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3.離婚か続行か


 真弓の翌日の目覚めは悪かった。

 涼介と里香の浮気を認めたくなかったために逃げ出した。

 そこまで考えて泣いてそのまま眠ってしまったため、目元はバリバリだった。

 病室内にある洗面台で顔を洗い念入りに目元をこすったが、瞼の腫れはひいてくれなかったため、もう良いやと諦めることにした。


 午前中に退院の手続きのために涼介が来ることになっている。

 今回の入院にかかる費用は全て相手持ちだが、一度涼介が立替払いしておくのだと言っていた。

 

 涼介は九時過ぎには病室にやって来た。

 平日なのに、仕事は良いのだろうか、と思ったが、どうやら有給をあてているらしい。

 仕事はまだあの家電修理の会社だが、役職がついてほとんどデスクワークだ、と昨日涼介は真弓に話してくれた。



「会計してきたから、行こうか」


 涼介が、この入院のために用意した歯ブラシセットやタオルをバックに詰め、真弓に、『忘れ物はない?』と尋ねた。


 たぶん事故の時に真弓が持っていたのであろうバッグも涼介は手に持ち、病室内を最終チェックしてから二人は帰路についた。



 迎えは涼介の運転する車だ。

 やはり覚えのない車で、真弓はなんとなく落ち着かない。


「この車も、覚えていない?」


 涼介は信号で止まるとチラリと真弓を見て尋ねたが、やはり何も覚えていなかった。

 

「もう麻央も結婚したから、大きくない車でいいねって真弓の気に入った車を買ったんだけどな」

「それは······覚えていなくてすみません」

「はははっ。良いんだけどね」


 

 会話は続かず、気まずさをおぼえた真弓は窓の外の景色を見た。

 見知った建物もあるが、こんなところにこんな建物があったっけ?という知らないものも多く、まるで新しい街にいるような気持ちだ。

 

 あと十分くらいでマンションに着くだろうと頭の中で到着時間を計算していると、マンションへ向かう道とは違う方向へ車が曲がった。

 

「どこか、寄るの?」

「いや、真っ直ぐ家に帰るよ。麻央が幼稚園に入るタイミングで賃貸をやめて分譲マンションを買ったんだよ」

「へえ」


 あんな場面に遭遇していながら、意外に普通の家族をしていたのか、と真弓は驚いた。

 確かに何事もなかったことにしようと逃げたのだが、本当にそうなっていたことが信じられない。

 里香が田舎に帰ると言っていたから、もう終わったことだ、と涼介が言ったのか、自分がそう折り合いをつけたのか。

 どっちにしろ、自分の忍耐力の強さを初めて知った真弓は、『別れなかったんだ』と思わず呟いてしまう。

 とても小さな独り言だったはずなのに、涼介は聞き逃すこと無く、『やっぱり覚えていたんだ』とこちらも呟く。

 その言葉にカチンときた真弓は、『私にとってはつい最近の衝撃なんだけどね』と声を荒げた。

 その怒りのこもった声色に、『あっ、そうだよね。ごめん。ただ、真弓はあの事故の前後を覚えていないって言っていて、僕の話も聞いてくれなかったから』と慌てて弁解に入る。


 あの時真弓は見なかったことにしようと逃げたのだから、覚えていないことにして逃げきりをはかったのだろう。

 真弓が覚えていないと言うのに、涼介自ら、『浮気現場を見られました』などと言うはずもなく、真弓は知らぬ存ぜぬで押し通したのだと容易に想像できる。

 

 あの事故の時は真弓の妹の結婚が決まり、真弓の両親も住むという計画の元、妹の旦那さんが二世帯住宅を建てている真っ最中で、真弓が離婚して母子家庭となっても実家には戻れそうもなく、かといってアルバイトでは生計も難しいということから、涼介との離婚を回避するのに一生懸命だった可能性もある。

 

 とにかく、真弓は一九九八年から二十六年間の記憶がすっぽり抜け落ちているため、我が事ながらどんなことを考え結婚生活を続行したのかわからない。


 目撃した時は、日常が壊れるのが怖かったから必死に逃げたけど、事故の後はいったい何を考えてここまで一緒に生活してきたのか······

 苛つく心を抑えていると、車はスッと左折してマンションの敷地内に入っていった。


 駅に近いと思われるそのマンションが目的地だったのだろう。

 涼介が駐車スペースに止めると、『家に帰ってから話そう』とドアを開け後部座席に置いてあった荷物を取り出した。

 真弓も車から降り、涼介の後ろからマンションに入る。

 涼介がポストを確認すると、ピザのデリバリーのチラシ。

 平日とは言え、午前中は郵便よりもポスティングが多いらしい。

 涼介はチラシを指に挟み、エレベーターホールでボタンを押すと、『八階だよ』と斜め後ろに立つ真弓に教えた。

 

 エレベーターはすぐに一階までやって来て、二人は静かな箱の中で上階へと運ばれる。

 八階まではあっという間で、案内するように前を歩く涼介の後ろをついて歩く真弓だったが、やはり初めて来た場所のような気持ちで、ついキョロキョロと周りを伺ってしまう。

 そんな真弓の歩く速度に合わせるように、涼介は少しゆっくり歩いた。

 

