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 そこは郊外に置かれた校舎。鉄筋で形作られたその建物に貼られている窓ガラスに、太陽の光る有様が映りこんでいる。夏ではない、季節は秋を迎えた。といってもまだ紅葉も見受けられない秋口ではある。

 校舎の。立ち入り禁止の屋上で、髪を長めに伸ばした男が、古ぼけてサビが目立つフェンスによりかかって煙草を銜えていた。紫煙が細い線となってうねるように天へと霧散している。髪を伸ばした中肉中背のその男は、制服をだらしなく着こなしていて、誰が見ても比較的不良たる性質なのだと感じられるだろう。

 ――彼は少し、錯乱している。

 また妹が見えていた。

 亡くなったはずの妹が見えていた。

 彼女は、妹は、病で死んだはずだった。具体的には胃がんとかとにかくそういう理由でなくなったということではあるが死因というのははっきりとはしていなかったとかそういうのもありだと思われた。よくわからないことだ。

 不良男は袖をまくる。

 正正正正正正正正正正正正正。

 妹を見かける度に、増えている傷だった。そしてまた一本、『一』と新たな傷が、腕に染み付くようにして発生し、消える気配もなさそうだった。後四回、妹を見かければ、『正』という字がまた一つ増えるということ。

 不良男は嫌になった。もうこの傷が増えるたびにうんざりとした気持ちだった。別に死んだはずの妹の、まるでその場で息づいているような姿を見れること自体は、悪くはないことだ。

 しかしもう安らかに眠って欲しいという気持ちだった。

 袖を下ろして、虚ろを吸収している妹の丸い両瞳を、不良男は憂鬱な気分で眺めたまま、世間話のための話題を頭の中で探り、そして、語りかけてみる。

「霊魂ってのは、新しい宿り所を見つけるために彷徨うこともあるらしい。俺は、お前には、新しい宿り所に入って、俺とかのことなんざ忘れて構わないから、次の世界で幸せに暮らして欲しい。お前、優しいんだから、なんとかなるぜ」

 世間話をするつもりだったが、そういう内容ではなくなってしまったのは、不良男が錯乱していることが原因であっただろう。その話は彼の妹に届いたのだろうか、幽霊はうっすらと足元から薄くなって行き、やがて消えた。

 一人取り残された不良男は、袖をめくって新たに出来た『一』という傷口を指先でなぞりながら、たばこをコンクリの地面に落として、足のかかとでグイッと捻り潰した。

 火が消えて煙も昇らなくなった煙草のひしゃげた様をやや短い間、観察していた。

 ちっ、と舌打ちをしてから顔を上げると、見知った同級生の姿。

 今度は生きた人間が、薄緑色の錆びたドアを開けて屋上に踏み入ってきて、互いに知り合っている仲であるため、その同級生が不良男に声を掛ける。

 その同級生は、女だ。

「……松長……やっほぉ……」

「田中……か」不良男はよけいに機嫌が悪くなった。

 不良男は松長 満という名を持つ。

 屋上にやってきた女は、田中 由美という名を持つ。

 向かい合った男女は、睨みあうかのようであった。

 一陣の風が吹いたとき、田中はスタスタと音を鳴らして歩き、松長に優しい声音で言葉を紡いだ。さも手や指先でマフラーやセーターを編むような、しかし手編みであるが故に機械的な調子ではなく聞き取り辛い部分もある、つまり総合して実に人間味のある声音に機械的な装置が取り付けられているかのような、そういう言葉の音色の持ち主。

「聞いちゃ悪いことかもしれないけど、やっぱり独り言じゃないよねぇ。ずっと扉の向こう側で、実は聞き耳をたててたの。そしたら、やっぱり、独り言なはずがない。誰かに向って話しているに違いないって。録音もしておいたの、そこまでハッキリとは捉えられなかったけど、あなたの声が私の携帯におさまっちゃった……」

 彼女は包み隠すこともせず、にやりと浮べる微笑みは、邪悪めいている。

 不機嫌そうだった松長の表情は険しさへと一転し、田中が手の平でみせびらかせるようにしている携帯の画面の『SOUND ONLY』から漏れる自らの先ほどの声を掻き消すべく、携帯を無理矢理に奪い取ろうとした。片手をパッ、と出して奪い取ろうとしたのだ。それは油断した様子で道を歩いている丁度良い標的から鞄を盗み取る時の、そういう俊敏さがあった。

