タイミング・ライフ
幼いころから、あたしは間が悪い局面に出会うことが多かった。小心で臆病な性格も、悪い方向に作用していたのかもしれない。
幼稚園で年長さんだったころ、お母さんと手をつないで買い物から帰っていると、近所に住む桃香ちゃんが庭でおともだちと遊んでいるところ、気づかれて声をかけられた。
「リカちゃん。いっしょにあそぼ」
お母さんの勧めもあって、その四人グループの輪に入ることになった。
桃香ちゃんの家の庭の一角に設置された子供用バスケットのゴールネットに向かって、みんなででたらめにシュートしてきゃっきゃと盛り上がっていると、彼女の母親が買い物袋を提げて帰ってきた。そして、庭で遊んでいるみんなにニコニコと声をかけた。
「おーい。みんな、おやつにしよっ!駅前のケーキ屋さんの有名な苺ショート、ちょうど四個あったよ。手を洗っ、て……」
買い物袋から顔を上げた桃香ちゃんの母親の視線があたしと合ったとき、言葉は止まり笑顔は一瞬固まった。
男の子二人は、やったーとかうおーっ、とかいってたけど、桃香ちゃんともうひとりの女の子はただ表情なくあたしを見つめた。
桃香ちゃんの母親が口を開く前に、あたしはなにもいわずに逃げるように走って家に帰ったような気がする。たぶん泣いていたかもしれない。
中学二年生のとき、部活終わりの放課後、ふと思い出して教室に戻って扉をガラガラと開いた。
まさにその瞬間、あたしが密かに想いを寄せていたシンくんが、親友の恵那と至近距離で向き合って、黒板に静かに壁ドンしているところだった。恵那の右手が彼の左手首をつかんでいた。二人は目を見開いてこちらを振り返った。あたしも同様の表情だったろう。二人の背後のガラス窓に浮かぶ大きなオレンジ色の夕日が美しかったのを強烈に覚えている。あたしは無意識に、その固まった表情のまま言葉なく開いた扉をガラガラと目の前で閉じた。そのまま二秒ほど動けずにいたと思う。
その日以降、恵那とはギクシャクした関係になり、廊下ですれ違ってもお互い目をそらすようになった。一度、体育の授業のあとでシンくんに呼び止められたけど、聞こえないふりをして足早に去った。シンくんと恵那が付き合ったという噂は、中学を卒業するまでとうとう耳にしなかった。
高校三年生のとき、アルバイト先に憧れている先輩がいた。思い過ごしだと思うけど、彼は他の人よりもあたしに優しく接してくれていた。その当時はまって観ていたドラマの韓流スターにどこか面差しが似ていて、歯が芸能人みたいに白かった。
ある日、商業施設内で買い物をしていて、たまたま飲食フロアを歩いていると、カフェの店内にその先輩が一人いるのが見えた。頭をポリポリとかきながらスマホをいじり、ラージカップの何かを飲んでいた。
やったぁと内心嬉しくなり今日もかっこいいなぁと、あたしは足を止めた。その一秒後、先輩は口を開いた。え?と考える間もなく、その口はどんどん大きく開いていき、歯科医院でも見せないであろう大口を開いた。彼の視線が横に流れ、ガラス越しにあたしと視線がぶつかった。
大口を開いたまま先輩は固まっていた。そこに韓流スターの面影は微塵もなく、並びのよい歯も見えなかった。あたしは、たぶん不自然に視線を外してそそくさとその場を去った。
その日以降、たったそれだけのことでバイト先では居心地が悪くなり、先輩はあたしに何かを伝えようとしている感じだったけど、臆病が勝って逃げるようにあたしはそこを辞めた。
そんなこんなで一時が万事となり、あたし自身の内気な性格も手伝って、これまでの人生は楽しいことがひとつもない。恋人がいたことも一度もない。友だちと呼べる友だちも一人もいなかった。
そうして大学を出て、何も変わり映えのない実家生活と、相変わらず年に一度はある”間が悪い状況”に遭遇しつつ、中堅の広告代理店に勤めはじめて八年の月日が流れていた。
そんなある日のプレゼンで、あたしが出した企画が通ってプロジェクトにゴーサインが出そうになっていた。まさかまさかの事態に一瞬パニックになった。あたしにとってはすごく大きな仕事だった。趣味らしい趣味もないあたしにとって、数年温めてきたその企画を認めてもらえた上に、うまくすればその広告が世の中に出るかもしれないと興奮していた。そうして張り切って準備をはじめようとしていると、係長に呼ばれた。プレゼンの二日後だった。嫌な予感がした。
