【1】冴えない人生と、休日の“福”めぐり
林 稔、五十歳。
都内のホテルレストランで二十五年、料理一筋の人生を送ってきた。職位は「チーフ」。だが、それも肩書きだけのものだった。
若手は「映える」料理ばかり作りたがり、調理場にスマホを持ち込む。季節の素材、火加減、出汁の取り方――そういったことに心を砕いてきた稔のこだわりは、時代遅れと笑われることもあった。
自分の価値は、もうこの世界に通用しないのかもしれない。そんな空気を肌で感じながら、心のどこかで「それでも」と思っていた。
稔には趣味というものがなかった。料理は仕事で、読書も酒も“自分のため”に楽しむ習慣はなかった。
そんな単調なある日、帰り道によった駅ビルでふと目に入った観光案内が、彼の目を引いた。
「七福神をめぐれば、七つの福に恵まれる――」
都内の下町に点在する七つの寺社をめぐる、昔ながらのイベント。休日の時間を埋めたかったこともあり、なんとなくリーフレットを持ち帰った。
「福なんて、俺の人生にあったことあったかね……」
次の日曜日から、稔はひとりで七福神めぐりを始めた。寺社の佇まい、墨書きの御朱印、古木の香り――静かな時間が、思った以上に心にしみた。
その数週後、稔は社内プレゼンで、新しいコース料理を提案した。旬の根菜を使った出汁ベースの前菜、和と仏のエッセンスを掛け合わせたスープ、しっかり焼き目を入れた鴨のロースト――だが結果は、あっさりと「ポシャった」。
「味が地味」「映えない」「手がかかりすぎる」
若い同僚たちはにこやかに、けれど冷ややかに言った。料理長も苦笑いを浮かべ、プレゼンは何事もなかったように終わった。
稔はその夜、駅のホームでひとり立ち尽くした。力は出し切った。それでも、評価されなかった。
俺のこだわりは、もう時代遅れなのかもしれない。なのにあきらめきれない自分がみじめだった。
その週末、稔は最後の一社――七社目の神社を訪れることにした。池のそばにある、静かな社だった。観光客もおらず、境内にはしんと風が吹いている。
池には、ぽつりと一匹、かめがいた。苔むした甲羅が陽に照らされ、きらきらと光っている。稔はその前に立ち、そっとつぶやいた。
「なあ、俺の人生、間違ってなかったと思うか?」
かめは、まぶたを一度だけ、ゆっくりと閉じた。
その瞬間、足元の石畳がふわりと揺れ、世界が静かに傾いた。
――ざざぁぁん。
耳に届いたのは、潮騒のような音。稔が目を開けると、見慣れぬ景色が広がっていた。
足元は草地。遠くには森と小高い丘。道も、建物も、人影もない。だが空は青く、風はやわらかく、胸の奥にどこか懐かしさを感じる場所だった。
「ここは……どこだ?」
足元にはあのかめがいた。ゆっくりと、稔の足元をすり抜けるように進み、丘の向こうを指すように首を動かす。
「……ついて来いってか」
稔は、自分の手のひらを見た。包丁を握ってきた手。評価も、拍手も要らない。けれど、もう一度、料理で誰かの心を満たしたい。
そう思えたとき、自然と足が動き出していた。
異世界に転移した林 稔は、見知らぬ世界で、これから自らの手で、“七福庵”を築き上げることになる。
まずはこの道の先――最初の街で、出会いが待っている。
ひとりと一匹。料理と誇りの旅の、はじまりだった。
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