その五:冗談でも無いんですけどね
ランは伯爵家の令嬢である。本人はそのメリットとして、単に資力に優れるという認識でしかない。
ランの父は、今時珍しいくらいの貴族らしい貴族であり、与えられた地位に見合った働きをしようと、日々真面目に取り組んでいる。それは兄たちも同様で、家の名に恥じぬ、民を守る立派な貴族たらんとして鋭意励んでいる。
もちろん、ランはそのことについて何ら不満は無い。父も兄も、己の本分を尽くそうと誠意をもって取り組む姿は、長い間ランの憧れであり、これからもそうだろう。
ただ、ランは女だ。家督を継ぐ立場にある長兄や、その兄を支えようとする次兄とは異なり、いずれ家を出なければならない。そして選択肢は限られる。つまり、嫁入りだ。
だが、今の貴族社会は、実に不本意ながら、腐っている。少なくとも、私利私欲という言葉が罵倒語にならない程度には。イェナレン家のように、そうした風潮に流されない家もいくばくか存在したが、そうした家の若者には既に婚約者または伴侶がおり、ランが嫁ぐ余地がなかった。
そこで、ランは医者を目指すことにした。ランの家には金がある。金があるなら余裕があり、余裕があるなら、学ぶことにより多くの労力を割くことができる。
ならば、私は医者として、人の役に立つ。ランは、与えられた恵まれた環境を民衆に還元する方法に、医師、医術師としての道を選んだ。
ただそれには、あることが含まれていた。
それは、ランが密かに頭の中で考えていることであり、父や兄たちには知らせていなかった。二年前に亡くなった母だけが知っていたことだ。
いつか、父に話しをしなければならない。しかし、これからの道を決定付ける大きな決断をするにはランはまだ若かった。本当に自分の決断に自信を持てるほどの経験も無い。迷いはまだ消えていなかった。
笑顔の仮面の奥に悩みを抱えながら、今日もランは木立にひそむ小屋に向かう。ドアを開けると、いつものようにヴァルがベッドに腰掛けてカップの水をすすっていた。
「こんにちは」
「…おう」
むすくれた顔ながら、最近は返事をしてくれるようになったことにわずかに頬を緩ませながら、ランはヴァルの横に腰を下ろした。
「今日も面白い顔ですね」
「どこがだっ」
今日も今日とて打てば響くような反応が返ってくることに満足し、ランはくすくす笑う。それを見て顔を赤くするヴァルの姿も、もう見慣れたものだ。人並み以上に大きなヴァルの隣にいると、自分がほんの子供に戻ったような気分になるのだが、ヴァルはヴァルでこういう仕草がどことなく子供っぽい。
ここ最近は、ヴァルの体調も大分良くなり、ランは午前の自習の時間の後は、こうしてヴァルと他愛の無い話をして過ごすのが日課となっていた。
「もう水浴びしても傷にしみないようですね」
「ああ、どうにかな…って何で知ってんだよ!」
「あ、別に覗いたわけではありませんよ。覗かないって言ったじゃないですか。カマをかけただけです」
ケタケタ笑うラン。
「もしかして、覗いてほしかったですか?」
「んなわけあるかっ。…まったく、何が楽しいってんだ」
「色々ですよ」
ポツリとつぶやくヴァルに言う。正直、ランは自宅での生活があまり好きではない。家族との時間は大切だし、好きなのだが、ランの最終的な夢を知らない彼らには、ランの行動が奇怪に見えるのか、日に一度は小言を貰う。またそれ以外の人々との交流、例えばお茶会と言う名の腹の探りあいであったり、夜会と言う名の見栄の張り合いも、知人たちとの間にある温度差や空気も、ランにとっては苦痛とまではいかなくとも、居心地の悪さがあった。
だから、誰かと気兼ねなくこうして会話できる時間は、とても貴重で、ヴァルの飾らない性格もあいまってか、今では何よりこの時間が楽しいと思えていた。
