その一:あ、こんにちは
ランことランディファス・イェナレンは、伯爵家の令嬢である。ただ、“伯爵家の”という枕詞は付いても、“深窓の”は付かない点で、他の令嬢たちとは一線を画す。
何しろランが“深窓の”内側から出ない日はほぼ無い。趣味は変装。つまり、街娘に変装して家を抜け出すのが趣味なのである。当然普通なら許されることではない。ただイェナレン伯爵――つまり彼女の父親――は、貴族としての己に誇りを持っており、嫡男や次男をも立派な貴族たらんと育ててはいたものの、娘に関しては少し違った。一般の貴族とは異なり、自由奔放な娘をたしなめつつも、どこか微笑ましく思っているという、一風変わった、しかしランにとっては良い父親なのだった。
まあ、彼女の将来を思えば、一概に良い父親とは言えない。二人の兄を持つランは、家督を継ぐ立場にも無く、普通に考えればいずれはどこぞの貴族に嫁入りすることになる。それを考慮すると、ランのいささか活動的に過ぎる面は、マイナスに作用してしまう。
求められるのは夫に従順で、物腰の洗練された淑女。残念ながらランとは対極と言わざるを得ない。だがランは別にそれをどうとも思っていなかった。どこかの奇特な人間が迎えてくれる可能性も無きにしも非ずだが、そうならなくてもかまわない。
「ラン、頑張っておいで」
「はい、お父様」
何故なら、ランの夢は医者になることだったから。
そういう訳で、ランは今、医者になるため、医学校の入学試験を受けた帰りだった。得意の変装で、街娘となったランは、スタスタと早足で道を歩いていく。
その時、道の脇の茂みの奥から、物音がした。
「ん?」
ランは、性格的に気になるものは放っておけないタイプだ。興味の対象外だと分かるとさっさと忘れてしまうのだが、その前段階である“何だか良く分からないもの”という状態は、彼女の大好物でもある。
「もしもーし」
だから、彼女が道をそれて茂みを覗くのは、当然といえば当然の帰結だった。ただ、彼女としては、そこにいるのは手負いの小動物――犬か猫か兎か――という想像だったのが、そこにいた動物は確かに手負いではあるが間違っても小さくは無く、むしろ動物と呼んでいいのかも微妙だった。
倒れていたのは人間の男性である。いや、人間も動物の一種であることに変わりは無いが、さすがに動物とは呼べない。しかも、人間の中でもかなり大きい部類に入るんじゃなかろうか。男の髪は黒く、体は逞しいが、その割りにあまり日焼けしていない。目つきは悪く、四角張った顔には手入れのされていない髭が生えてる。犬とか猫というより、熊だ。
一瞬現実逃避からどうでも良いことを考えたランであるが、その熊こと手負いの人間は、覗き込んだランに気付いたのか、おもむろに目を開けて睨んできた。
「あ、こんにちは」
空気を読まないのもランの性格的なものである。読めないのではなく読まないので、要するに、無理やり自分のペースを作るのが得意だといえる。
「…お前」
誰だ。掠れた声は低く、太く、なかなか迫力がある。
「通りすがりの者です。助けは必要でしょうか?」
「要らねえ」
男の右肩と左足からかなりの量の血が流れている。どう見ても助けが必要な状況だったが、何やら変な意地を張っているのか、拒否された。どこか怖がっているようにも見える。
ちなみに警戒されているとは思わないことにする都合の良い脳味噌を持つのが、ランと言う少女である。
「分かりました。助けますね」
「な…! やめろっ」
都合の悪いことが聞こえない高性能な耳も、ランの装備の一つだ。
「あら、やっぱり結構酷い怪我しているじゃないですか。致命傷では無いけれど、放っておくと危ないですし、あんまり身動きも出来ないでしょう?」
男は苦虫を噛んだような顔でランを睨むが、ランが傷に触れるとそうもしていられないらしく、今度は痛みに顔を歪める。
「クッ…やめろ、触るんじゃねえ」
「うるさいです。辛いなら辛いってはっきり言って下さい」
「お前こそっ、黙れ」
「はいはい、無理しないでください。ちゃんと治りますから」
一瞬、手早く自分で手当てしてしまおうかと思ったが、あまり自信は無い。何しろランはまだ医者の卵の卵なのだ。実家は資産はそこそこあるので、集めた医学書でこういう場合の対処法も、治癒術の詠唱呪文も勉強はしている。でも、それだけだ。
…やっぱり、誰か呼んでこよう。そうしよう。お父様も“卓上に真実は無し”と言っていた。勉強しているからといって、上手く出来るかといえばそんなわけはない。
「ちょっと本職のお医者様呼んできますから、じっとしていてくださいね。じゃないと死にますよ」
「…待て」
「はい?」
「人は…呼ぶんじゃねえ」
「はあ?」
「呼ぶな」
「…」
何を馬鹿な、と返そうとしたランだったが、男の目はどうやら真剣なようだ。
頼む。荒い息と共にそう続いた声に、ランは困惑する。
「でも、治療しないと死ぬかもしれませんよ」
まあ、すぐには死なないだろうが。
「…それで、いい」
「それでいい…?」
男は本当にそれでいいというような、諦めの表情をしたので、ランの困惑は深まる。
「…本当にいいのですか?」
「ああ。分かったら放っておいて、さっさと行け」
何でもないことのように言う男。その男の瞳に、どういうわけか真摯な光を見て取ったランは、何だか良く分からない感情に襲われた。
「…わかりました」
男は一瞬ランを見て、目を閉じた。
「それなら私が治療します。一度家に戻って、道具を取ってきますから、おとなしくしていてください」
「なっ」
が、すぐに目を開けてうろたえ始めた。
「な、何を」
「やかましいです」
これでもランは医者を目指している。ところどころ適当な性格ではあるが、医者を目指す人間として、譲りたくないものもあったりする。そして、簡単に死んでも良いなんてのたまう男の言うとおりになんてしてやりたくないと思う程度、意地の悪い人間でもある。
それにこの男が無理をしているのは、多分、世話になりたくないというのもあるだろうが、世話になると普通の街娘風の見てくれであるランに、迷惑がかかると思っているからでもあるんじゃないか。もしそうだとすれば、やはりランの気持ちとしても、放っておきたくない。
「あんまり騒ぐと、他の人に聞こえちゃいますよ? 気付かれたくないんでしょう」
「…!」
「そういう訳で、じっとしていてくださいね」
ま、自分では動けないでしょうけどね。ニヤリと笑って言ってやったランを、男は絶句しながら見上げるだけだった。




