青春、楽しい学校生活。
と、いうわけでもない。
なぜなら彼女は生を突き放していて、死に魅入られているから。
うっすらとした微笑みを浮べたまま、授業中であるために静まり返っている校舎で、彼女はリビングデッドのように。
田中は浅い呼吸で。
渡り廊下を歩いていた。
大きめの窓からの日差しが、田中の靴のつま先や、リノリウムの床を明るい光で染め上げている。
斑模様のような光は、外の樹の葉にさえぎられた上で、校内にはいりこんでいる。
文化祭で展示されるらしきよくわからぬのが、渡り廊下の途中にある広くなっている所に、未完成のままに放置されていて、それにも日差しが暖かそうに刺し込まれていた。
田中はそういう景色を、一瞥だけして、前を向いた。
すると向こう側から、彼女にとって都合の良い相手が歩いてくるのがわかった。
よろこびを隠すこともせず、跳ねるようにその相手に近づいた。
絹髪塚 昇 教諭は、生物の教師。
「絹髪塚、先生ェッー」
飛び跳ね駆けつけて、そのまま抱きしめてしまうような勢いだった。
というか実際に、飛びついた。
絹髪塚はよたよたしながら田中を受け止めると、ズリッとずり落ちた眼鏡を人差し指で元の位置に戻してから、小さなため息をついた。
「田中さん。今は授業中じゃないのかな」
咎めた口調でもなく、ふんわりとした雲のような調子の言葉だ。
呆れてはいるが、嫌悪はしていないとでも言うような。
全体的にほっそりとしている生物の絹髪塚は、いつも柔和な物腰で授業も比較的わかりやすく、知的で清潔感があり、とかそういった良い理由が他にもいくつかあるため、なのかどうかはわからないが、とにかく人気のある教師だったりする。
離れた田中の肩にポンと手を当てると、
「だめじゃないか、こんなところにいちゃ」
といった。田中は、「うん」、と簡潔な返事をしてから艶のある長い黒髪を指で撫でていじくる仕草をしたまま、空いているほうの手は胸の辺りに何気ない風を装っておかれていた。
田中は上履きの踵をくるりと捻って方向を転換すると、絹髪塚の横になって歩き始めた。田中が歩き始めたので絹塚も歩き始める。そして渡り廊下の途中の、広くなっている広場にまで戻ってきた所で、田中は、
「先生、私、怖くって」
さも恐怖で今にも震え出しそうな具合で言った。「怖い? 何か、あった?」
ギュッと力の込められて胸におかれた田中の手を見ながら、絹髪塚は心配そうな声を返した。
二人は立ち止まった。
田中は顔を俯かせたまま、渡り廊下の窓越しに様子を窺う事のできる方角――それは屋上のほう――を指差した。絹髪塚が屋上へと顔を向けたのを確認してから、
「さっき、屋上に誰か……昇っていくのを見たんです……」
と自分が屋上へと足を踏み込んでいた事実など無かったかのように、言った。
当然、屋上は立入禁止だから、自分が立ち入った事実など告げる気は無いということだ。
「誰か飛び降りるつもりなんじゃないかって……でも、声を掛けられなくて……」
田中の言っていることはとりあえず嘘だが、嘘とは到底思えぬ素振りだった。
絹髪塚は、こくり、と心配そうな顔つきのまま頷き、ぽん、ぽん、と田中の頭を叩いた。
「そうか。それは、怖かったね。わかった、僕が見てくるから、田中さんは教室に戻りなさい。なんだってそんなところに用があるんだろうね。でも、あまり深刻にならなくても大丈夫。ちょっとした悪ふざけみたいなものだろう。教えてくれてありがとう、様子を見てくるよ」
絹髪塚が歩いて遠ざかっていく。
田中は肩を撫で下ろして緊張した様子をほどきながら、それを見送った。
「じっさい、サボりはいけないもんね、松長ー」
絹髪塚の後姿が消えた後には、いたずらめいた表情を浮べて、実際に、へ、へへ、とか笑った。
田中は楽しそうに、歌うように、軽やかに渡り廊下を進んでいき、何を思ってのことか携帯を取り出すと松長の録音した音声を再生した。松長の屋上での独り言が、渡り廊下中を踊るようにして反射する。
