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錆色の鎌  作者: 左藤
12/14

その十一:なんでもないんです

 “Gashaveghd svoin bearane'lc...”


 淡い光に、ランは回想から戻る。


 あの日、ランは逃げた。彼の前から。


 五年前のあの時、目の前の牢獄に囚われていた男は、まるでランの知らない人間のようだった。いや、単に彼のそういう(・・・・)面、ランが知るべきだった、でも知りたくなくて知ろうとしなかった面を、いよいよ見せ付けられただけだ。


 その言葉は、これまでに無いほど、ランに強烈な動揺をもたらした。本来のランならばありえないことだ。


 貴族への不満や雑言など、街中を出歩いていれば、そうそう珍しいものでもない。領地の実家に戻ればそれも少なくなるが、勉学のために長く皇都にいるランは、慣れているはずだった。


 私のせいじゃない。少なくとも私たちは、しっかり立場に見合った(ノブレス)責務(オブリージュ)を果たそうと、努力してる。ランはそう思っていたし、イェナレン伯爵家は、領民にも慕われていた。


 だが、彼の言葉の前では、そんなことは何の意味も無いと思えた。その言葉はランの中にあった迷いを、容赦なく指摘しているようだったから。


 結局お前は、どっちつかずな気持ちのままで終わるんだろうと。結局お前は、甘い甘い、貴族と言う己の立場に安心しているのだろうと。そんな人間が、他人を救いたいなどと、中途半端も甚だしいと。


 だからランは、何も言えなかった。ただ、何に向けているのかも分からない謝罪をするだけで、逃げた。牢を出て誰かにぶつかり淑やかなドレスが乱れようが、汚れ一つ無い艶やかな靴でころびかけようが、時間をかけて編み上げた栗色の髪が崩れようがなりふり構わずに。


 そうして、二日後屋敷に届いた報せを聞いた。


 ランはついに迷いを振り切り、決意したのだった。


 “Tgmovxeaz lotsesh yogmnw...”


 詠唱は続く。顔をゆがめて術に耐える患者に眼をやり、言葉を紡ぐ。


 この地に赴任して半年。ついに医学校を卒業し、医師、医術師としての資格を得た半年前、ランはその決意を、父に表明したのだった。


 市井に降るという決意を。


 貴族の中で医者になっても、患者は限られる。そもそも世界が違うからだ。異世界の人間と交流することは難しい。それこそ、ランと彼のようなイレギュラーでも無い限り。


 ランには、父や兄のような道が開かれていない。それでも、誰にでもとは言わないまでも、沢山の人のためになりたいと思っている。どこかのろくでもない貴族に嫁入りし、箱の中で細々と自分の力を使うより、広い世界に出て、苦しくても辛くても、存分に自分の可能性を使い切りたい。


 今の自分はまだまだだ。だが、家に守られ、身分と言う笠を捨てられずにいた頃には絶対に出来ないような、充実した生活、色々なことを経験していると思う。


 だから、私は、大丈夫。私は今、今を精一杯生きている。もうどっちつかずなんて、誰にも言わせない。


 父にも兄にも、自分の気持ちを伝えることが出来た。でも、一番伝えたかった相手は、五年前のあの日、ランの前から消えてしまった。


 だから。


 “Etlinre pmexoqeg, Aqoohyelinash gohmvadish.”


 詠唱が終わる。


「…具合はどうですか?」

「ああ…随分よくなったな」


 患者の男性は、腕を上げ下げして調子を確かめている。あの頃に比べれば、私も随分上達したものだと、ランは不思議な感慨に耽る。


「術を受けるのが初めての方は、結構辛いみたいなんですけどね」


 歯を食いしばって耐えていた男性に言う。


「確かに、この感覚に慣れるのは大変だろうな」


 彼もあの時は、確かになかなか辛そうだったなと、今更思い出す。昏倒した彼にいたずらを仕掛けたりと、あの時は実は結構楽しかった。


 思い出し笑いをすると、目の前の男性が怪訝な顔をした。


「ああいえ、なんでもないんです」

「? そうか?」

「ただちょっと…昔のことを思い出しただけで」

「…」


 さて、とランは立ち上がり、もうすぐお昼休憩だったなと思い出す。陽も先ほどより高くなり、気温も肌寒さを全く感じない、暖かな春の日だ。


 こういう日には、何か良いことがあるかもしれない。


「それでは、お代のほうなんですが」

「幾らだ?」


 ランは全く後悔していない。豪勢な食事も、色とりどりのドレスも、何も無い生活だ。だが、そんな形だけのものは、ここでは必要なかった。見栄をはらなくても誰かに侮られたりはしないし、言葉の裏の裏を読んで気を張り詰めることも無い。


「そうですね、ではこちらへどうぞ」

「ああ」


 唐突に別室へと促したランを、男性は怪訝な顔で見ている。


 ランが個人的に休憩室として使っている部屋、男性に椅子を勧める。戸惑った様子で腰掛けている。


「さて、少しお話しましょうか」

「…何のつもりだ?」


 問う男性に、


「あなた、何か物騒な仕事をしていますね?」

「…」


 男の表情が僅かに強張る。その無言は肯定でもある。


「あの怪我、時間は経っていましたけど、随分綺麗な傷口でしたね」


 鋭利な刃物で、風を切るように素早く切り付けないと、出来ないような。


「だったら、どうした」


 いえ、とランは首をかしげる。


「別に、ただ聞いてみただけですよ」

「そんなわけがあるかよ」


 地を這うような声で男が言う。そしてにらみを利かせ、


「…ぼったくろうってのか」


 ランは笑った。そんなことは全く考えてもいなかった。確かにありそうな選択肢ではあるが、そもそも言葉以外でランがこの男に敵う要素が無いのだから、それは絵空事と言うものだ。


「違いますよ」

「…じゃあ何だ」


 男は訳が分からないという風にランを見る。


「そもそもの話ですが」


 ランは切り出した。


「私はあなたから、代金を頂くつもりはありませんし」

「何だと?」

「お金は要らないんです」

「…どういうことだ」


 不信感をありありと浮かべる男。それを見て、ランは晴れやかな笑みを浮かべ、


「そういう約束だったでしょう?」


 言った。


「約束?」


 そう、約束。


「タダで見てあげるという、約束でしたから」


 懐かしい約束。


 長かったな。ランはにこやかな笑みを浮かべたまま、


「ね、ヴァルさん」

 な、なんだってー。

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