その四:いらねえよ、馬鹿
出会ってから一週間、ヴァルはめでたく、良く言えばランのヒモ、悪く言えばペットに収まってしまっていた。
「さて、段々傷もふさがってきたところで、お話があります」
「あ? なんだよ」
この一週間、唐突にランが話し出したときは、大抵碌なことが起きない。慣らされてしまっている時点でもう手遅れであるような気がするが、もう何だっていいか、と思っているヴァルもヴァルである。
「実は私、こう見えて医者を目指しているのですが」
「知ってるよ。一週間で耳にタコ出来ちまったよ」
「それで、話と言うのはですね」
そう言って言葉を切ったラン。ヴァルの背に寒気が走る。
「治癒術は知っていますよね」
「知らねえ」
そういうことにしといてくれ。
「一応私も独学で詠唱は学んでいるのですが、いかんせん試す機会がなくて」
「…断る」
「これでも声には自信があるのです」
「聞いちゃいねえ…」
医者と医術師は別物とされている。医者とは、本来の意味での医術を修め、それを行使する者。医術師とは、医療に関する魔術、治癒術を行使する者。だが、医者と医術師を兼ねる人間もおり、そうした人たちは、様々な場面で重用されている。医学校でも時間と資力と労力が許すならば、両方を学ぶことが出来る。ただ、医術師は医者よりも、その才能によって能力が大きく左右されてしまうため、免状を得るのが難しい。
当然、ランが持っているはずは無い。ヴァルとしては、実験台にされるなど甚だ御免である。
しかしヴァルはこれでも怪我人である。快方に向かってはいるものの、まだランの魔の手から逃げられるほどではない。それに、なんだかんだ言って、ランも節度はわきまえているらしく、本当に危険なことはしないようだったので、結局、今回もヴァルは彼女のペースに巻き込まれることになる。
“Gashaveghd svoin bearane'lc...”
涼やかな風のように、彼女の口から呪文が紡がれる。唄のように音律を変えるその詠唱は、思ったよりも、いや、なかなかどうして耳に心地よい。
耳には。
魔術を扱う者にとって最も大切な才能、それは声である。空気に良く響きよく通る声質、そして正確に音律を表現する能力、明確な呪文の発音。医術師にもそれは同じで、それらの基準からすれば、確かにランは上質な才能を持っていると言えた。が。
「な、ぐ、あ」
ヴァルは、己の体に魔力が流れる不気味な感覚と戦う。凛々と響き続ける詠唱に合わせて、何かが体の中を蠢き、傷口に集中する。
“Tgmovxeaz lotsesh yogmnw...”
「む…う、おい、ラン、ぐ…」
“Etlinre pmexoqeg...”
痛みではないが、得体の知れない感覚に戦慄するヴァルは、思わず声を荒げる。
「う、く…ランッ、おいっ、ラ――」
“Aqoohyeれっ”
「――ン?」
「…噛んじゃいました」
「ぐおおおおお」
十分後。
パンッと弾かれたように魔力が霧散し、その弾みで昏倒したヴァルが目を覚ますと、目の前にランの顔が迫っているという衝撃的な場面だった。
「どわあああ!?」
「あ、目が覚めましたね」
「な、なにしてんだっ」
「はい、男性はこうすると面白おかしい反応をすると聞いたので、嬉々として実践を」
「するなっ」
「今回だけです。十分も同じ体勢でいたから疲れました。責任とってくださいね」
「とるかっ! つーか十分もそれやってたのかよ」
律儀に反応を返しつつ嘆息するヴァル。強面のヴァルがそうすると、いろいろな意味で残念な雰囲気になるのだが、そんなことを気にする余裕はもちろん無い。ランが妙に楽しげなのが癪に障る。
「傷の具合はどうですか」
「あ、ああ、傷か」
首から吊った右腕に力を込める。痛みは走ったが、
「おお?」
力を入れてもそれほど支障は無いまでになっていた。
「それは良かったです」
「すげえな…」
「もっと褒めてください」
「ふざけんな」
詠唱の途中で噛んでくれたお陰で酷い目にあったのだ。そもそも治癒術があれほど気味の悪いものとも聞いていない。
「噛んだのはヴァルさんが途中で騒ぐから…あれ、もしかして本当に治癒術は初めてでしたか?」
「…ああ」
俺みてえなドブネズミが、そんな金あるわけねえだろ。
喉元まででかかった言葉を飲み込む。医術師にかかるのには、単に医者に見てもらうよりも高くなる。人数が少ないのだから当然だが、それでも一応、一般庶民には手が届かない、という程でもない。
ただ、ヴァルはその一般庶民ですらない。
ヴァルの苦い表情に気付いているのかいないのか、ランは、
「でしたら、私が医術師になった暁には、ヴァルさんはタダで診てあげますよ」
練習に付き合ってもらったお礼です。
「…いらねえよ、馬鹿」
「え、どうしてですか? タダですよタダ。タダより高いものはありません」
「そのセリフ聞いて安心できる奴がいたら見てみてえな」
「はあ、残念です」
本当に残念そうな顔をするから、ランという少女は不思議だ。彼女のことだから、恩を売ってまた変なことをさせる気だったのだろうが。
「…まあでも、もしなれたらでいいので、ちょっとぐらいは顔見せに来て下さいね」
だが、躊躇うように続いた言葉に、そんな裏は感じられなかった。
ヴァルは一瞬言葉に詰まる。
それでも――
「…行けたらな」
なぜいつもの様に、言葉だけでも拒否できなかったのかは、ヴァルには分からなかった。