彼女はあまりに自由で、ふざけていて、おそらく何者よりも高慢で、そして誰よりも生を突き放していて、そして死に魅入られているのだった。唐突かつ、意味不明な、一見なんの理にも叶っていないように見える行動だった。
「ふふっ…………」
それからしばらくすると、ちょうど良く、授業の一限が終わったのを告げる鐘が鳴った。
校舎の中が騒がしくなってきて、教室から数人が出てきたが、その中に明らかに目立つ金髪の男子生徒がいて、田中はそれに目を付けた。
「上ノ原 陽一!」
名を呼んで、金髪のその男に、にやにやしながら近づいていく。
続けて話し相手を見つけた彼女は、ご機嫌だった。
「……面倒なのが来たな」
上ノ原 陽一は授業が終わったばかりで伸びをしてスッキリの身体を、田中にたいして正面に向けた。さも戦闘態勢とでもいうように、しっかり真正面に向けた。
生物の教師である絹髪塚 昇が田中 由美にそそのかされて屋上に足を踏み入れるまえに、松長 十字朗は遠夜 雪也と、屋上で出会い、そしてすぐに二人とも屋上を後にした。
というのはつまり、雪也も授業をサボっていた。だが彼の場合は珍しいことである。松長 十字朗との時間を作るために教室を抜け出してきたということ。
雪也は、松長に相談しなければならないことがあった。
遠夜 雪也は二ヵ月後ほどに迫っている文化祭で、かわいらしいお手製歩行ロボットを展示するつもりであった。若きに任せた勢い。生まれ付いて元来、あまりそういった行事に積極的ではない雪也だが、気分の問題だろうかお手製の、歩行ロボットを作り、文化祭当日に展示するつもりだった。
歩行ロボットを作るノウハウを、雪也は知っていた。小さい頃、そういう番組を好きで見ていて趣味でやっていたのを、少し凝って作ってみようというわけだ。
もちろん、簡単な、おもちゃだということは、雪也自身も自覚していたし、そんなおもちゃ製作など青臭い上に無駄な労力なのではないかと思わないでもなかったが、しかし作ることに決めた。
だが一人では無理がある。そこで彼は、暇そうな人物に見えた、松長 十字朗に手伝ってくれないかと言ってみたというわけだった。当てにしていた上ノ原 陽一と深湖 奈霧にはクラスでの準備とかいろいろ忙しいと言って断られて途方に暮れていたので、承諾してもらえてホッとした。
雪也は松長とは同級生としての知り合い、という程度の仲だったが、たまたま通りかかった彼が興味が湧いたのか話しかけてきたので、駄目元で勧誘してみたところ、「面白そうだな。手伝うわ」と簡単に了承して、立ち去っていったのが数日前。
で、まだ一回も手伝ってもらってない。
そろそろ手伝ってもらわないと間に合わない。一度手伝うと言ったのだから、手伝ってもらわなければ困る。
そういうわけで雪也は自習と言い渡された授業の合間を狙ってひっそり、ひっそりと抜け出し、教室の窓から松長 十字朗の姿が一瞬見えたのをたまたま見かけたので、探す手間も省けると一直線に屋上への階段を登ったというわけだ。
立入禁止の場所に入るのは気が進まなかったが、教師が周囲にいないのをキョロキョロと見渡すことで確認してから、薄緑色の錆付いたドアを開けた。鍵は当然のようにかかっていなかった。
(施錠をどうやって外してるんだろうな……)
思いつつ、開ける。
屋上のコンクリを踏みしめて空を見上げる。
雲がすこし近い。大きい。
教室側の棟から見えるとまずいので上半身を屈めて、松長の姿を探してみようと思ったが、探す前にもう松長 十字朗は遠夜 雪也の、すぐ目前に突っ立っていた。
教室から見えるのなど気にもしないと言いたげな、先輩が後輩を見下すような顔つきが太陽を背にしているせいか猛々しい。同級生なのだが。松長 十字朗からは煙草の臭いがプンプン香っていて、こいつと一緒にいたら俺も喫煙してると思われるのかな、と雪也は思ったがそんなことはどうでもいい、早速、手伝ってもらうための言葉を掛けようとしたが、スッと松長は雪也の真横を通り抜けていった。
まるで石像が邪魔だからスッと横を通った、そんな感じの通過の仕方をされた雪也は腹立たしい思いに満ちる、が、すぐに冷静を我に取り戻す。
