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錆色の鎌  作者: 左藤
13/14

その十二:ありがとよ

 一瞬何を言われたのかわからなかった。


 やがて耳から入ってきた文字列の意味を咀嚼するにつれ、言葉の意味が理解できるようになった。同時に何かを言おうとする自分の口が無意識に開閉するのが分かった。


「そのパクパクは金魚の真似ですか?」

「んなわけあるかっ」


 思わず言い返してしまった。


「…」


 …。


「…これです、この感じ。このレスポンスの良さ。さすがですね」

「何言ってやがる」

「…往生際が悪いですね」

「一体何を根拠に…」


 平静を保とうとするが、悪人めいた満面の笑みになる目の前の女に、動揺を禁じえない。


「そうですね、強いて言うとすれば…」


 一つ思案の様子を見せ、


「声を変えて髪と目の色を変えてちょっと人相をいじくってさらに髭を剃ったくらいなら、普通に見破られちゃいますよ?」

「んなのお前だけだろ」


 変装が趣味のどこかのご令嬢くらいだ。


「ほう、私を知っているような口ぶりですね」

「…」


 …くそ。


 大きくため息をついた。そう、彼は昔から、彼女のペースに巻き込まれっぱなしなのだ。彼は――ヴァルは観念した。


「…お前には敵わねえな」

「当然です」


 胸をはって言うランのその様子が懐かしく、しかし、体や物腰、声や雰囲気、五年の歳月が確かにランを成長させているのが、そこかしこから感じられ、ヴァルは少々言い知れぬ寂しさを感じる。


「…久しぶりですね」

「…そうだな」


 ランの声にも、複雑な色が混じっていた。


「…医者に、なれたんだな」

「…はい」

「誰かと、暮らしてんのか」


 ああ、何を訊いてんだ俺は。くすり、という声。


「…いいえ。今のところ、そういう相手は、いません」

「そう、か」

「…」

「…」


 沈黙に、五年間の思いが過ぎる。最後に会ったあの決別の夜から五年。


 会いたかった。確かに二人は会いたいと思っていた。でも、それを言うには、別れ際が思い出され、口に出すのが阻まれる。


 つまり、言うべきことは一つだった。


 沈黙が続く。突然の再会に、お互い動揺が収まらないのだ。顔を伏せ、上げ、目が合ったと思ったら、そらし、再び視線を向け、そらす。


 それを続けるわけにも行かず、やがて、


「あの…」

「なあ…」


 意を決しても互いの口が同時に開き、同時に押し黙る。


「ヴァルさんから、」

「ランから、」


 また異口同音が重なり、まるでくだらない三文芝居のような自分たちに、自然と口元に笑みが出来た。


 まったく、バカみたいだ。ヴァルは、口を開いた。


「悪かった」


 頭を下げた。自然に下げることができた。これくらいで、許されることでは無いかもしれないけれども、でも、ここで頭を下げなければ何一つ始まらないと思えば、何のためらいもなく下げることが出来た。


 ランはヴァルを見て、固まっている。


 やがて、


「わたしも、ごめんなさい」


 逡巡の末、ランも頭を下げてきた。それ以上は必要無い。時を経て、二人は二人なりに、自分の中であの夜を消化していた。要するに、


 彼が悪かったし、彼女も悪かった。彼は悪くなかったし、彼女も悪くなかった。あの頃より少しだけ大人になった二人には、どこかでそれが分かっていた。


 だから、もういいのだ。また始めれば良い。視線を落としてそんなことを思っていた。


「ヴァル、さん…」


 ランが言った。聞き間違えか、声が震えているような気がして、


「ラン?」


 視線を上げると、ランの澄んだ眦から、何かが零れている。


「ど、どうしたっ!?」

「あ…」


 思わず立ち上がり叫ぶ。言われて気付いたのか、ランは顔に手をやり、濡れた指先を呆然とした視線で見つめる。


「な、泣いてんのか」

「な、なんでもっ、ないです」


 子供のような仕草で乱暴に顔をぬぐっている。ヴァルは、女性を泣かせてしまったことや、あの夜ですら見せようとしなかった涙が零れる様子や、一緒にいた頃にも見たことが無いほど、子供っぽいと言えるほど取り乱すランに、途方に暮れるしかない。