「君の企画、いったん保留になった。今回の三様食品さんの広告、山田さんの案でいくことになったから」いつものようにあたしの顔を見ないでモニター視線のまま彼はいった。
「え……」
「タイミングが悪かったね。上の指示だから悪く思わないでほしい。また、がんばって」
それだけいうと、カタカタと両指を動かしはじめた。ここで粘っても無意味なことは知っているし、この係長は癇癪持ちですぐにシュ~ッと沸騰するので、こめかみに田んぼマークが出る前に撤収する。同僚が彼に何度も怒声を上げられているのは見飽きている。
山田まひろさんは、あたしが指導係をした入社三年目だ。彼女の考えるデザインやコピーはたしかにセンスがあって、すごいなぁとは常々思っていたのだけど……。ついに先を越されたなぁ。
意気消沈して帰宅していると、ふとコンビニの光が目に入り、ふらりと誘われるように入ると自身でも珍しく酎ハイのロング缶を一本買った。すぐそこに横断歩道があるのに、あえてその先の日々誰も使わないであろう歩道橋の階段へ踏み出した。橋の真ん中で手すりに肘をついて酎ハイのプルタブを開けると、空を見上げた。足元では二車線の道路をひっきりなしにゴーッ、ゴーッ、と轟音を鳴らしてヘッドライトを点けた車が行き交っている。雲ひとつない夜空に細い三日月がくっきりと浮かんでいた。満月ではなくて月が欠けて引き潮に向かっているのが、天のお告げみたいでなんだかおかしくて不思議と笑みがこぼれた。あたしらしい。お酒を喉へ流し込みながら、あーあ、あの金色に輝く月の先端に座りたいなぁ、とぼんやり思った。ふだんお酒はまったく飲まないので、二口だけで顔が火照った。だけどやさしい風が頬をなでて心地よかった。
「ちょっと、すみません」
予期せぬ横からの声にあたしは驚いて、まだほとんど減っていない缶を取り落とした。あわててそれを拾うと声の主を見上げた。
「あー、ごめんなさい、いきなり声をかけてしまって」
四十代後半くらいのその男性は、片手を後頭部にやりながら申し訳なさそうにぺこぺこと名刺を片手に近寄ってくる。「その飲み物代は弁償しますので」
「あ、いえ、大丈夫です」立ち上がると、恐怖心を感じて少し後ずさった。
「突然すみません、わたしこういう者です」
差し出された名刺を恐る恐る受け取り見てみると、月明かりと街灯がその会社名を照らした。そこには、あたしと同業の広告代理店の名が印刷されていたが、こちらとは比べようもない大手も大手、日本のナショナルクライアントをほぼ独占している会社だった。甲斐田翔太。肩書はアカウント・スーパーバイザーとある。役職が理解できずにちんぷんかんぷんだった。
「あのぉ、少しお時間よろしいでしょうか」
おそらく会社で上位職であろうその男性は、変わらず低姿勢のままいった。業界人らしく服装はスタイリッシュなカジュアルビジネス。
「な、なんですか?」
「あなたは現在、芸能活動をされていますか?」
わけがわからず、ただ当てはまらないという思考で、あたしはゆっくりと首を振った。
彼は真剣な表情であたしの目を見て、うんうんと首肯すると、「モデルにご興味はありませんか」といった。
頭の中が?となった。次に、この人は何をいってるんだろう、と思った。あたしがぽかんとしていると、甲斐田氏がやんわりと口を開いた。
「わたしたちは―――」
現在テレビ放映中のCMのいくつかと、彼らの代理店が手掛ける新聞、雑誌、ラジオ、インターネットの代表的なところを口にした。興味あるなし関係なく、公共の電波の恩恵を受ける者なら必ず認知しているものばかりで、あたしも当然すべて知っていた。それと、不思議なことに聞いていて嫌みがまったくなく、簡潔で整然とした話し方に気づいた。
「あなたはきっと逸材です。是非ともわたしたちの用意する舞台で輝いていただきたい」
にわかには信じられなかった。というより新手のナンパか詐欺かアダルトの勧誘が脳裏をよぎった。もうすぐ三十歳という、二十代からすると”おばさん”度がグッと増す年頃なのに。
甲斐田氏がいうには、歩道橋の斜め下を歩いていて橋の上に人がいることの珍しさに若干食指を動かされて、その人物を仰ぎ見た。この道は彼の通勤ルートで、日ごろから歩道橋の利用者が皆無に近いことを熟知していたからだった。そして、橋の中央で缶酎ハイを片手に月を見つめるあたしに何かを感じたようだった。
