7.夢か現か
令和から再度平成に戻ってきます
「━━━━━良い子だよ」
暗く沈んだ意識の中で、真弓は母の声を聞いた気がした。
直後、耳元で聞こえる『うぁー』『んぶぅ』という麻央のご機嫌な声。
いや、麻央は楓という三歳の子供を産んでいるから、麻央でも楓でもない声のはず。
ボンヤリとした思考の中でそこまでなんとか考えた真弓は、少しずつ感覚が浮上してきた。
「真弓ちゃん?起きた?目が覚めた?」
真弓の瞼がピクリと動いたのを見逃さなかったのか、今度ははっきりと真弓の母の声を聞く。
なぜ母がいるのだろう。
退院した真弓を心配してわざわざ来てくれたのだろうか。
そんなことを考えながら、真弓は未だに重い瞼を開けようと意識した。
まだしっかり機能していない感覚が捉えたものは、まるでつい最近まで入院していた病室に似た天井と、消毒の匂い。
おかしい。
自分はまた入院してしまったのだろうか。
自宅のベッドで里香からの手紙を読んで、涼介に泣き顔を見られたくなかったから枕で顔を隠したところまでは憶えていた。もしかするとそのまま寝てしまったのかもしれないが、それにしてはここは病室のようだ。
真弓はボンヤリと半目を開けた状態で、なんとかそこまでは考えたが、涼介と母からの、『真弓っ』『真弓ちゃんっ』と呼びかけてくる必死さを感じさせる声が邪魔をして、それ以上は考えられなかった。
そして、その声掛けの最中も耳元で聞こえる赤ん坊のご機嫌な声が聞こえ、無意識にその声の方に顔を向ける。
自分の隣で手足をバタつかせご機嫌で声を出していたのは、真弓が記憶しているままの愛娘の麻央。
真弓が気に入って麻央によく着せていたベビー服を着て、真弓の母を見て楽しそうに笑っている。
ああ、よく知っている麻央だ。
混乱した中で、ふっと安心した真弓は、『麻央』とつぶやいた。
「そうよ、麻央ちゃんよ。今日も良い子だけど、ママがいないと寂しがるわ。真弓ちゃん、麻央ちゃんのために起きてちょうだい」
その声の主である真弓の母も、思えば真弓の記憶のままの若さだ。
今が『令和』ならば最後の記憶より二十六年経っているはずなのに、母は全く変わりがない。
その違和感を気にしながらも、隣にいる赤ん坊に、『麻央』と声をかける。
『きゃ、きゃ』と返事のように声を出すその子は、どう見ても麻央で、真弓はいったい何がどうなっているのかわからず思考がまとまらない。
「真弓、良かった。良かった」
今度は涼介の声が聞こえ、真弓はゆっくりと顔をそっちに向けた。
まさかとは思っていたが、やはりそこに見えたのは白髪などない若い頃の涼介で、真弓は未だ覚醒しきっていない頭で一生懸命考える。
里香が死んでしまったことに対する罪悪感を持った真弓が見ている夢なのか、それとも『令和六年の世界』が夢だったのか。
念の為に日にちを聞くと、平成十年の五月二十一日だと言われ、真弓は混乱しながらも、今は涼介の浮気疑惑の四日後なのだとなんとか自分を納得しようと頑張ってみた。
しかし、周りに人が居なくなるとどうしても『令和六年』は何だったのだろうと考えてしまう。
今の真弓は骨折の他、外傷性くも膜下出血の処置も済んでいると説明され痛みはある。
薬を飲んだりして多少痛みをごまかすことはできても、やはりこれだけ痛いのなら夢ではない。
ならば令和六年が夢だったのか、とも思ったが、あの時も現実だったと断言できる。
目が覚めるまでいた令和六年の世界でも、やはり事故による怪我はあった。
相手の車のスピードがあまり出ていなかったのが幸いしてかすり傷や打ち身程度だったが、確かに痛みを感じていた。
あの時も目が覚めたらいきなり令和六年と言われて混乱したが、それでも夢ではなく生きている実感はあった。
ならばなぜ今は平成十年なのか。
あの令和六年は何だったのか。
真弓はベッドの上で何度も考えたが、答えなど出てこない。
誰かに話を聞いてもらおうとも思ったが、頭が変になったと思われそうでそれもできない。
令和六年の四日間が気になったが、結局真弓は夢を見ていたのだと思うことにした。
そう思わなくては、本当に頭が変になりそうだった。
退院した真弓だったが、まだ生活には支障があるため母がしばらく一緒に居てくれた。
そのためか、涼介と二人きりになることはなく、あのホテルから出てきた言い訳をされることもなかった。
わだかまりは感じたが、母の前では以前と同じ夫婦関係を見せていたため、事故から二ヶ月後には、真弓が日常生活を不自由無く送れるようになったと判断した母は帰っていった。
涼介、そろそろあの時の話をしてくるかな。
真弓は、令和が夢だったと思い込もうとしていたが、やはり心のどこかではあれも現実だったと思っていて、もし、涼介があの時の話を始めたらきちんと聞こうと決めていた。
令和での話が事実という前提でこれからのことを考えると、里香が温泉旅館に行くまではまだ余裕がある。
だからまずは涼介から話を聞くこと。
その話の内容によって判断しようと、真弓の母が帰る頃には既に腹をくくっていた。
真弓の母が帰った最初の金曜日。
