4.抱くか抱かないか
『会社辞めて実家に帰るからさ、帰る前に三人で会おうよ』
ある日、帰宅直前にかかってきた携帯電話に出た涼介は、唐突に話し始めた里香の言葉に驚いた。
田舎に帰る理由を尋ねてもその時に教えるとしか言わず、もしかすると実家から帰ってこいと言われているのかもしれないな、と漠然と思った涼介は、里香の都合に合わせ会う約束をした。
里香は三姉妹の末っ子で、上の二人は既に結婚し子供もいる。
三十歳になる里香は、未だに男の影がない。
里香の実家はそれを心配しているのかもしれないと思ったが、それを口に出すのは憚られた。
会うのは翌週月曜日。
その日の新幹線の最終チケットを買っているから、できれば早いほうが良いと言われた涼介は、後輩に夕方十六時からの修理依頼をなんとか受け持ってもらい、会う約束の午前中には里香に約束の時間を伝えた。
待ち合わせ場所は、涼介のマンションの最寄り駅近くにある喫茶店。
今まで会うのは居酒屋ばかりだったが、以前麻央を見に来た時に駅前にあった喫茶店が気になっていたから行ってみたい、と言われ、そう言えば自分も入ったことがなかったことに気がついた涼介は、そこにしようと頷いた。
朝、湯上と菅野の三人で会うから夕食はいらない、と真弓に言って出てきたが、食事をするのは早い時間になりそうだ、と考えながら予定の時間から少し遅れて喫茶店に着いた。
間口は狭く奥に長いその店は、店の外からは店内がよく見えない。
カラン、とドアベルを鳴らして店内に入ると一番奥に里香が座っていて、涼介を見つけ軽く手を振った。
「悪い、遅くなった。ああ、でも湯上もまだか?」
湯上は銀行員だが、外回りをしているため就業時間内でもお茶を飲むくらいの時間はとれる。
この日もそんな感じで、後で別の店で合流するのかと思ったのだが、『湯上は誘っていない』との里香の言葉に、『なんで?』と涼介は深く考えること無く尋ねた。
「じつはさ、私、癌が見つかってさ。実家に帰ってしっかり治療に専念しようと思って会社辞めたんだよね。で、その前に涼介だけに伝えたいことがあって」
「え?癌?手術するの?」
「うん。乳癌でさ、右胸は無くなっちゃうんだって」
サラリと言ってのける里香に、涼介は言葉が出なかった。
思いつく慰めの言葉など里香に言って良いのか、ただ今は話を聞いて、不安であろう気持ちをとにかく聞いたほうが良いのかわからなかったからだ。
そんな小さな葛藤をしている涼介の気持ちに気がついたのか、里香は、『もうね、前向きに治療に専念しようって気持ちにはなっているんだよ。ただね、ひとつお願いがあるんだ、涼介に』と周りに聞こえないように声をひそめ、里香は少しだけ言いづらそうに言葉を何度か飲み込んでいた。
「何だろう。僕にできることなら言って」
「うん、ええっとね······」
里香は周りを気にしながら涼介に顔を近づけ、『手術の前にね、思い出が欲しいの』と早口で言った。
「思い出?でも今夜には帰るんだよな」
「うん······あの······癌治療は頑張ろうと思っているんだけど······右胸が無くなるのが、なんというか······辛いっていうか······それでって言うのもおかしいんだけど、今の、まだ手術前の体をね······涼介に覚えていてほしいというか」
コーヒーカップを見つめたままそう言う里香を、涼介はじっと見ながら話を聞いていたが、一度では言われた内容を理解できず、『え?どういうこと?』と聞き返す。
その涼介の反応に一瞬言葉を詰まらせた里香だったが、覚悟を決めたように涼介の顔を見て話を再開した。
「私、今まで彼氏とかいなかったじゃない?だからぶっちゃけ処女なんだよね。なのに胸が無くなるって思ったら、なんていうか、女として欠陥を抱えてしまうって思ったっていうのかな。だから、せめて処女を失ってから治療に入りたいって思ったの。だから······涼介、私のこと抱いてくれないかな」
「え、いや、でも、僕じゃなくて菅野の好きな男とかに━━」
「だから涼介に頼んでいるの」
里香が真面目な顔で言うものだから涼介も真面目に聞いていたが、その内容を理解して思わず腰が引けた。
今まで涼介は里香を恋愛の対象して見たことはなかった。
女性ではあるが、何でも話せる気のおけない大切な友人。そう思っていたのに、どうやら里香はそうではなかったと言われ、どう言ったらこの話を撤回してもらえるか悩む。
涼介は妻の真弓のことを結婚前と同じくらい今でも愛している。
里香の置かれた状況に同情はするし完治してもらいたいとは思うが、だからといって里香を抱くのは真弓に対する裏切りになる。
いや、真弓だけではない。
真弓に対する自分の感情に対しても裏切り行為だ。
