その三:明日は雨だそうですよ
試験の後は休暇と決めていたので、心置きなく出かけることが出来た。変えの包帯や消毒液、そして簡素な食事なんかをバケットに詰め込み、茂みに向かった。
ヴァルは、昨日と同じ場所に横たわって目を閉じていた。ランが近づくと目を開き、一瞬の驚きの表情の後、睨みつける。
「おはようございます」
ランはさらりと視線を受け流し、そう言った。
結局、ヴァルは今日も早々にランのペースに呑まれて、ランが持参したサンドイッチを食べさせられている。さきほどから黙々と口に運ぶだけなのを見ると、よほど空腹だったらしい。多分。
「今何考えてた」
「いえ、随分空腹だったのですね、とか、こうして見ていると本当に熊みたいですね、という感じのことを」
「誰が熊だ」
「多分褒めたんですよ?」
「…もういい」
疲れたように搾り出し、サンドイッチにぱくつくヴァル。大きな体で肩を落とすその様子を見ていると、ランの胸の奥に、何だかこそばゆいような、それでいて温かいような、今まで感じたことの無い不思議な感覚が湧いて来て、もっと構ってしまいたくなる。その知らない感覚が面白い。
これはあれか、飼い犬をいじって心が和むとか、そういう類の感情か。ランの実家は動物を飼っておらず、いるとすれば馬くらいのものだから、こういう感じは初めてだ。
「やっぱり、面白いです」
「…どっからそんな結論が出るんだよ」
「ところでこの先にもう使われていない小屋があるのですが」
出会って二日目にもかかわらず、ランが我が道を行く性格だと既に理解した様子のヴァルは、諦めたように口をつぐむ。
「このままだと雨が降ったときとか大変ですし、そこに行きましょう。雨風くらいはしのげます」
「いや、俺は今身動き出来ねえんだが」
「自慢かどうか微妙ですが、実はこう見えて私、体力には自信があります」
「いや、直球で自慢だろ」
「と言うことで行きましょう」
いそいそとヴァルの腕を取り、自分の首にまわすラン。
「ちょ、おい、痛えぞ」
「傷が開きますから、こっちの足には力入れないでください」
「な、おい、そもそも、何でこんないきなりなんだよっ」
「善は急げです。農家のおじさんによると、明日は雨だそうですよ」
イテ、イテテ、と声を漏らすヴァルを無視し、ランは小屋に歩いていった。ヴァルの体は見た目どおり重い。
「重すぎます。痩せてください。今すぐ」
「無茶言うなっ。つーか俺は太ってねえ」
「太っている人は皆そう言いますね。そこに石がありますよ」
「少しは話を聞け…」
石を避けながらボヤくヴァル。ふふふ、とランは笑う。どうにか小屋までヴァルを連れて行った。ヴァルが倒れていた場所から木立の合間を縫って十五分ほどのところにあるこの小屋は、掘っ建て小屋と言ってもいい無残な有様だった。
「雨風しのぐって…こんなのでしのげんのかよ」
「雨ニモマケズ風ニモマケズ」
「なんだよそりゃ」
「旅の人が教えてくれました。どこか遠い国の詩らしいんですけど素敵ですよ」
「胡散くせえな」
「ヴァルさんも負けないで下さいね」
「そう来ると思ったよ…」
だが小屋は中に入ってみると案外酷いものでもなく、多少の雨風をしのぐ程度は問題ないようになっていた。しかも簡易ながら木製のベッドと小さなテーブル、椅子が置かれ、外から見るよりも過ごしやすく整えられている。
「私の隠れ家ですし」
「隠れ家?」
「はい。家に居るのが嫌だとか、何となく気分転換したいとき、ここでゆっくりするんです」
貴族の令嬢なのに堅苦しいことが苦手なランは、暇があれば時折街娘の格好でこの木々に囲まれた静かな隠れ家を訪れ、本を読んだり昼寝をしたりして時間をつぶし、ささやかな気分転換にしているのだ。
「近くには綺麗な川も流れていますし、悪く無いでしょう?」
「ああ…」
と、遠慮しているのかどこか居心地が悪そうなヴァルに、
「別に夜這いを仕掛けたり水浴びを覗いたりはしませんから、安心してくださいね」
「お前なあっ」
「ランです。とにかく、ここは安心してつかってもらって大丈夫ですから」
「…しかし、俺みてえなクズを助けようなんざ、変な奴もいたもんだな。お前、後悔するぞ」
「私はランです。それにヴァルさんはクズなんかじゃありません」
このヴァルと言う男は、見ていて飽きない。ランの言うことにいちいち反応を返してくれるし、その表情も豊かだ。面構えや身なりのせいでおどろおどろしく見えるが、悪人そのものな容姿の恐ろしさを除くと、悪人らしからぬ人の良さが垣間見える気がする。
ランに言葉に目を見開くヴァルに続けて言ってやる。
「ヴァルさんはクズじゃなくて、熊です」
「熊じゃねえ!」
途端にギャアギャアと喚きだすヴァルが面白くて、またクスクスと笑ってしまう。
「…本当に変わってんな、お前」
「ランです。いい加減にしてください」
「呼ばねえ」
「ランです」
「知らねえ」
「ランです」
「…」
「…」
じっと見つめると、段々いたたまれなくなったのか、ヴァルは視線をさまよわせる。尚も見つめると、頭を掻いたり、咳払いをしたり、どんどん挙動が怪しくなり、やがて、
「分かった、分かったよ! 呼べばいいんだろう」
「はい」
「…まあ、正直、助かった。恩に着る…ラン」
仏頂面でそう言うヴァルに、何だかまたしてもこそばゆくなったランは、茶化すように「お礼を楽しみにしてます」と返す。
「また来ますね」
包帯を替え終わり立ち上がったランがそう言うと、今度はヴァルも、「来るな」と言わなかった。ランはにっこりと微笑んだ。