涼介は珍しく早めに帰宅した。
麻央をあやしながら夕食の支度をしていた真弓は、緊張を隠した涼介に気がついて、自分もなんとなく落ち着かない気持ちになっている。
なんとなく、少しずつ何かがずれているようなぎこちない空気の中、麻央の寝かしつけという一日の終わりをむかえた。
「真弓、ちょっと話を聞いてほしいんだけど、今いいかな?」
麻央を寝かしつけた涼介がリビングに戻ってきて、硬い表情のまま真弓に声をかけた。
いよいよか、と思った真弓は、なんとか平然とした態度で、『うん、なあに?お酒とか用意したほうが良いかな』と答える。
涼介は、『お酒はいらない』と言い、真弓に座って欲しいと促す。
真弓は洗い物を終えると、ダイニングチェアに座る涼介の正面の椅子をひいた。
浅く座って、さあどうぞ、とばかりに背筋を伸ばすと、涼介も少し居住まいを正し、『あの日のことなんだけど』と話し始めた。
真弓は話を遮ることなく、最後まで聞いたが、内容は令和で聞いたそのままだった。
ただ、時間の経過的に里香は治療を始めたばかりだと思われ、そこだけは救いだと真弓は密かに思った。
まだ、里香は逃げていない。
このまま治療をし経過観察も怠らなければ、もしかすると死なせなくてすむかもしれない。
自分が死なせてしまったような、あのなんとも嫌な気分になるのは絶対に嫌だ、と思った真弓は、これからどうしたら里香が生きることに前向きになるか考える。
里香の性格はよくわからない。
ただ、麻央が生まれた後に湯上と家に来たときの様子からは、さっぱりとした判断の早い女性のように思えた。
涼介がからんでいなければ友人になれたかもしれないが、現状では無理だ。
今後、涼介とは会ってほしくないし、自分も会いたくないと真弓は思う。
しかしこのまま疎遠を決め込むと里香が緩やかに死に向かっていくことを知っている真弓は、たとえ自己満足でも、里香を死なせることは阻止したいと思っている。
そしてそのためには里香との接触は不可避だろう。
単純に考えれば、里香が今後何の心配もなく治療に専念できれば良いのだから、涼介と真弓がきちんと話し合い、誤解が解けたと里香が知れば良いはずだ。
しかし、里香に涼介と真弓が仲直りしたと知らせるのは涼介しかできない。
なぜなら他人には真弓が誤解した理由など言えないからだ。
内容はぼかしながら誰かに仲介を頼んだとしても、湯上でさえきっと、『何があった?』くらいは聞いてくるだろう。
それに対して涼介が正直に言えるはずもないだろうし、真弓もそこは望んでいない。
あまり人を巻き込むのは嫌だからだ。
そうなると涼介が直接里香に伝えるしか無い。
しかしそこからまた二人が接点を持つのは、真弓としては看過できない。
結局堂々巡りに陥るだけで、真弓は答えを導くことはできそうに無く、思わず頭を抱えた。
真弓が悩む姿を見ていた涼介は、全く別のことを考えていた。
たった今、あの日の経緯を正直に伝えたのだが、真弓はそれについてなじることも嘆くこともしない。
ただ、真弓が何かを考えていることはわかるのだが、それはなぜか涼介のしたこととは別の何かのような気がして不思議だった。
あのような場面に遭遇したのだから、もしも今涼介が話したことを全て信じたとしても、妻として涼介を責めるような言葉があってもおかしくないはずなのにそれが無い。だからもしかすると真弓は既に離婚まで気持ちが傾いていて、それについて考えているのかもしれない。そう考えると涼介は自分の迂闊さに怒りが湧いてくる。
なぜあの時、里香とホテルに向かってしまったのか。
なぜ真弓のことを苦しめると考えなかったのか。
何かを考え、文字通り頭を抱えてしまった真弓を見て、涼介は後悔で頭がいっぱいだ。
涼介は真弓と離婚などしたくない。
あのような不実な場面を見られていても、真弓から離婚宣告が出ることを恐れた。
今は、あの時の経緯を全て話したから、ひたすら謝って許しを請うべきなのかもしれないが、真弓は何かを考えているときに邪魔をされることを嫌がるということを知っている涼介は、謝るタイミングをはかりながらもどうにか離婚を回避できないかと考えを巡らせる。
謝って、謝って、それでも真弓から離婚だと言われたら······
そうなったら真弓の両親にも事情を話して、真弓に離婚を思いとどまってもらうように説得してもらわないといけないかもしれない。
真弓の両親に話すということは反対に離婚を後押されてしまう恐れもあるが、真弓一人が鬱々と考え込むより、真弓が正直な気持ちを話してから意見を聞ける状態のほうが真弓の負担が軽くなるだろう。
その上で離婚という決断となったら、その時は、もう身から出た錆だと諦めるしか無いのだろう、と涼介は気持ちが沈み込む。
きっと、すんなりと受け入れることは難しいから、何度も縋りつくだろうと涼介はその場面を想像し、息苦しくなる。
しかし、真弓があの時受けたショックはこれ以上だったろうと想像すると、真弓の判断に任せるしか無いとも思っている。
二十一時を過ぎたばかりの東京なのに、音のない空間で二人はそれぞれに悩み苦しんでいた。