その七:何だったんですかね
これは一体どうしたことか。
ヴァルが足早に去った後、ランは一人ベンチで考え込んでいた。
顔が熱い。ヴァルが優しい。おかしい。いや、ヴァルが優しいのもそうだが、優しくされたら、何だか、途端に血圧が急上昇し、言葉が上手く出なくなったのはなぜだろう。
一体なぜ。しばらく考えたら、もしかすると嬉しかったからではないかと思いつく。
ただ、今迄で一番嬉しかったから、それに感極まってしまって、あんな思考の飽和状態に陥ってしまったのかもしれない。いや、ヴァルに優しくされるのが、どうして一番嬉しいんだろう。うん、きっといつも無愛想だから、ギャップが激しいからそう錯覚しただけだろう。きっと。多分。
それにしても、ランの頭に手を乗せて笑ったヴァルの顔は、こう、普段の仏頂面には似ても似つかないくらい柔らかい表情で、時折見せる苦笑いとも違い、いつまでも見ていたいと思ってしまった。
なんでだ。まかり間違っても美形とはいえない、どちらかといえば子供や女性や下手したら気弱な男性にも泣かれそうな強面なのに。おかしい。おかしすぎる。そんな失礼なことを考える。
でも、今日は楽しかった。
何となく引きこもっているヴァルに外の空気を吸わせたくて買い物につきあわせたが、逆のランの方が楽しんでしまったのはご愛嬌と言うことにしたい。
しかも、何だか顔に似合わない気障な(?)セリフまで。
「何だったんですかね」
ランは基本的に淡々としていて、動揺が外に出にくいタイプなのだが、今日の自分は確かにいつもと違う。というか他人の言動にあそこまで取り乱したのは初めてだ。
…これ以上考えてはいけない気がする。
答えに行き着いてしまったら、何かが壊れる。なぜかそんな予感がする。何が、は知りたくない。
でもランは気付いていた。いつまでもこの日常が続くはずが無いことを。ランは医者を目指す貴族の娘で、ヴァルにもヴァルの生きる道があって、たまたま今だけ、それが交わっているように見えているだけなことに。
最初から分かっていたことだ。でも、今それを思うと、胸が締め付けられるのはどうしてだろう。
さっきから、“どうして”ばかりだ。
「…ねえ、聞いてる?」
「…はい?」
先ほどから耳に入ってきていた騒音に気付いた。
「君、何してるの?」
ヴァルかと思ったが、ヴァルではなかった。なぜかかすかな失望を感じて見上げたその人物は、小柄で細身な優男だった。顔には柔和そうな笑顔を浮かべている。しかし、ランとて貴族の子女の端くれ、すぐにそれが仮面であることを見て取った。ランもすぐさま同じ仮面を顔につける。
「いえ、人を待っているんです」
「へえ、そうなの。どうやらまだ来ないみたいだし、ちょっと僕に付き合ってくれない?」
随分強引な男だ。ランとしてはこんな手合いにほいほいついていくわけはないと思うが、よく考えると、普通の純粋な街娘であれば、こんな甘い笑顔を向けられたらころっとだまされるのかもしれないな、とも密かに思った。
そんなこと言わずにさ、と手を掴まれた。ああ、面倒くさい。何が面倒くさいって、自分が断られるはず無いと思い込んでいる輩をいなすのが。悲しきかな、身分上これが初めてでもないのが余計に泣ける。
「結構ですから、離してください」
「いいじゃないか、ちょっとくらい。ほら」
これ以上はちょっとまずい。ランは、護身用に魔具を持ち歩いている。これは非常に高価なもので、幾つかの唄を封じておくことが可能な代物だった。ランの魔具には、相手の悪意、害意に反応する術、ランの意識に反応する術、それらが反応した際に結界を生じさせる術、そして屋敷に知らせが行く術。
これがあるからこそランは護衛も付けずに出歩いているわけだが、これ以上は、ランの魔具が反応してしまう可能性がある。それは避けたい。何より、これ以上しつこいと、我慢の限界が訪れる。
「…離してください」
「いいじゃない、行こうよ」
耳元で囁かれた。息が耳にかかって気持ちが悪かった。
「…やめてと言っているの、聞こえないんですか? 耳クソ詰まりすぎですね」
男はわずかにたじろぎ、
「…君、変わってるね」
「あなたのしまりの無い笑顔もなかなか独創的で変わってますよ。気持ち悪くて一度見れば十分ですけど」
「っ! お前!」
顔を歪ませた男。腕に力がこめられて痛い。痕になるかもしれないが、治療のいい経験になるだろう。ああ、そろそろ魔具が反応するかな。そんなことを思ったところで。
「てめえ、俺の連れに何してやがる」
低い声。いつの間にやら横にいたヴァルの鋼のような手が、優男の腕を掴んでギリギリ締め上げていた。思わずと言った様子で私を放した男は、「何するっ」と声を荒げ、しかしヴァルの顔を見て言葉を失った。
「…“鎌”の旦那じゃないですか」
「っ! お前は…」
「レスですよ。前に“仕事”で一緒になったでしょう?」
途端にヴァルは苦虫を噛んだような顔に。ランには状況が良く分からない。ただ、ヴァルを見るレスと言う男の顔が、そこはかとなくいやらしい笑みを浮かべているのが不快だった。
「…忘れちゃあいねえよ」
その薄気味悪い笑顔はな。露骨に歪んだヴァルの表情がそう言っていることくらいならランにも分かる。
「ああ、良かった。あの時はお世話になりました。ところで、もしかしてこの娘、旦那の連れなんですか?」
「何か問題あるか?」
「いえ、ないでしょ。ただ、さすがだなあと思いまして」
「何の話だ」
レスの言葉に何やら不穏な響きがあった。ヴァルの方はそれを聞いても、分からないといった雰囲気で困惑の顔に戻る。
「いえ…いいんです。あ、そうそう、実はとても実入りのよい仕事の話があるんですけど、良かったら一緒にどうですか? 誘おうと思っていたんですけど、最近見かけませんで」
「…」
ヴァルの気配が剣呑になる。何となくその理由が、ランにこの話を聞かれたくないからだと察してしまった。
「…後にしろ」
「わかりました。それじゃあ、都合のいい日に、例の酒場に来てください。夕方からはいると思いますから」
「…わかった」
「お待ちしてます」
逢引のお邪魔をしてすみませんでした。さらりと言い置いて立ち去るレスを睨みつけるヴァルは、いつもランに振り回されているヴァルとは違う、ランの知らない男だった。
「…お知り合いですか?」
聞いて欲しくは無いのだろうが、聞くべきだと思った。
「知り合いってほどじゃねえ。前に仕事で一緒になっただけだ。いけ好かねえ野郎だよ」
仕事って、どんな?
喉元まででかかった質問は、寸でのところで飲み込んだ。今までに無い厳しい表情をしたヴァルにそれを問いただす勇気はなかった。
ただ、思っていたよりも早かったな、と思っただけだった。
「…行くぞ」
「…はい」
愛想も何も無い、いつもの厳しい声音。それでも、ランを立ち上がらせたヴァルの手は大きく暖かく、ランの手をとるその仕草はそんなの柄じゃないはずなのに、優しかった。どうせなら、優しさなんて見せて欲しくなかったのに。
次の日、小屋にはヴァルの姿は無くなっていた。
こうなることは、初めから分かっていた。
書き溜め分はここまでなので、今後は少しお時間を頂くかもです…。