 おろおろと所在無く立ち尽くすヴァルに、ランは、


「…泣いて、ませんからっ。どうして、私が、ヴァルさんが生きててくれた、くらいで!」

「俺が?」


 続いた台詞に、バカみたいに口が開いた。


「私は、ヴァルさん、が、死んだと、思って…」


 そこまで言って、ランは我に返ったのか口を閉ざした。しかし、流れる涙は止まらない。そして、ヴァルはそんなランを信じられない心地で見ていた。


「ラン」

「忘れて、ください」

「なあ、ラン」


 過去に思いを馳せて、ランを見る。


 五年前のあの夜。最早死を待つばかりとなったヴァルの前に、一人の男が現れた。暗くて顔は良く見えなかったが、その居丈高な態度と、何の問題も無いといった風情でこの牢の前に入っている様子から、恐らく国の重鎮のようだった。


『今、そこで娘とすれ違ったが』


 男が言った。


『…』

『泣いていたぞ』

『…』

『そのままで良いのか?』


 良いはずはなかった。あのままで終わりたいはずがなかった。ヴァルは顔を上げた。


『…』

『お前、裏ではそれなりに名を知られた男だそうだな』

『…だったらなんだ』

『泥水を啜り、闇に這い蹲り、死に物狂いでも生きる覚悟があるなら、来い』


 そうして、ヴァルは今度はその男に飼われる事になり、五年もの間、国のために文字通り泥水を啜り、這い蹲り、それでも死に物狂いで生き抜いた。


 そして昨日。任務で怪我を負ったヴァルは、上司、つまりあの夜ヴァルを連れ出した男に、ここの住所を、ただ渡され、『そこで治療を受けろ』と言われたのだった。


 キシューの奴。ニヤリと小憎たらしい笑顔を浮かべる上司が脳裏にちらつき、現れた医師の姿に動揺するのを必死に隠していた。でも、本当の、心の奥の奥では、


「ラン…」


 ヴァルは、おもむろにランの頭に手を伸べ、目を見開くランを引き寄せた。


 生きていてくれた。そう零れた言葉。その言葉で、全てが救われたような、今までの自分の艱難辛苦、きついばかりで、時には世界さえ呪ったあの暗い日々のすべてが、報われたような気がした。


 そしてヴァルのほうこそ、思う。


「こんな、俺みてえな奴を…」


 忘れないでいてくれた。待っていてくれた。それがただ、暖かい。


 腕に力をこめた。胸に、熱が押し付けられる。とめどなく溢れるそれが、ヴァルを濡らす。もう一度、


「すまねえ…」


 嗚咽を堪える小柄に言う。ピクリと体が震える。でも、言いたいことはそれだけじゃ、そんなことじゃない。


 ランはかき抱くヴァルの腕を拒まない。拒まないでくれている。何よりも嬉しい。でも、足りない。


「なあ…」


 だから、ヴァルは思う。


 なあ、ラン。俺はさ、お前も知ってるように、人様に顔向けできるような人間じゃねえ。たとえ生きるためでも、今まで、散々悪事も働いたし、人を殺したことだってある。お前にだってひでえことをしちまったし、今だって泣かせてる。


 でも、でもさ、俺はもう後悔はしたくねえんだ。あの牢屋の夜みてえなのはもうこりごりなんだ。


 俺はこんな、ろくでもねえ人間で、お前は、良いとこのお嬢様で、人のために身を粉にして働いて。高嶺の花だなんてことは、とっくに知ってる。本当なら望んじゃいけねえってことも、ちゃんと分かってる。


 それでも、俺は、


「俺は、お前の、そばに…」


 いたい。いさせてほしい。言葉にならない。でも、どうか伝わるように。ヴァルの願いはつまり、ただそれだけなのだ。五年前、切ない理解のもとにランのそばから離れはしても、どうしても、忘れることなどできなかった。


「もう…」

「ラン?」


 震える声が響いた。何を言われても良い覚悟をして、ヴァルは腹に力を込め、続きを待つ。

 

「もう、勝手に、いなくなったり、しないで…」


 か細いランの言葉。それは、ヴァルへの赦しの言葉だった。ゆるやかに、深く深く、心に染みていく。


「…ったく、そんなの、当たり前、だろうが」


 ああ、クソ、もうダメだ。溢れちまう。暖かくて、大切な、いや、この泉から湧き上がるものは、そんなちっぽけなもんじゃない。


「ありがとよ」


 心を震わせるその思いのままに告げた。一言で全てを伝えられるはずも無いのに。でも、口に出来たのは、この言葉だけだ。情け無い。しかしそれで十分だった。


 一瞬の間。


 やがて、もう堪えきれなくなったのか、ランは、今度こそ大きな声を上げて泣き始めた。それを抱きしめるヴァルの目にも、もう何年も忘れていた熱がこみ上げてくる。そしてヴァルももうそれを堪えようとは思わなかった。


 手に入れた暖かさに顔を埋め、ただ二人で溢れ出るその想いを伝え続けた。

夜にエピローグ上げます。

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