5.嘘か真実か
事故から四日経った日、涼介は会社を休んだ。
麻央を連れ、真弓の母と一緒に真弓の入院している病室に入ったのは午前十時。
家族だけなら午前九時から夜二十時まで付き添いが許されている病院なので、麻央の朝の世話を終えてから三人でやって来た。
「真弓、おはよう」
事故から四日経ったが、真弓の意識は戻らない。
涼介が声をかけた今も、真弓は瞳を閉じたままだし口も動かない。
「お義母さんと麻央もいるからね」
それでも涼介は普段通りを心がけ、ベッドサイドに置いた椅子に座り言葉をかけ続ける。
「ほら、真弓ちゃん。麻央ちゃんは今日も良い子だよ」
真弓の母がベッドを挟んで涼介の反対側に同じように座り、麻央を真弓の隣に寝かせる。
麻央を連れてきたのは事故以来初めてだった。
医師から許可を得て連れてくることができた。
病院に到着するまで寝ていた麻央は、ベッドに寝かせられた時に目を覚まして、『うぁー』『んぶぅ』とご機嫌で声を出す。
すると、真弓の瞼がピクリと動いた。
ほんの一瞬のことだったので、涼介は願望が見せたものかと思ったが、再度麻央が声を出すと今度は口元が少し動いた。
真弓の母もそれを見逃さず、『真弓ちゃん?起きた?目が覚めた?』と声を掛け、真弓の反応をうかがった。
すると片目が少しだけ動き、続いてもう一方の瞼も少しずつ開き始めた。
真弓はボンヤリと半目を開けた状態で、まだ頭の中は覚醒しきっていない様子だった。それでも真弓の意識が戻ってきたことに涼介も真弓の母も喜びが溢れ出し、『真弓っ』『真弓ちゃんっ』と、まるで真弓の意識を引っ張り上げようとするかのように名前を呼んだ。
その呼びかけに反応し、真弓は視線だけよこして声の主を確認し、最後に真弓のすぐ横にいる麻央を見て、『麻央』ととても小さくかすれた声を出す。
「そうよ、麻央ちゃんよ。今日も良い子だけど、ママがいないと寂しがるわ。真弓ちゃん、麻央ちゃんのために起きてちょうだい」
真弓はその言葉を聞きながら、少し顔を麻央に向け、『麻央』と呼びかけた。
声はかすれほとんど音は聞き取れなかったが、麻央にはちゃんと伝わったのか、『きゃ、きゃ』と返事のように声を出す。
その姿に涼介は、真弓が助かったのだと強く感じ、安心するとともに体の強張りが解けた気がした。
その後医師の診察を受けたが、今のところ心配していた後遺症の症状は見られないことから、一般病棟へ移動しもうしばらく入院することになった。
真弓の左腕は骨折している。
四日間意識が戻らなかったが、それでもこの程度ですんで良かったと思うべきなのだろう。
もうしばらく入院は続くが、真弓が戻ってきてくれたことに涼介はようやく安堵した。
涼介も真弓の母も事故の話はしなかった。
事故の恐怖を話題にするのを避けたのだ。
真弓も事故の話をしようとはしなかったので、それで終わりにしたつもりだった。
土曜日の午後、真弓の友人であり、真弓のバイト先である輸入雑貨店の店長が見舞いに来た。
記憶にも後遺症が見られない真弓は、やはりこの再会を喜んでニコニコと嬉しそうにしている。
涼介も話の邪魔にならない位置で二人を見守っていたが、ふいに友人から振られた疑問に体が硬直してしまった。
「ねえ真弓、どうしてあそこで事故に遭ったの?いつも使う道じゃないじゃない。あの交差点に行くまでの道って、ほら、あれだからって避けていたわよね」
あれだから、というのはラブホテルが向かい合って建っているということだろう。
四人部屋で他にも入院患者がいるこの状況で、ラブホテルということを誤魔化したのだろうが、今まで誰も触れてこなかった話題に涼介は思わず息を呑む。
真弓をチラリと見ると、天井を見上げ数秒何かを考えていた真弓は、『憶えてないの』と一言だけ答えた。
その真弓の顔に表情はなく、涼介には真弓の答えがどんな意図があるのかわからない。
本当に憶えていないのか、もしくは友人には言えないと思って出た嘘なのか。
目の前で友人から、『ええ?本当に憶えていないの?やだぁ、記憶喪失ってやつ?』と揶揄われても、『あれ、これが記憶喪失ってやつなの?』などと軽く笑って答えている真弓を見ながら、いつかきちんと話をしないといけない、ということは強く決意した。
事故に関することを忘れたと言ったこと以外、これといった変調もなく真弓は無事に退院し、涼介は事故直前の話をするタイミングをはかっていた。
ホテルから出てきたところを見られたのだから、浮気をしていないと言っても信じてくれないだろう。
激昂した真弓から叩かれるかもしれない。
それならせめて骨折した腕が良くなってからにしようか。