当のヴァルにそれを言ったら、また顔を顰められそうだが。
「今日のお土産はクッキーですよ」
「おお」
いそいそとランが渡した袋からクッキーを取り出すヴァル。ランが見ているのに気付いたのか、すぐに罰の悪そうな顔になるも、クッキーにはしっかり噛り付いている。
「どうですか?」
「ん…まあまあだな」
どうやらヴァルは天邪鬼らしいことも分かってきたので、今度また作ってあげようとランはほっこりした気分で思う。
「今回はカカオを入れてみたんですよ」
「ああ、ちょっと苦味があるのはそれでか。でもカカオなんてどこで手に入れたんだよ」
「…ちょっとした伝手です」
もちろん自分が貴族だとはヴァルに言っていないので、微妙に言葉を濁す。ヴァルも深く追求はしてこなかった。
「でもおいしそうに食べてもらえると、やっぱり嬉しいですね」
「なっ、俺はまあまあとしか…」
慌てるヴァル。
「まあまあでも、嬉しいです」
「あ…う、そ、そうか」
もごもごと口の中で何か言っている。
「ふふふ」
「…なあ、ラン」
「なんですか?」
「お前、最初に会った頃と雰囲気変わってねえか」
「…?」
ランは首をかしげた。
「いや、前はもっと…なんつうか」
歯切れが悪い。
「はっきり言ってください」
「随分丸くなった気がするんだが」
ははあ。ランは納得する。
「まあ、あの時は私も予防線を張っていたってことですよ」
「予防線?」
「だって、ヴァルさんみたいな怪しい熊みたいな人がいたら、とりあえず警戒するじゃないですか。私、初対面の人には結構ずけずけ物を言ってしまうんですよね。ああ、場はわきまえてますし、必要ならきちんと猫をかぶりますよ? それに慣れたらあまり出なくなるんですけど。でも完全にはなくならないので悪しからず」
「それ普通は逆なんじゃねえのか…」
本当は、もっと別の理由もある気がするけど、それが何なのかランにも分かってない。ただ、こんなランとでも仲良くなってくれた人とは、ずっと仲良しでいたいからかもしれない。
「つーか、初対面でそれってどうよ?」
「友達少ないです」
「だろうな…って自分で言ってて悲しくねえか? まあ、俺も人のこたあ言えねえんだが」
「うーん、悲しいといえば悲しいですが、大丈夫ですよ? 今はヴァルさんがいますし」
「バッ、お前っ」
「ランです」
またランは笑ってしまう。
「…ラン、冗談はもっと冗談らしく言え」
「…別に冗談でも無いんですけどね」
ボソリと口から漏れた本音はヴァルには届かなかったようだ。
「あ? 聞こえねえぞ。今なんて言ったんだ」
「なんでもないですよ。ところで、折り入ってお願いが」
そう言うと、ヴァルはまた顔を歪める。
「嫌な予感しかしねえんだが」
「別に危ないことじゃありませんよ」
「なあ、知ってたか? “危ない”と“嫌”は意味が違うらしいぞ」
「で、お願いというのは」
いい加減少しは人の話を聞け…とうなだれるヴァルをさっくり無視し、ランは手製のバッグからそれを取り出した。
「何だそりゃあ?」
「え、服ですよ?」
見て分かりませんか? とランが取り出したのは、この国の平民の男性が着る一般的な衣服だった。ちなみに今のヴァルは、出会ったときに着ていた、ところどころ破け、洗ったものの血の跡が残ってしまった上着に、厚手の薄汚れた黒いズボンとくたびれた皮のブーツという、どこからどう見ても怪しい装束のままである。
「…で、何で今更ここで服が出てくんだよ」
「ヴァルさんが着るからですよ?」
「…何で俺が着る」
「それは…」
訝しげにランを見るヴァルに、
「これから私の買い物に付き合ってもらうからです」
にっこり笑いながらそう言うと、ヴァルはしばらく放心したように固まってしまったのだった。