「もちろん、いますぐ返事をしなくても結構です。前向きに検討していただいて、ご都合のよいときにその名刺の番号かメールにご連絡ください。必ず明るい未来があります。よろしくお願いします」
そういってくるりと踵を返したが、思い出したように手を打つと、再び向き直り懐の財布から千円札を一枚抜いた。
「たいへんだ。その飲み物の弁償を忘れるところでした」お札を持った手を、どうぞと差し出す。
「いえ、いいんです。本当に」あたしは顔の前で手を振った。
「これは誠意ですから。それに、大の大人が一度だした手を引っ込めることは恥ずかしいものです」
おだやかだが有無をいわせぬ表情を浮かべて甲斐田氏はいった。
そういわれると、これ以上のやりとりは失礼だとあたしも感じて、「じゃあ、遠慮なく」と受け取った。
彼は笑みを浮かべて小さく一礼すると、「ご連絡お待ちしています。それでは」そういって来た道を歩いて歩道橋を降りていった。
きつねにつままれたようだった。家に帰って、母が用意してくれていたナポリタンとわかめスープの夕食を採り、湯舟で先ほどの出来事を思い返す。ベッドに入ってからもぼんやり整理がつかず、夢だったのかな、と思ってみても枕元の電気スタンドには甲斐田氏の名刺が確かにそこにあった。不思議な印象を彼に抱いた。なんだろう、この心の揺れ。もちろん恋愛感情とかではない。これまでに経験したことのない何か。でも、あたしがモデル?冗談でしょ。もう三十近いんだよ?身長も百五十六しかないんですけど。逸材?君はいい番だ、と聞き間違えた?意味不明。明るい未来……かぁ。初対面の、しかもうす闇であたしのことは何もしゃべっていないのに、なんでそんなこといえるの。やっぱり新手の詐欺だ。おかしいよ、どう考えたって……。でも、わざわざ名刺まで持って歩道橋に上ってくる?落とした缶酎ハイの代金も三倍にして弁償してくれたし。あ~っ、もうわかんないよ!どうしたらいいの?思考を停止したくて掛けぶとんを頭までかぶったけど、なかなか睡魔は訪れなかった。
その日から数日経っても、甲斐田氏のことというより、彼にいわれた内容が脳裏にこびりついて離れなかった。当然、集中力を欠いて仕事でもポカをやったが、相変わらず係長はこちらを見ずに、「次からは気をつけて」とだけいった。
同じフロアの周囲の空気は痛いほど感じていた。特に男性社員は同様もしくはもっと簡単なミスをしても大目玉をくらっている。にもかかわらず……。
お昼休みに誰もいない化粧室に行って最奥の個室に入ると、便座カバーを上げてそのまま腰を下ろすと頭を抱えた。用を足すのではなく、会社で考え事をするときはいつもそうしていた。人の出入りが多いときはサッと出て非常階段に先客がなければ、そこで没入していた。自身の中で何も答えらしきものが出ないまま時間は過ぎて、休憩時間も残り十分あるかというところで足音が聞こえた。複数の足音。二人?
「てかさ、リカちゃん最近やばくない?」
鏡面の前で二人は足を止め、ガサゴソと何かを開ける音がした。化粧直しだろう。その声は山田まひろさんに違いなかった。
「あー、あの人ね。天然でぽわっとしてるよね、いつも」
おそらく同期の誰かだろうけど、奥の個室が閉じているから二人とも声量は落としている。
「ここ数日なんだか上の空だし、ぽかんとしてる」
「あんたに案件取られてタマシイ抜けたか、ガクト様みたいな人にほだされたんじゃないの」
「あー、ガクトかぁ。だったらお似合いじゃん」
「てかさ、なんであの人のことリカちゃんって呼ぶの?前から気になって……って、えーっ!まさか?」
「ちょっと、声。……なんなの、今さら。ぱっちりお目目に長ーいまつ毛。つる肌に小顔と艶髪。タカラトミーからの派遣社員だよ、あの人」
「確かに……。同性でも近寄りがたいくらい綺麗だもんね」
「時間ない。そろそろ行こ」
何かを仕舞う音のあと、二人の足音が遠ざかり消えた。
あたしは心から驚いていた。そして桃香ちゃんの顔がフラッシュバックして浮かんでいた。初めてあたしのことを"リカちゃん"と呼んだ日。
「お人形のリカちゃんみたい」
彼女はそういってあたしに話かけてきた。それ以降も桃香ちゃんがみんなの前でもいうから、挙げ句に先生までそう呼びはじめたから、園ではもうそれで認知された。あたしのほんとうの名前はリカではない。腕時計に視線を落とすと
これは書きかけのテスト的小説です。