なかなか切り出すことができず、涼介はそうやって話を先延ばしにしていた。
真弓も話題にすることがなかったので、涼介はしばらく現実から逃げていた。
事故から三ヶ月経ち、真弓の骨折もすっかり治って事故前と同じ生活が戻ってきた。
しかし、涼介はふとした時に違和感を持った。
事故以前ならテレビを見る時、ソファに座る涼介の隣に座っていたのにダイニングチェアに座っているとか、ベッドに寝る時も涼介に背を向けて寝るとか、ほんの些細なことだが、それらが積み重なることでそこに真弓の意図を感じられる。
やはり憶えているのだろう。
そう思った涼介は、今まで話題にしなかった事故直前の話をすることを決めた。
土曜日の昼過ぎ。
麻央が寝たことを確認した涼介は、話がある、と真弓の手を引こうとした。
そしてその手をパッと振り払われ、それにより確信した涼介は、『事故直前の話なんだけど』と真弓の返事も聞かずに話し始めた。
「あの時のこと憶えているよね。今まで勇気がなくて説明できなかったけど、きちんと話したいと思っている」
「わ、私は何も憶えてないの。何であの道を通ったのか、何で何も憶えていないのか」
真弓は視線を落としそう言ったが、涼介はそれでも聞いて欲しいと話を強引に続けようとした。
「あの事故の直前、僕は━━」
「待って、ちょっと待って、頭が痛い」
「え?」
「痛い。少し休みたいの」
真弓が手でおさえたのは左側頭部で、そこは事故で打ったあたりだったため、涼介は話を続けることをためらった。
その一瞬の隙に真弓は寝室へと行ってしまい、涼介はこの日は話すことを諦めた。
しかし説明を諦めたわけではなく、翌日、そしてまた時間があり、真弓の体調の良さそうな時に何度か説明をしようと試みた。
しかしその度に真弓から拒絶され、『忘れたことは思い出さなくても良いことなのよっ』との真弓の叫びに近い言葉を聞き、涼介は説明を諦めた。
真弓は事故以降、涼介に触られることを拒絶した。
麻央の幼稚園や学校での行事で、手をつなぐことがある時は他の夫婦と同じように行動したが、それ以外ではほんの少しの接触も避けられた。
これは罰なのだろう。あの時、里香へ同情なのか罪悪感なのかわからない気持ちだったが、どんな理由であれ里香を抱こうとしたことへの。
涼介はその罰を受けることにし、ただ真弓と夫婦でいられることだけを望んだ。
そこに夫婦としての行為はなくとも、真弓と麻央と家族でいることのために、真弓の意思を受け入れることにした。
麻央が大学卒業直後に結婚してしまうと、家の中はとても寂しくなった。
真弓は相変わらず輸入雑貨店で働いているし、涼介も同じ職場で働いている。
涼介の仕事はデスクワークになったが、それでも家に帰る時間はあまり変わらない。
真弓が作った夕食を、二人でテレビを見ながら食べる。
この二十数年で二人の距離は確立されている。
会話はある。
麻央が家を巣立ったが、麻央が産んだ楓ちゃんのことが二人の楽しみになった。
楓ちゃん、もうお座りできるようになったって。
楓ちゃん、もう固形物も食べられるって。赤ちゃん用のお菓子買おうかって言ったら、少しだけにしてよって麻央に怒られちゃった。
もうすぐ楓ちゃんの誕生日ね。プレゼントは何を贈ろうかしら。
もうすぐ七五三ね。野木さんとは写真館で合流ですって。楽しみね。
その七五三の写真館に向かう途中で、まさかまた真弓が事故に遭うとは思わなかった。
そしてその事故で、この二十六年間をスッパリと忘れ去ってしまうなんてことも信じられなかった。
真弓の様子から、どうやら本当に前回の事故以降の記憶が無いらしいとはわかった。
前回の事故後、涼介が何度か説明をしようとした時には話をはぐらかす行動をした真弓だったが、今回はそれがない。
何を言っても初めて聞いたという感じで、何より真弓はスマホすら覚えていなかった。
退院して無事帰宅した時、この日が退院の日だと涼介の両親に伝えてあったからか、涼介の母親から様子を伺う電話が来た。
涼介のポケットから着信音がなった時、涼介はいつものようにタップして電話を受けたが、なんとなく真弓を見ると、じっと涼介の手にあるスマホを見ていた。
通話を終えると、『それ、何?』と聞く真弓に、二十六年前はスマホはなかったことを思い出す。
携帯電話に機能がいろいろついたやつ、とざっくり説明し、スマホに保存されている楓のムービーを見せると、『ビデオ?なにこれ、凄い』と驚きながらも興味津々な様子の真弓を見て、二十六年前のあの日からの記憶が消えた真弓と、もう一度夫婦関係を構築するのだと覚悟をしたのだった。