雪也はきびすを返し、松長の背中を追いかけ、声をかけるタイミングをうかがうことにした。
うかがいながら、何でこんな無愛想な男に頼んだかと後悔した。
そして三階に繋がっている階段を降りる途中、松長が雪也の方を何処か気だるそうに、うざったそうに一瞥した。このタイミングだな、と思い、雪也は彼に先日の約束を守ってもらうように頼もうと、口を開いた瞬間に、三階のリノリウムの廊下に突っ立っている大人から、邪魔が入った。
「……君達。屋上は立入禁止だって、知らないはずはないよね?」
生徒二人は固まった。
教科書を白衣の脇に抱えている、ほっそりとした、眼鏡をかけた生物の人気教師。
階下から二人に呆れているらしき視線を送っている人間が絹髪塚教諭であるということは、当たり前に二人とも知っている。
彼の生物の授業、受けたことがあるから。
沈黙。静寂のせいか、雪也には妙な注意力が発生したらしく、何気なく壁に立てかけられている棒であるとか、納められている消火器とか、観葉植物の植わっている鉢とかが目に付いた。壁に立てかけられている絵画は、たしか名のある誰かの絵というわけではなくこの学校の卒業生のものだと、説明されたことがあった。角の生えた馬の怪物らしきが、手に三角の形をしたものを持っている絵だ。その三角形に禍々しい色をした濃密な霧、というかヘドロ、みたいなのがかかっている。
そんな風にして普段あまり気にかけないものが、この状況のせいで、目についた。
雪也は、奇妙なこの静寂の間、沈黙が、痛々しい、と思った。
だが一度固まってしまったためか、静寂を切り裂くこともできない。松長か絹髪塚のどちらかがガムテープを鼻穴に詰められているがごとくの不穏な空気を、改善してくれないかと期待した。そして、松長が、こつこつと、足音で静寂を切り裂いた。
教師をシカトした松長は、絹髪塚にも雪也と同様の扱いをした。つまり人間相手を石像とみなして通り過ぎるかのような横暴ぶりをみせた。こつこつ、と絹髪塚の真横を通り抜けた。雪也は絹髪塚がそれに対してどう反応するのか見ていたら、絹髪塚らしい反応だった。
何とも、幼げな。
「いやぁ松長 十字朗君、待ってくれよ。ちょっと、ちょっと! ストーップ!」
取り乱していることが露骨に伝わってくる。いや、伝えられてくる。
絹髪塚はこれで授業が上手くなかったら、生徒から露骨に舐められた態度を取られたりしていたのではないだろうか、と雪也は思った。
眼鏡がズリ落ちそうになっていたが、気にもせず、松長の前に急いで躍り出て、彼に石像扱いされたことなどもう忘れてしまったようだ。いや石像扱いされた、とさえ彼には感じられなかったのかもしれない、と雪也は呆気に取られつつ、階段を降りて、二人の動向を見守っていた。
「なんすか」
「無視だなんて、寂しいことしないでよー」
松長はハハッと短く笑った。
で、またも絹髪塚の真横を通り過ぎた。
石像扱い二度目。俺のも含めたら三度目。
雪也は松長という人間は愛想という言葉を知らないのだろうなと完全に理解し、この男に手伝ってもらおうと思ったのは失敗だったな、と頭の中で密かにため息をついていた。
そして絹髪塚はどういう対応をするのかと雪也は遠目で眺めていたのだが、さすがに二度の無視、シカト、は陽気な調子でいつも機嫌がそれなりに良さそうな絹髪塚であっても堪えた様子に、見えた。目を何度か、パチ、パチ、と瞬きさせていた。
雪也は、となると俺に注意を向けてくる流れになるのかな、とはわかったので、立入禁止の屋上に侵入していたことの言い訳を持ち合わせていないな、とやや鬱々とした。それにまだ授業中のはずで、本来この高校の生徒が廊下をうろちょろしている時間ではないことも問題だとも気が付く。
雪也はやや身構えた。
それが露骨に態度として現れないようにしつつも、頭の中は言い訳を構築するのに必死だ。
しかし、言い訳を作る必要はなかった。雪也の杞憂だ。
絹髪塚は、雪也の想像している以上に教師という枠組みから逸脱した教師だったのだ。
だから想像の外を行く言葉が、彼の唇から紡がれ、リノリウムの静寂が広がる廊下に、響き渡ったのである。そう、彼はほとんど叫んでいた。
