6.逃げるか向き合うか
今回の事故では、真弓は頭をアスファルトに打ったが他に外傷はなかった。
相手の車のスピードが出ていなかったのが不幸中の幸いだったのかもしれないが、真弓の忍耐によって構築された夫婦関係は一からやり直しとなる。
何も言わず、憶えていないの一点張りで通した真弓の心痛は、先ほど真弓の口からこぼれ落ちた、『別れなかったんだ』というつぶやきからかなりのものだったと、今更ながらに涼介は奥歯を噛み締める。
しかし、それでも夫婦関係を続けてくれた真弓に、もう一度同等の思いをしてもらわないと今後も夫婦として生活できない。
ならばせめて、あの時説明できなかったことを話さなければいけないと涼介は思う。
その話を聞いた真弓がどう思うかは分からないし、話すことが涼介の自己満足に過ぎないかもしれないが、それでも本当のことを説明しなくてはいけないと強く思った。
幸いと言って良いのか、真弓は涼介がラブホテルから出てきたことを憶えていると言っている。
しかも真弓の記憶の中ではつい最近の出来事だ。
未遂だったと話せば、少しは気持ちも軽くなるだろうか。
しかしホテルから出てくるところを見られているのだから、たとえそれが真実であれ真弓は嘘だと思うかもしれない。
涼介は一度大きく深呼吸して、それでも事実を話そうと真弓に向き合い、あの時の話を始めた。
涼介からの話を、真弓は内心不貞腐れながら聞いていた。
里香が乳癌だったというのは同情するが、だからといって抱かなくていいはずだ。
あの、涼介がラブホテルから出てきた場面を思い出すと確かに、『待って』と涼介にすがりついた里香の顔は甘えというよりも必死さがあった気がするから、本当に未遂で出てきたのかもしれない。
しかし、だ。
もし正気に戻るのが部屋に入った後だったら未遂で終われたか、と想像すると、きっと無理だったろうと真弓は考える。
なぜなら涼介は驚くほどに性欲が強い。
その涼介からは真弓が麻央を産んだ後、初めての育児、とくに夜中の授乳でへとへとになっている真弓を気遣っているのか、夜のお誘いはほとんど無い。
涼介はかなり我慢してたまっていたはず。
そんな時にそんな誘惑をされたら、のってしまっても納得できてしまう。
それに、アドレスや電話番号を削除していても、同級生ということから連絡を取ろうと思えばいくらでも伝手はある。
術後、里香から再度アプローチされたら、はたして涼介は断りきれるだろうか。
そう考えると真弓は冷静に考えることが難しくなっていく。
それでも聞いてしまった以上、何か言わないとこの話は終わらない。許すか、許さないか、ということの前に、こちらも言いたいことを言わないと、なんだか言いくるめられて終わりのような気がしてイライラする。
真弓は何度もため息を吐いたり深呼吸をして落ち着こうと試みるが、目の前の涼介がそれを黙って受け入れているのを見ると、その涼介の態度に反比例して真弓の冷静さはどんどん欠けていく。
なぜ自分がこんな思いをしなくてはいけないのか。
真弓はマグカップから手を離し、両手を合わせてぐっと握りしめ、涼介を睨みつけた。
それでも涼介は真弓から出てくる言葉を待っているのか、それ以上の言い訳もせずただじっと真弓を見ている。
よし。口汚くなるかもしれないけど、言いたいことを言ってやろう。その権利はあるはずだ。
怒りと自制のバランスが崩れた真弓は、なかばヤケになって思いつくままに話し始めた。
「本当はずっと前から菅野さんとそんな関係だったんじゃないの?」
「いや、本当に男女の関係なんてなかったし、僕の方も連絡先を消したからあの日から会ってもいないし話もメールもしてない」
「へえ。でもさ、はっきり言って涼介さんって仕事のストレスを性欲に全振りしたような人だったじゃない。それなのに私とはあの日以降してないなんて信じられないわ」
「ああ。自分の性欲の強さはよくわかっていたけど、でもやっぱり真弓以外とはしたくなかったし。でも真弓は僕を許してくれなかったから、あの日からずっと禁欲生活だ。だけど、仕方ないと思っている。だって、未遂とはいえ真弓の信頼を失ったわけだし······それでも真弓は夫婦でいてくれるから、それだけで良いと思って我慢した」
「でも、湯上さんと菅野さんと三人で会ったら、その帰りに菅野さんとまたホテル行ったりできるじゃない」
「菅野は············菅野は死んだよ」
「え?」
「あの数年後に再発したらしい。······葬式の時におばさんが話していたのを湯上が聞いてきたんだけどね。菅野、田舎に帰って放射線治療の後手術もして、経過観察していたらしいんだけど、手術の二年後に元の会社に復職するからって病院の紹介状をもらって実家を出たらしいんだ。だけど、それから四年後に群馬の温泉旅館から倒れて入院しているって連絡が実家に来たんだって。おばさんが急いで教えてもらった病院に行ったら、再発していて、もう手遅れだったって。おばさんが行った時には転院する体力もなくて、そのすぐ後に亡くなったらしい」
「······何で群馬の温泉旅館に」
「ああ、菅野がたまたま新聞に入っていた旅行代理店のチラシを見て旅行で行ったのが最初らしい。部屋に風呂がついている旅館を選んで一人で行ったんだって。でもその温泉街のあちこちでバイトを募集していたからその足で住むところを決めて、一度実家に戻って病院の紹介状をもらったりして、復職するって嘘をついて家を出て、それからまた群馬に行って仲居のバイトと土産物屋のバイトを始めたんだって。菅野がおばさんに話した経緯とそこで働き始めた時期をみると、前職には復帰しなかったみたいだ。おばさんが、そんなに家を出たかったのかって落ち込んでいたらしい」
