サジタリウス未来商会と過去の取引
杉山という男がいた。
40代半ば、会社では中堅管理職として働いており、収入も安定している。家庭も持たず、趣味も特になく、無難に日々を過ごしていた。
しかし、彼の心には常に空虚さがあった。
「俺の人生、薄っぺらい……」
大きな失敗も成功もない。若い頃の思い出といえば、地味な学生生活と平凡な就職活動くらい。
感動的な恋愛や劇的な冒険のような話とは無縁で、誰に語れるエピソードも持っていない自分に虚しさを感じていた。
そんなある日、帰り道に奇妙な屋台を見つけた。
それは狭い路地裏の奥にひっそりと佇む屋台で、古びた手書きの看板が掲げられている。
「サジタリウス未来商会」
興味を引かれた杉山は、ふらりと近づいてみた。
屋台の中には痩せた初老の男が座っている。白髪交じりの髪と長い顎ひげ、鋭い目が特徴的だが、穏やかな微笑みを浮かべている。
「ようこそ、サジタリウス未来商会へ」
男――ドクトル・サジタリウスは、彼に軽く頭を下げながら声をかけた。
「ここでは、あなたの人生を豊かにするための商品を取り扱っております。今日はどんな未来……いえ、過去をお求めですか?」
「過去を?」
「ええ。あなたの思い出を彩る特別な記憶をご提供します。恋愛、冒険、成功、失敗――どんなストーリーでもございますよ」
杉山は耳を疑った。
「つまり……過去を買えるってことか?」
「その通り。記憶を移植するのです。まるで自分が本当に体験したかのように感じられる、鮮明な思い出を脳に刻み込むことができます」
杉山はその言葉に惹かれ、試しに「学生時代の楽しい仲間との日々」という記憶を購入することにした。
サジタリウスは奥から小さなカプセルを取り出すと、簡単な装置にセットし、杉山に向かって言った。
「さあ、この装置に座ってください。数分間で完了します」
杉山が装置に横たわると、頭に微かな振動を感じた。その後、装置から出てきた彼の脳には、鮮やかな記憶が刻まれていた。
「なんだ……これは……」
杉山の頭の中に浮かんだのは、仲間たちと夜通し語り合い、笑い合った青春の日々だった。
実際には孤独だった高校生活とはまったく違う、活気に満ちた世界が広がっている。
「本当に俺が体験したみたいだ……」
「お気に召しましたか?」
サジタリウスの問いに、杉山は興奮気味に頷いた。
それから杉山は、たびたびサジタリウスの屋台を訪れるようになった。
次に購入したのは「海外での冒険」だった。
記憶の中で、杉山は広大なサバンナを旅し、現地の人々と交流し、危険な目に遭いながらも数々の発見をする。
次は「成功した恋愛」。
大学時代に出会った女性との甘酸っぱい恋愛が鮮やかに蘇り、別れの悲しささえも深く心に刻み込まれる。
購入する記憶が増えるほど、杉山は自分の人生が豊かになったような気分になっていった。
だが、しばらくすると、彼は違和感を覚え始めた。
「これは本当に自分の記憶なのか?」
鏡を見ても、自分が誰なのか分からなくなるような感覚に陥る。
職場でもうっかり購入した記憶の話をしてしまい、同僚に奇妙な顔をされることが増えた。
「大学時代、サハラ砂漠を旅したことがあってさ……」
「え?杉山さん、海外に行ったことないって言ってませんでした?」
記憶と現実の境界が曖昧になり、杉山は自分が何者なのか分からなくなっていった。
ついに、彼はサジタリウスの屋台を訪れ、訴えた。
「もう限界だ。過去の記憶を全部消してくれ!」
サジタリウスは深く溜息をついた。
「申し訳ありませんが、一度販売した記憶を取り消すことはできません」
「じゃあ、どうすればいいんだ!?」
「唯一の方法があります。それは、すべての記憶をリセットすることです。購入した記憶も、あなたの元々の記憶も、すべてです」
杉山は息を呑んだ。
「全部……消える?」
「そうです。ただ、これからの人生は真っ白なキャンバスになりますよ」
杉山はしばらく迷ったが、最終的にその方法を選ぶことにした。
リセットの施術が終わった後、杉山は穏やかな表情で装置から出てきた。
だが、彼の目には以前のような焦りや迷いはなく、どこか清々しい光が宿っているようだった。
「これからは新しい記憶を作っていくだけです。良い未来をお祈りしております」
サジタリウスの言葉に、杉山は静かに頷いた。
その後、杉山がどうなったのかは分からない。
ただ、サジタリウス未来商会は今も路地裏にあり、新しい顧客たちを待ち続けているという。
サジタリウスは穏やかな笑顔を浮かべながら、こうつぶやいた。
「未来も過去も、選ぶのはあなた次第です」
【完】