その八:まったく…
ヴァルは、いつも以上の不機嫌な表情を顔に貼り付けて、路地を歩いていた。スヴェレン皇国の皇都は、大陸でも最も栄華を極める都市のひとつだったが、栄光が増すほど、影も濃くなる。不快な異臭が立ち込め、ゴミが散らばり、その中に人が混じるこの界隈は、そうした膿が溜まった、ヴァルにとっては見慣れた風景だった。
足を進める先は、一件の酒場である。ヴァルはいわゆる何でも屋、それも、普通の何でも屋が躊躇するような、非合法を行なう――いわば犯罪を代行するような仕事をしていた。この酒場は、そうしたスネに傷のある人間が集い、情報を交換する場の一つだった。
酒場の戸をくぐる。久々に姿を現したヴァルを見て、騒がしい客が一瞬静まったが、すぐにざわめきを取り戻す。喧騒に時折怒号が飛ぶこの光景も見慣れたものだったが、なぜか今は以前と違って見えるような気がした。
「やあ、“鎌”の旦那」
「…ああ」
言葉少なに答える。
「来てくれたんですね」
声をかけてきたのはレスだった。相変わらず軽薄な笑みを顔に浮かべ、馴れ馴れしく肩に手をまわしてきた。
ヴァルの“鎌”という通り名は、肩に入れられた鎌の刺青に由来する。これは幼少期に飼われていた盗賊団のようなところで入れられたものだが、今はもう、先ごろの傷の下に見えなくなってしまっていた。
「話はなんだ」
「相変わらずつれないですねえ」
てめえなんぞに振りまく愛想は持っちゃいねえんだよ。内心吐き捨てるも、それを口に出すことは無い。
実は、これが本来のヴァルだった。ランと出会ってからは、彼女の雰囲気と遠慮の無さに、やはり気を許していたのだった。
「仕事の話ですよ」
「どんな」
微妙にもったいぶった話し方をするレスに、舌打ちしたいのを堪える。
「実はね、ある筋から情報が入ったんですど」
どんな筋かは知らないが、残念ながらこの男は、情報の正確さにだけは定評があるのだ。
「もうすぐ、どこぞのお貴族様の娘の誕生会があるらしいんです」
「誕生会?」
「そう、誕生会。ゴーシャ侯爵家のご令嬢のね」
「それがどうしたんだ」
まさかそこを襲うなんて無謀なことを言うんじゃ無いだろうな。
「違いますよ」
「じゃあ何だ」
ニヤリと笑うラス。
「侯爵家の誕生会ですよ。ゲストだって、豪華なはずでしょう」
「…」
「そのお客様のうち、何人かの目星がついているんです。だから」
「その客を襲う、と」
「ええ。で、どうですか?」
楽しげにレスはヴァルを見ている。しかし当のヴァルはというと、苦々しい思いがわいていた。
「旦那?」
「…気がすすまねえな」
「珍しいですね。こんな実入りの良さそうな仕事、蹴るんですか?」
「…」
ヴァルは押し黙った。酒場の喧騒が耳にうるさい。以前の彼なら、深く考えずに首肯していたかもしれない。だが、今の彼は、あの短くも印象的な日々を過ごし、心持が変わってしまっていた。
「…ああ、もしかして、あの娘に遠慮してる?」
「!」
「優しそうな娘ですよね。でも少し意外かな?」
面白そうに頬を歪めるレス。
「…何がだ」
「旦那が気に入るのは、もっと別のタイプかと思ってました」
「…」
「でもさあ、それなら――」
結局、ヴァルはその仕事に参加することにした。
レスに説得される形である。そして今、ヴァルはゴーシャ侯爵家へと繋がる道のすぐ脇の林に身を隠していた。
もうじき、招待客のうちの一人が、この道を馬車で通過するはずである。日が沈んだ夜道は悪党を隠す。ヴァルに割り振られたのは、馬車の御者と護衛を抑えること。もちろん一人では不可能なので、今ヴァルの横にはレスがどこからかつれて来たどこの馬の骨とも知れない輩が、身を伏せている。
まったく、俺は何をやってんだろうな。
生きるためには金が必要で、金を得るには働かなければならず、ヴァルは他に稼ぐ方法を知らない。
だから、仕方無い。
でも、今の自分の姿はランには見せたくない。今は、そばにランがいないことに、ほっとしている自分に気付いた。
「まったく…」
思わず苦笑が漏れる。
出てきたときは、ランを危ない目にあわせないため、とか思っていたはずなのだが。本音はやはり、汚い自分を見られたくない、というものなのだ。
ランは、言葉はきつくとも、明るく、優しい。だからこそ、ヴァルはこれまでの自分、簡単に悪に手を染めるというその行為が、実に浅はかで、愚かな事だと気づいてしまった。
でも、底辺に生まれついてしまったヴァルには、這い上がる方法など分らなかった。だから、今度の仕事は必ず成功させる。
生きるためには金が必要だ。まっとうに生きるためには、さらに金が必要だ。だから、ヴァルはこの仕事を請けた。
『今度の仕事の収入があれば、戸籍だって買えますよ? 何なら仲介しましょうか?』
そうレスに言われたヴァルは、決心したのだった。
この仕事で最後だ。この仕事を最後に、俺は足を洗う。そうして、正々堂々と、まっとうに生きよう。仮にもうランに会わないとしても、あの短くも濃密な時間を共に過ごした少女に顔向けできない生き方は、もうこれっきりにしよう。
以前の自分ならあり得ないどころか忌避するような考え方だったが、不思議と抵抗は無かった。
そうして、ヴァルはここにいる。
狙うは、貴族。ヴァルが決断を告げた後にレスが口にした標的の名前を思い出す。
『狙うのはお偉いクソ貴族の娘です』
レスにしては珍しく言葉遣いが汚い。そういえばレスは大の貴族嫌いだった。
『誰だ?』
『伯爵家のお嬢様さ。ゴーシャ侯爵令嬢とは親友同士だそうですよ』
『名前は?』
問うたヴァル。
『イェナレン伯爵の娘、ランディファス・イェナレン嬢です』
いやらしく歪んだレスの口は、そう答えたのだった。
遅くなってすみません…m(_ _)m
多分後4~5話くらいになるかと思いますが、来月以降また忙しくなるので、今月のうちに出来るだけ進めたいです…。