真弓は、それは違う、と心の中で反論した。
里香は真弓が事故に遭ったところを見た。
しかしその後真弓がどうなったのかは、涼介の連絡先を消去した後だったから知りようがなかったと思う。
真弓はあの事故の直後から意識がなくなったため、事故現場がどんな状況だったのかわからないが、きっと里香にはかなりの衝撃になっただろう。
浮気をしてもしていなくても、真弓は自分の夫がラブホテルから出てきたところを見て、その場から逃げるように自転車をこいで事故に遭ったのだから、里香が自分が事故の原因だと思っても不思議ではない。
しかも里香自身も闘病生活に入り、気持ちは落ち込んでいたはずだ。
生きるために治療に向き合うはずだったのに、誰にも言えずにいる時間は心を蝕んでいったと想像でき、真弓はまるで自分が悪いことをしたような気持ちになった。
あの時逃げずに話を聞いていたら、里香はきちんと闘病生活を送って再発してもすぐに発見できていたかもしれない。
自分の事故の場面は、里香も見ていただろうから、きっと長く罪悪感を持っていただろう。
そして真弓が涼介と里香を見て逃げ出したのと同じように、里香は言い訳もできず治療に専念している自分の現状から逃げたのだろう。
真弓はそう想像し、あの時の自分の行動を悔やんだ。
しかしその一方、あの時の自分は全てにおいて被害者だったとも思い、やるせない気持ちにもなる。
そんな真弓の心の葛藤を察したのか、涼介は、『ちゃんと断らなかった僕が悪かったんだ』と視線を落として言う。
それはそうなんだけど······と真弓は思ったが、それでも自分の短絡的な行動に後悔してしまう。
無言で俯いた真弓に涼介は、『そういえば』と思い出したように言葉を続けた。
「湯上が菅野の葬式に行った時、おばさんから遺品整理をしていたら僕宛の手紙を見つけたから預かってきたって渡されてね。でも封筒の中を見たら真弓宛の封筒が入っているだけで······もちろん開封せずにそれを真弓に渡したけど、やっぱり忘れているよね」
あの事故からの記憶が全くない真弓は、手紙と言われても何も思い出せない。
しかし、真弓宛ということは、あの事故の後に書かれたものだという想像はできた。
中身はきっと言い訳とか謝罪とかだろう。
しかし、それを書いている時の里香はどんな気持ちだったのだろうと思うと、既に許すと言う相手はいないけど読まなくてはいけないと心の中がザワザワした。
自分の性格上、読まないまでも捨てていないだろうと思った真弓は、ガタンと椅子を鳴らして立ち上がると自分がしまい込みそうな場所を探し始めた。
そういう物を隠すなら、きっと他の手紙類と一緒にしているだろう。
カードの請求明細のようにしばらく後に廃棄するようなものではなく、きっと年賀状とかと一緒に。
事故から二十六年経っているらしいから、きっと年賀状はそれなりの量はあるはずだ、と考えながら真弓は寝室のクローゼットの扉を開けた。
コートや上着などが掛かっている下に、持ち手つきの紙袋が二つあるのを見つけ、中を見るとそれはやはり保管してある年賀状の束だった。
真弓は年別に束ねてある年賀状を一束ずつ取り出し、保管されているのが年賀状だけなのか確認した。
一つ目の紙袋にはなかった。
しかし二つ目の紙袋の底に白い定形の封筒があり、表面に“市ヶ谷真弓様”とある。
封筒の裏を見ると“菅野里香”とあり、未開封の状態だ。
涼介も近くに来てその様子を見ていたが、真弓は涼介を一瞥もせずベッドに腰掛け開封する。
ずっとしまい込んでいたせいか、日焼けすること無く真っ白な封筒から綺麗に四つ折りされた便箋を抜き出すと、真弓は読み落としの無いようにゆっくりと読み始めた。
中身は、たった今涼介から聞いたことと同じで、他には謝罪が繰り返し書かれている。
平成十年八月 菅野里香
と締めてあり、乳癌治療の流れがわからないまでも、まだ治療を開始したばかりに書かれたものだと思った。
そして、何度読み返してもどんなに意地悪に受け取ろうとしても、その文面からは自分勝手な考えで涼介を巻き込んでしまった後悔と真弓に対しての心からの謝罪しか読み取れず、里香がどんな気持ちでその後生きていたのか、と考えてしまい文面が涙で滲む。
書かれた日付はあの日から三ヶ月後でも、遺品から出てきたということは出すことを躊躇ったということで、そこにも里香の苦悩を感じた真弓は、あの時の自分の行動を心の底から悔いた。
真弓は、確かにあの時は二人の前から逃げ出したいとは思ったが、里香に命で償えとまでは思っていなかった。
あの時、せめて事故後に涼介の話を聞いていたら、里香と涼介が会うことは許せなくても、里香は今でも生きていたかもしれない。
真弓は自分が間接的に里香を死に追いやった気がして、涙がポロポロと零れだす。
我慢しようとしても涙を止めることはできず、しかし泣き顔を涼介に見られるのに抵抗を感じた真弓は、ベッドに倒れ込み枕に顔を埋め声を殺して泣いた。
死んでほしいとは思わなかったし、それは今でも思っていない。
それなのに、どうしてこんなことに。
真弓は押し潰されそうな思考の中で、『もしあの時に戻れたら、こんな後悔なんてしないようにできるのに』と、気持ちの逃げ道を見つけたが、もう既に終わったことだと再度後悔し泣き続けた。