月光 第三楽章
月光 第三楽章 「Presto Agitato」4分の4拍子 嬰ハ短調。ピアノソナタ第14番 「月光」のクライマックスを飾る第三楽章だが、ソナタ形式なのは第三楽章のみである。急速に駆け上がるアルペジオからなる第1主題では頂点のスフォルツァンドにのみダンパーペダルが使用され、強く鳴り響く。第2主題では属調の嬰ト短調で、優美にしかしどこか厳かな旋律が流れる。なんどかの変奏を繰り返すとナポリの6の和声がしばらく続き緊張感を煽る。高まる緊張感をコデッタ(小規模なコーダ)で和らぎ、そして提示部の繰り返しとなる…………。常に緊張感を煽るようなエネルギーの爆発。それは苦悩であり、心の揺さぶりの頂点のようでもある。
だいたいおかしいと思うんだが。まだ俺は中学校に入学して2ヶ月も経たない。けっけとは小学校の付き合いであるが故に旧知の仲なので良いのだが、まだこれと言ってすごい仲のいい友達は少ないのだ。
というか、その状態でもう合唱コンクールの練習とか早すぎはしないか!?とは思うのだが、文句を言う暇があれば練習をしろといわれるのが定石だ。
そんなことを思いながら通学路を歩いていると、
「おはよう。奏斗くん。」
「あ、おはよう。」
今、挨拶をしてくれたのは 小泉青葉。同じ1年4組でたしか割と近めの席だった気がする。
背が小さく小柄。髪は長く常にポニーテールをしている。
「小泉さんはさ、合唱コン楽しみ?」
「うーん、楽しみだよ。でも不安の方が大きいかも。」
「なんで?」
「なんかね、お兄ちゃんから中学校に居た時の話を聞いた事があるけど、やっぱり喧嘩とかクラスの仲間割れが怒ることが多いみたい。それが不安かな。」
「そうなんだ。小泉さんは優しいし、周りのことを考えられて偉いね。」
「ありがとう!でもどうして合唱コンクールのことなんて聞いてきたの?」
「まあ、なんでもいいじゃん!早く行かないと遅刻しちゃうよ!」
小泉さんの話を聞くと何故か自分が惨めに思えてきた。自分のことばっかりを考えて、周りのことを見ていない。ただの自己中じゃないか。そう思えて嫌になってきた。
「奏斗。おはよーーー!」
「おはよ。けっけ」
「奏斗はさ、まだ伴奏で悩んでる?」
「ううん。決心したよ。やってみる」
「ほんと!?まじかー!嬉しいなあ!」
けっけは可愛いな。俺が伴奏をやるって言っただけで、こんなに嬉しがってくれるなんて。そんなことを思い、他愛もない会話をしていけれども学校は容赦なく始まってしまう。
「うーーーーー。疲れたーー!」
「お疲れ様。次で最後だよ、けっけ。」
「6時限目ってなんだっけ?」
「音楽だよ。」
「まじか!ちなみに今日って伴奏やんの?奏斗は」
「わかんないけど、やれって言われた時ように楽譜はあるし、多分大丈夫だけど……。」
憂鬱だ。火曜の6時限目の音楽。合唱コンクールは夏休みをあけてからの10月にある。うちの学校では合唱コンクールに特に熱を入れてるため、とにかく練習が早い。
そして自分がちゃんとできるのかどうか、不安にさせてくる。
無理だ。そう確信したのは、6時限目の前の10分休み。話し声を聞いてしまった。
「うちのクラス、伴奏さ奏斗くんなんだよね。」
「えっまじ?あの子ってたしか……」
「そう。コンクールで途中で弾くの諦めたみたいな噂の子。大丈夫なのかな。」
他の人にまで知られてしまったのか。世間は狭いものだなと思うと同時に、一気にやる気は失せてしまった。
6時限目の始業のチャイムが鳴る。そのチャイムは空虚のように俺に響いた。その時、強く風が吹いた。その風はどこか心に冷たく、突き刺す痛みがあった。
一人で寂しく校舎の屋上から街並みを眺めていた。平日の昼間から見る街並みはとても閑静で、閑散としていて寂しいものだなとふと心に思う。
「おまえ、なにしてん、こんなところで。」
「あ、けっけ……。見つかっちゃったか。」
「サボり?」
その一言はそう思ってなさそうで、わざとらしく聞こえた。
「サボりかな。」
「そっか。じゃあ、俺もサボるわ。」
「いいんか?お前、俺探しに来たんじゃないの。」
「まあ、最初はそうだった。でも、今はいいかな。」
淡々とけっけはしゃべる。だけれども、そこには呆れも無ければ嫌気もない。ただ、優しく。淡々としている割には暖かみも感じられる喋り方をする。
「空って、青いよな。しかも、どこまでも果てなく続く。」
「なんだよいきなり、ポエマーですか?」
「けっけはさ、考えたことある?この空みたいに果てなく続く海とか、世界とか。でも、その世界には沢山のものがある。なのに自分はこれっぽっちか。みたいな」
「で?何が言いたいのかわかんない。」
「察せよ。」