松長に向けて、絹髪塚はこう叫んだ。
「松長君……! バンドの、ボーカルをやってくれないだろうか!?」
その叫びは廊下中を反射し、やがて残響となり消えた。
だがその内容は、聞いた者の耳を通して脳味噌に留まることになったのは、言うまでもない。
雪也は言葉の意味内容を脳内で咀嚼してから、は?、と馬鹿みたいに思った。
松長も、雪也と同じように違和感を持ったために、立ち止まる気配のまるでなかった足踏みが、教室棟と特別棟を繋ぐ渡り廊下で、完全に止まった。
松長は妹が見えることと、正正正正正という浮かび上がる傷痕のことで頭が一杯だった。
そんな彼にも、バンドのボーカル、という予想外過ぎる内容は印象的過ぎるほどだったのだ。
見るからに気だるそうな松長だから、もちろん、バンドのボーカルという言葉を聞いた途端に目を爛々と輝かせ、なにそれ楽しそう~♪、とか言って子供のようにはしゃいで絹髪塚に飛びつくようなことはしない。例えば彼がそういうのに興味があることも有り得たかもしれないが、まあ松長の場合は、一切そんなものに興味は無いので、じゃあ何故その言葉が印象的過ぎるほどに彼の耳や脳味噌にこびり付いたのかと言えば、突飛過ぎたから、というに尽きる。
松長は気だるそうに絹髪塚のいる方角へと、身体を向けた。
ぐるぅん、ととてもよたよたしながら、絹髪塚の顔をまじまじと見つめた。
はじめて石像ではない、人間がそこにいると、認識したかのように。
絹髪塚は、期待と不安が入り混じった顔で松長を射ていて、それは運命的な何かに出会ったと言わんばかりの表情だ。
しかし松長はそうじゃない。松長は、突飛なことを言ってきた教師の面とはどんなもんか、という即物的な興味しか表情に浮べていないし、実際にその程度の興味しかないようだ。
松長はすぐに身体を渡り廊下の方へと戻すと、スタスタ歩くのを再開した。一言も交わさぬまま交渉決裂。当たり前だった。
(絹髪塚は、学園青春モノのドラマとか好きなんかな。そして馬鹿なんだろうか)
雪也はそう思いながらも、傍観者的に止まっているままでは松長をみすみす見逃すことになるし、絹髪塚に屋上のことを注意されて面倒にもなると察した。絹髪塚が教師としての役割を思い出して風紀を乱した男子高校生を注意しなければと思い出す前に、何気なくこの場を立ち去った方が良い、と。
そしてわずかに心臓の鼓動を早めながら絹髪塚の真横を通り過ぎる。
松長を見習い、これは石像だ、と思いながら通り過ぎた。
意外にも何の言葉も掛けられなかったので、よし良い判断をした、と浮かれかけていた雪也に背後から声が掛けられた。というか、雪也は肩をがっしりと掴まれた。
「遠夜君。……君、手先とか器用じゃないかな?」
なかなかに本気なのかもしれなかった。雪也の肩を握る手の力は十分に込められている。
なかなかに苛立っているとわかった。肩が少し痛かった。
「俺図工とかそういうの、手先を使うのは駄目なんですよね、すみませんけど」
と、言いつつも後数歩進めば自分が製作している製作途中の歩行ロボットが置かれていたりすることを雪也は思い出した。が、絹髪塚は雪也がロボット製作をしていることなど知るはずがない。この場をごまかせればそれで良いのだ。
「そうかい、残念だなあ。何人かは集まってるんだけど、肝心のボーカルと、後ベースがいない。僕自身が演奏するつもりはないから、誰かにやってもらいたいわけなんだけど……」
絹髪塚が本当に残念そうに見えるので、雪也はもうちょっと断り方があっただろうかと思った。
だが実際、何の前触れもなく突飛な発言をする彼にそこまで気遣いをする必要もない話だった。
「プロデュースするわけですか。人材を見つけるのは、大変そうですね……」
と雪也は適当な相づちを打ってから、松長の姿がもう見えなくなっていたので、うんざりして頭の中でため息をついた。
そのあたりで授業の終わりを告げるチャイム音が、鳴った。
授業を抜け出すまでしたのに、こういう結果か。
と、雪也はさらにうんざりした。