【第2話・前編】武と胃袋
草原を抜けて数時間、ようやく石畳の道に出た。その先に、小高い丘と、城壁のようなものが見えてくる。
「……あれが、街か」
異世界に転生してから、まともな人間とはまだ出会っていない。かめが案内してくれた道を頼りに、黙々と歩いてきた。
空腹はない。けれど、不思議と疲れもない。ただ、心の奥にぽっかりと穴が開いたような気持ちだけが、ずっと残っていた。
そうして林 稔がようやくたどりついたのが、石造りの門を備えた街――〈カンノ〉だった。
門の手前で、立ち止まっていた稔の肩を、ぽん、と叩く者がいた。
「おう、おまえは旅の者か? 見ぬ顔だな!」
人懐っこい笑みを浮かべた、三十代後半くらいの男だった。身なりはよくも悪くもなく、街の服装に馴染んでいる。
背中には竹籠、籠には何やら干した香草や野菜らしきものが詰まっている。
「……いや、ああ……その、ちょっと道に迷って……」
「迷ったままここまで来れるとは運がいい! おれはカイだ。この辺じゃちょっと顔が広いんだ」
男――カイは、快活な声でそう言って、勝手に握手を求めてくる。稔は戸惑いながらも、その手を握り返した。
「“ハヤシ•ミノル”さんか。珍しい名だな。……まあ、気にしないことだ。いろんな名前のやつがこの街には来る。腹が減ってりゃ、まずは食い物と寝床。それさえあれば、どんな奴でも暮らせるのが〈カンノ〉さ」
そう言ってカイは笑う。その笑顔は、どこか温泉宿の仲居のような、相手を包み込むぬくもりがあった。
「だが、今日は少しややこしいぞ。町の隊長が“軍神の使いが来る”とか騒いでてな。……おっと、こういうのはおれが口にしていい話じゃないか」
軍神? 使い? それは偶然なのか。
稔は首をひねったが、何も言わなかった。
「とりあえず入門は簡単じゃない。あそこの衛兵たちは真面目でな……。よし、困ったらこの名前を出せ。“カイが紹介した”って言えば、一応の顔ぐらいは立ててやるよ」
そう言って、カイは右手で敬礼のようなポーズをしてみせる。
「じゃあな、ミノルさん。〈カンノ〉はいい街だ。おぬしみたいな目が澄んだ人間には、きっと合うと思うぜ」
その言葉を残し、彼は肩に竹籠を背負って、軽やかに門の脇道へと歩いていった。
門の前には、数人の衛兵が立っていた。稔が近づくと、一人の兵が訝しげに目を細める。
「よそ者だな。用は?」
答えようにも、何をどう言えばいいかわからない。異世界の通行手形など持っていないし、「観光で来ました」とも言えない。
かめが、そっと前に進み出た。
次の瞬間――
稔が提げていた布袋から、一枚の紙がひらりと落ちた。
「……ん? なんだ、これ」
兵士が拾い上げたそれは、見慣れぬ文様が刻まれた札だった。七福神の墨絵、その左上には金色の「毘」の字が光っている。
「これは……軍神〈ビシャ〉の印!? 貴様、どこでこれを!」
ざわつく衛兵たち。なぜか“通された”稔は、城門の奥へと導かれていくことになる。
衛兵詰所の一室。粗末な木の机と椅子。だが壁には剣や槍がずらりと並び、緊張感が満ちている。
やがて現れたのは、目つきの鋭い女性だった。背筋をぴんと伸ばし、鎧の音を微かに響かせながら、まっすぐに稔を見つめる。
「名は?」
「は、林稔……です」
「異国の名だな。――この札、おぬしが持っていたということは……」
彼女は訝しみながらも、どうやら軍神〈ビシャ〉の加護を持つ者として、稔を軽んじるわけにはいかないらしい。
「事情はよくわからんが、今、我が部隊には問題が山積している。力を貸してもらうことになるかもしれん」
「えっ、でも……俺、料理しかできませんよ?」
「料理?」
一瞬、場の空気が凍った。