 実際に友達のバイクの後ろに跨って、そういう盗みをしたことは何度もあったから、盗める自信を持って、松長は携帯に手を伸ばしていた。

 ひゅん。

 しかし、彼の利き手は空を掻き攫ってしまう。

 田中の手の平に携帯は納まったまま、『SOUND ONLY』。

「田中……。なめてんじゃねえぞ……」 

 松長の声音に、明らかたる怒気が含まれるようになった。携帯から漏れる声とは質がまったく違う、強い敵意と警戒心が濃厚な、声色だ。言い変えると、喧嘩のはじまる気配。女相手に喧嘩をしたことがない彼ではあるが、今の田中相手にはそんなことは関係なく殴り飛ばしたい気分が膨れ上がっていた。袖を捲くれば正正正正正と傷痕が痛々しい彼の利き腕に、ギュッと力が込められて血管が浮き上がり、拳が殴るために形作られていた。

 なのに、田中は、余裕だった。

 まだうっすらとした微笑みを浮べていて、松長を見下している様子を隠さない。

 彼女は携帯の画面をパチンと音を鳴らして閉じると、

「いやだよ、暴力は」

 と言いながら一歩前へと足を出す。松長のほうが身長は頭ひとつ分ほどおおきい。

 なのに、対峙する二人の空気感は、女の身長の田中が松長を完全に見下している空気感。

 松長は、チッと先ほどよりも音の大きい舌打ちを、して、横を向いた。

 そして彼がふたたび前を向いた時、彼の唇は塞がった。

 田中と松長はキスをしていた。

 その行為のせいで時間が過ぎていけばいくほど、力強く握られていた不良の拳は解かれてしまい、力の抜けた両手は、田中を抱きしめるために動きはじめたが、そのタイミングを知っていたかのような絶妙さで、田中は松長から細い線のような唇を離し一歩、二歩と退いた。

 行き場のなくなった脱力の両腕は、ふたたび力が込められて拳を作る。

 抱きしめようとしていたせいで不自然な形となった姿勢のまま動かなかった松長だが、やがて携帯を奪い取ることを諦めたかのように呆然と立つ有様と化したが、表情はまだ火を灯していたままだった。

「いたずら好きのいたずらに付き合っていられるほど暇じゃねえ。本当に殴られたくなかったら、さっさと消えろ、今すぐに」

 松長の内部では、冷静にも関わらず怒りがたしかに増幅していた。頭が冷えたままの怒りの貯蔵は、たしかに理性でもって他者に拳を振るえる代物だ。

 田中のロングの艶ある黒髪が風と遊んでいるようだった。

 田中はもう微笑んでいない。真剣そうな眼差しで松長と見つめあっている。

 しばらくそのまま。

 見つめあう、というか実質睨み合っていたわけだが、先に目を背けてそれを止めたのは、女生徒のほうだった。

「余裕、ないんだから。……気付いてないんだね、おもしろぉいねぇ」跳ねるようなイントネーションだった。

 どこか意味深かつ勝利宣言のようでもある台詞を最後に残して、田中はやってきた時と同じ薄緑の錆びたドアに手を掛けて、松長のいる屋上からサッサと去っていった。

 松長の気配しかなくなった屋上は、校庭で体育も行われていないために静まり返っていて、鳥の鳴き声が聞こえて来るのだった。羽ばたく音とか、そういう小さな音も聞こえるようになった。松長は煙草を吸いたく思い、学ランの内側にある胸ポケットに手を入れようとした、その時、はじめて彼は自分の利き腕の袖が捲くられていることを、知った。

 途端に、松長からすれば目を先に反らしてしまったという敗北の捨て台詞かと思っていた田中の言葉が、実にこちらを嘲笑ったものだったのだと松長は理解した。

 近づかれた時に、捲くられた。

 正正正正正という傷痕のことを知っているが故の?

 話したことはないはず。

 田中に全てを見透かされているのではないかという気分に滅入り、とてもうんざりとした気持ちになった松長は、正正正正正が浮き彫りの腕を隠すように袖を元通りに戻すと、ちっ、とまた舌打ちをして、そして煙草を取り出した。

 紫煙をくゆらせる。てくてくと屋上の隅にまで歩くと、彼はそこにある屋上のフェンスによりかかって、見える限りの住まう街を見渡す。

 まちのいろいろなけしきがみえたりする。おおきなタワーとか なんでつくられたのかわからない巨大なオブジェもある。とにかくいろいろと見える。

 不良らしき格好の割には、まじめそうに何か考え事をしている深刻な表情の松長は、授業が終わったことを告げるチャイムが鳴っても、その場から動かず街を、眺め回している。

 たばこを次々と吸い、ある程度の長さにまで達すると地面に落として踵で潰す。それを繰り返す内に、松長は田中のことはどうでも良くなって、忘れた。

 妹は次に何時現れるのだろうか、と、一度考えたら、妹の虚ろな両目が脳味噌にこびりついたかのようにずっと離れなくなった。

 松長はずっと、それに捕らわれて、他のことを考えぬまま。

 陽が傾くことなど、気にはかけず、煙草を何本も踵で捻り潰していた。


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