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雷鳴轟く空。光る時だけ周囲の様子がわかる、夜闇に染まった森林。蔦や木の根が地を大蛇のように這っているせいで、非常に歩き辛い。
それでも遠夜 雪也は歩き続けていたし、彼だけではない、上ノ原 陽一と深湖 菜霧も彼のすぐ近くで歩いている。二人も疲労しているであろうことが、荒々しい息遣いのおかげで、雪也に伝わってくる。雪也も疲れていた。
ぴしゃん。雷光が瞬く。森中が鬱蒼と生い茂っていることを雪也の前で明るみにする。
そして雷に伴って、彼はふと、どこかの誰かから聞かされたことのある、ちょっとした小話のことを思い出す。記憶、についての文章だった。いや、文章ではない、口伝えに教えられたのだ。いや、どうだっただろうか、その点はあやふやだが。
ある大切な記憶を保持しておくには、紙や日誌に記しておくのも悪くは無いが、やはり記憶というものを鮮明に自らの脳味噌に保持しておきたいならば、脳内でなるべく意識してその記憶の味や臭いを覚えておくべきだ。
そしてできることなら記憶というものは一人の脳味噌に保持しておくよりは、二人で保持していた方が記憶について語り合うことができて、時と共に現れてくる都合の良い記憶の修正という奴を防ぐことができる。だから一人よりは二人の方が良質な記憶の保持が可能だ。
でも二人よりは三人の方が間違いなく良いのも事実だ。なぜならば二人で一つの記憶について語り合うということはお互いが自然と試みてしまうシーソーゲームに付き合わされて、やはり何時の間にか記憶は本来のものより改ざんされて、良質なそれではなくなってしまうのだ。だから二人よりは三人で記憶を共有し合い、しばしばそれについて語り合った方が良い。
となると、三人よりも四人の方が、四人よりも五人の方がということかい、と尋ねられたら答えはNOだ。味わい深く、匂い軽やかで、耳障りが良く、つい触れたくなりずっと見ていたいような、そんな良質な記憶を保持するには、三人がベストだ。
四人以上になると誰かがイタズラ心を働かせて、記憶に好奇心からくる嘘を書き加えてしまうからだ。それは人数が増えれば増えるほどその可能性が増してくる。ひとりひとりの記憶の保持に対して持っている責任が薄れるからそういった事態を招くのだ。
だから、記憶の保持は三人がベストだ。
雪也は夜の暗闇に包まれている森林を歩きながら、そんなどうでもよいはずの話を思い出していた。雷はまだ鳴り続けている。
(なんでここを、歩いてるんだっけ)
誰かに尋ねたくなった。
そういえば三人で歩いているんだから、聞けばいいんじゃないか。
口を開いて、陽一か菜霧になぜここを歩いているのか教えてもらおうとした。
だが、二人は何時の間にかいなくなっている。
雪也を森林に置いてけぼりにしたかのように、忽然と姿を消していた。
立ち止まった。
声を出した。返事はない。ざわざわと木々が風に揺らぐばかり。
雷鳴がまた空を走って、空気中に縦の亀裂を走らせる。赤紫色や、青紫色の……。
懐中電灯さえ持っていない。暗闇を照らしてくれる雷は怒張の音をかき鳴らすばかりで、雪也の孤独や急速たる不安をなぐさめてはくれない。
疲れとは別の理由で、呼吸が荒くなる。心臓の鼓動。
はぁ、はぁ……
いてもたってもいられなくなり、闇雲に、足を蔦や根に引っ掛けて何度も転びそうになりながら、人の気配のまるでない不気味な静寂の森を駆け抜ける他なくなった。息遣いは荒いまま、体力はある程度はある青年だが、何かに追われているような孤独と不安に肉体の力強さは奪われるばかり。息はすぐに切れて、足はもつれて、大樹の根にひっかかって大袈裟なほどに何回転もして地面にずしゃあとうつ伏せになった。
しばらく動けぬまま、風にざわめく葉の気味の悪いざわめきと、相変わらずの雷を耳に入れていた。本当は起き上がって走り出したい気持ちだったが、体力は尽きている。もうしばらくは動けない。
「……やめ……やめ……」
今にでも背後から怪物が現れて、喰われるんじゃないか。
殺される。喰われる。
そういう、切迫たる気持ちを胸に抱えているのに、肉体と精神は乖離していて同調しない。動けない。うつ伏せのまま。
そして、雷鳴が轟かなくなった。
どうしてか、風も吹かなくなった。
静まり返って、雪也の耳に、何も聞こえなくなった。
恐怖にかいつまれたままの雪也には、その沈黙がやけにブキミで、全身に鳥肌が立ち始めたのがわかった。背筋がびくびくして、上歯と下歯を強く噛み締める。
その極度に緊張した状態のままうつ伏せで十数分。彼は動かぬまま静寂の暗闇で呼吸を荒くし、地面の土や草の匂いを存分過ぎるほどに鼻で嗅いだ。もちろん望んでそんなことをしている訳ではないから、雪也はより疲労を蓄え、荒々しかった呼吸がやがて小さく、小さく、小さく……。
そして雪也の意識が途絶えそうたる直前。
彼の気が付かぬ間のことだが、彼の周囲三百六十度に、あるものたちが集まっていた。
それは、少女。少女たちが集まっていた。黒い頭巾、黒いローブ、手には黒いバスケットを持った少女たちは、みんな同じ背丈をしている。そうそれはまるで、童話の赤ずきんが黒いペンキで塗りたくられたような存在だ。
かごめかごめ
かごのなかのとりは
いついつでやる
夜明けの晩に
つるとかめがすべった
後ろの正面だあれ
彼女たちは、手を繋いで歌う。くるくる、青年の周りを。
六芒星が雪也の横たわる大地に、木の棒で土を引っかいたような軌跡で描かれた。
そして彼女たちがぴたりと止まる時……。
雪也は、忘れていたことを思い出す。今まで静まり返っていたはずだった雷光の、ぴしゃんと言う音が彼の脳味噌を活発化させて、一人であるせいで思い出せなかった記憶を、今、微笑みを浮べて。
雷鳴による地響きが鳴り止まない内に、はっきりと答えた。
――四人目。