古くからの友人の頼みとはいえ、これはしてはいけないことだ。
だから、里香が“恥をかいた”と思わないように、言葉を選んで断らないといけない。
そう考え、なんと言うのが良いのか言葉を探していると、里香が畳み掛けてきた。
「こんなお願いをするんだから、私だってそれなりに覚悟をしてきたの。たった一度だけで良いし、涼介の家庭を壊すつもりもない。涼介が奥さんのことをすごく大切にしているのは知っているしね。だけど、少しだけ······その、抱いてもらったら、それを糧に頑張れる気がするんだよ」
「いや、でも」
「もちろん、こんなお願いをしたんだから、もう二度と会わないって覚悟もしてる。でも一度だけ······最初で最後だから、こんなお願いするのは。あっ、そうだ。携帯に登録してある連絡先を削除するよ。過去の履歴も消せば連絡取れなくなるし、もう私から誘うこともできなくなるわ」
里香はそう言ってバッグから携帯電話を取り出し、涼介の目の前で何やら忙しく指を動かす。
そして削除と表示された画面を涼介に見せ、『もうこれで私から涼介に連絡できないわ』と力なく笑った。
その里香の寂しそうな表情に、涼介はなぜか罪悪感を感じてしまった。
一方的に要望を言い、勝手に一人で連絡先を消去したのは里香だが、その切羽詰まったような口ぶりから、かなり精神的に追い詰められているのだろうと推測でき、好きな人と結婚して子供にも恵まれ、毎日が充実している自分がズルいと言われているような気がしてしまう。
目の前では里香が携帯をいじって、一心不乱に履歴を消去している。
その悲壮感すら感じられる里香を見て、『たった一度なら。それだけで頑張れるというなら』と涼介はポツリと口にした。
ハッと自分の声に驚いたが、驚いたような顔で自分を見る里香を見て覚悟を決めた。
腕時計を見て時間を確認する。
十六時四十分過ぎ。真弓はこの時間、家にいるはずだ。この店から歩いて十分程の場所にあるラブホテルに行こう。
本当なら自宅の最寄り駅から徒歩圏内のホテルなど避けるべきだったのだが、涼介は覚悟がブレないうちにしなくてはいけない、とおかしな思考に陥っていたのだろう。
ガタリと椅子から立ち上がりレジで精算すると、後ろから里香がついてきているかも確認せず歩き出した。
とにかく早く。
誰かに見られる前に。
ただひたすらそう考えながら歩いたが、ホテルの自動ドアが開いた時、なぜか急に冷静さを取り戻した。
ああ、だめだ。
そう強く思って歩道に戻ろうとしたが、後ろから追いついた里香に押され建物の中に入ってしまった。
里香は、『歩くの速すぎ』と言いながらゼイゼイと息を切らしている。
涼介はそんな里香を見て、やはりだめだとの答えに行き着く。
「ごめん。やっぱりだめだ。こんなの良くない、誰にとっても」
「待って、ここまで来たのに?」
「だって、こんなのだめだ。僕も菅野も絶対に後悔する」
「しない。私は後悔なんてしないよ。ねえ、お願い。お願いだから━━」
「ごめん」
涼介は急いでこの場を去ろうと踵を返したが、ホテルの入り口を隠す塀から出た所で前方から来る自転車に気がつく。
何の気なしに顔を見て、その自転車に乗った女性と目が合って咄嗟に呼び止めた。
「真弓っ!」
なぜ、この道にいた。
どうしてスピードを上げて立ち去ろうとしている。
涼介はすぐに呼び止め、ここにいた理由を言わないといけないと焦り走って追いかけたが、真弓は自転車をこぐスピードを緩めない。
前方の歩道の信号が点滅し始めたのが見え一瞬追いかけるのを諦めかけたが、それでも涼介はすぐに言い訳をしなくては間に合わないと思い、走り続けた。
しかし真弓が交差点に入ったその時、直進レーンにいたはずの車がウインカーも出さずに突然右折したのを見る。
あっ!と思った時には真弓が自転車から投げ出され、体の左側からアスファルトに落ちていく。
真弓の身に起きたことを映像として目に映ってはいたが、涼介は何も考えられずに真弓の元へと向かった。
歩いているのか走っているのかもわからない程狼狽えながらも、なんとか真弓の所に着くと、真弓の傍に跪き顔を見る。
真弓は瞳を閉じ、全身の力がなくアスファルトに横たわっていた。
「真弓っ、真弓っ」
真弓の腕の中には軽く抱え込まれた麻央が泣いている。
周りでは警察を呼んだり、ドライバーに怒鳴っている人がいたりで騒然としていたが、真弓は静かに横たわったままだった。
十分後には到着した救急車により病院に運ばれた真弓は、四日意識を取り戻さなかった。
意識を取り戻す前に、外傷性くも膜下出血ということで処置が行われた。
そんな状況だったので病院に麻央を連れてくることはできなかったが、真弓の実家から真弓の母が手伝いに来てくれたため昼は麻央の面倒を見てもらった。