少しムッと、わかってると思うのに、わざわざ言わせようとする姿に腹が立った。そして、少し間を置いて言う。
「正直、自分なんていなくてもこの世界は回る。時間だって止まってくれって願ったって無慈悲に進むように。なんか、空とか見ると虚しくなるんだよ。虚無感みたいなのが常にまとわりついて____」
話を続けようとするけど、けっけが遮る。
「長い。回りくどい!要するに、お前は必要とされたいんだよ。自分が必要とされない世界が嫌なんだよ。」
その通りだと思う。それと同時に自己中心的で嫌になる。
「だけどな。俺にはお前が必要なんだよ。小学校から一緒のお前が。俺、飄々とした性格だから同じ人と長く続くってこと滅多にないの。でもお前はずっと仲良くできた。」
いきなり何を言う出すんだと思う。それでもけっけは続ける。
「お前は、あのトラウマがあるかもしれない。でも、今のクラスにはお前の力が必要なんだよ。少しは、勇気出してみれば。必要としてる人が、近くにいるってことも忘れないで欲しい。」
「あぁ、そっか、そうなのかな。そう思って、いいのかな」
淡々と喋る割にその内容は優しさで溢れていた。涙が出た。その涙は甘いようでしょっぱいようで、不思議な味がした。
「何泣いてんの。らしくない。」
「悪かったな。でも、そんなこと言われたの初めてで。」
「そっか。そうなんか。」
けっけは自分で言った癖に、頬を赤らめて恥ずかしそうにしていた。
「俺も、お前が必要なのかもな。」
そう言って、今度は春先の暖かな風が僕たちを包み込んだ。
ギャーギャーと騒ぐのに耳を塞ぎたくなるが、そんなことをしたら状況は悪化するだけだろう。うざったい。
「伴奏やるくせに何サボってんだよ」「ありえない。」「自覚ないじゃない?」「意味わかんないんだけど。」
そんな言葉が自由に飛び交う。言いたい放題だ。
さっきのけっけの言葉はどこに行ったのやら。自分は少しでも信じたのが馬鹿だったのかな、と思ってしまいもっと嫌になる。けっけの言ってることは確かなはずなのに。それすらを信じることができないなんて。
「お前ら、さすがにこれはないんじゃねえの?」
はっとし、横を見る。憤りを感じ、イライラを表しにしているけっけがいた。
「お前らさ全員ピアノ弾けるの?できないから奏斗に押し付けてんだろ?本人にやりたいかの意思確認はしたのかよ。したとして、嫌がっていたとしても押し付けていたんだろ?」
こんなにも、憤怒している彼を見るのは初めてだった。しかし、これは火に油を注ぐようなものでは……。
やはりそれで納得行くものではないみたいだ。ギャーギャーと騒ぐのは練習が上手くいかないとか、最近嫌なことがあったとか、そんなもののストレスのはけ口にしたいというだけだろうに。
「だいたい、何で辻がそんなに奏斗を庇うわけ?」
やばい。けっけにまで矛先が向かってしまった……。
自分は他人に迷惑をかけることしか出来ないのか。常に自己中心的な考え方をして、逃げてばかりいて、それで迷惑をかけて……。もうそんな自分が嫌で嫌で、仕方がなかった。
気づいたら、教室から出ていた。走っていた。これでもかというくらい、強く地面を蹴って、蹴って、蹴って。
はやく離れたかった。人から、教室から、学校という場所から。けっけには申し訳ないが、けっけが俺を必要とする限り、おれは迷惑しか与えられない気がする。
なにも返せない。それが心の中でモヤとなって渦が巻いて、けっけから距離を置こう。と決めてしまった。
自分の不甲斐なさ、何も出来ない無力さ。そんなことしか考えられなくて、憤りばかりを感じて。自分への怒り、こんな世界にほぼ八つ当たりというやつだが恨み、妬み、嫉みを抱いてしまった。
「ああっっ!」
ヤケクソになって誰もいない校舎裏で壁を殴った。怒りというものは人から冷静さを奪う。だが、痛覚だけはしっかりとあるのだと思った。痛かった。
「うっ、うっ……。」
涙を堪えようとする度に嗚咽が零れる。
泣くことしか、出来なかった。
動きたくても、何かしようとしたくても神経が麻痺したように何も出来なかった。こぼれ落ちる涙と共にその場に座ることしか出来なかった。
何時間経っただろうか。校舎裏というのは見つかりにくい。誰にも見つからずにもう夜へと時間は残酷に進んでいた。月明かりが照らす校舎を眺めていた。
「ベートーヴェンも、耳が聞こえない時こんな憤りと不安と葛藤ばっかりだったのかな。」
ポツリとそんな言葉が出てくる。身勝手ながらも自分と重ねてしまう。華音が好きだった、月光。頭の中で鳴り響く。寂しく、厳かに。Agitato、感情的に……切迫して。今日の自分にピッタリじゃないか、と思うと乾いた笑いしか出なかった。そして、その場を去った。