 到着したのは八一六号室。

 鍵を開けた涼介が扉を開けたまま、『どうぞ』と真弓を中へと促した。

 真弓は少し頷いて玄関扉をくぐる。

 玄関は少し広めで、二畳くらいのシューズインクロークもあり綺麗に片付いていた。

 靴を脱ぎ揃え、廊下を二歩進む。

 左にドアがあり、開いていたため中を見ると、壁に向かってシンプルな机が置かれている。


「麻央の部屋だったんだけど、今は来客用の部屋だよ。といっても麻央も近くに住んでるから、ほとんど使っていないね」


 涼介が真弓の後ろで説明する。

 

「ふうん」


 真弓のそんな気の抜けた返事を気にするふうでもなく、涼介はその扉の反対側を指差して、『こっちの部屋が僕達の寝室』と言ってさらに奥へと歩いていく。

 僕達の寝室、ということは、一緒の寝室だったのか。

 真弓は、どれだけ自分の忍耐力が優れていたのか、と我が事ながら少し呆れた。

 

 涼介に続いて行くと、トイレ、風呂場等と軽く説明され、最後の扉がリビングダイニングだった。

 二LDK。

 部屋数は前と同じだったが、ここは角部屋でしかもベランダが広かった。

 窓からベランダを見ると、見覚えのある鉢植えのハーブが三種類。

 紫陽花も二種類見えたが、あれは以前と同じ物だろうか。

 どちらも直径が四十センチはあろうかという大きな鉢に、青々とした葉が元気いっぱい陽の光を浴びていて、高さもそれなりにある。

 他にも一つのプランターに土が入っているが、それには植物はなかった。

 

 ベランダの端には植木鋏やスコップ、如雨露、固形肥料も雨にあたらないように置かれていて、きちんと世話をされていたのだと見て取れた。


 

「コーヒーと紅茶、どっちにする?」


 ボンヤリとそれらを見ていた真弓に、キッチンから涼介が声を掛ける。

 真弓は、『紅茶』と答えながらキッチンに向かうと、涼介は、『座っていて』と言いながら湯を沸かし、マグカップやティーポットの用意をテキパキとした。

 家族だけならティーカップじゃなくても良いよね、と結婚してすぐに話た覚えがある真弓は、そのルールがずっと続いていたことにも驚く。

 

 本当に何もなかったふりをして、表面上は平穏な日々を過ごしてきたのだな。

 そう思うと真弓はまた少しずつ心がささくれだつ。

 自分が逃げることを決めたのに、それでもそれを受け入れた涼介が許せない。

 

 

 

 ダイニングテーブルにコトリと置かれたマグカップは、結婚してすぐに買った涼介と色違いの物だった。

 使い古され模様の色が薄くなっているが、それが二十六年という歳月を物語っているようで、真弓は頭を抱えたくなる。

 自分の覚えていない自分が自分の首を絞めているようで、息苦しい。

 

 そんな現状を少しでも打破するために話し合いは必要だろう。

 真弓はそう考え直し、マグカップが置かれた席に座る。


 紅茶は、真弓が好きなアールグレイだった。

 そう言えばさっき見た紅茶の入った缶も、真弓が好きな物だった。

 

 そんなところが本当に嫌。

 真弓は、真弓だけしか見ていないような気にさせる涼介を軽く睨む。

 突然睨まれた涼介は、しかたないな、という感じで苦笑いをしたが、それすら今の真弓には気に障る。

 真弓の正面に座った涼介が、『何から話そうか』と真弓に尋ねるが、そんなことはこっちが聞きたいと苛立つ真弓は、物言わずただ睨む。

 

「ええと、じゃあまず何で前の事故の後、記憶が無いというのが嘘だと思ったかというところかな」


 そう涼介が話し始めた。

 真弓は、それ以前に浮気の謝罪は無いのか、と思ったが、とりあえず覚えていないふりをしたのは真弓だったらしいので黙っていた。

 そんな真弓の心の中などわかるはずもない涼介は、記憶を手繰るようにゆっくりと話を進める。


「まずね、あの事故の後から真弓は僕との接触を拒むようになったんだ。その、体の接触をね。麻央が一緒にいる時は手をつないだりしてくれるけど、麻央がいない二人きりの時は指先すら拒絶した。だからそういうことなんだろう、と思ったんだけど、あの時のことを話そうとするととにかく嫌がるんだ。覚えていないのはほんの少しの間のことだけで、思い出さなくても問題ない、とかその話をされると頭が痛くなる、とか言って」


 真弓は、記憶喪失の人が思い出そうとすると頭が痛くなる、なんて小説で読んだことがあるから、実際そうなるのかはわからないけどそうやってはぐらかしたのだろう、と自分の行動を想像し、なんだか安いドラマの女優のようで恥ずかしくなって視線を紅茶へと移し、そんな心情が涼介にバレないように少々ごまかす。


「だけどそれ以外は普通の夫婦だったから、僕は真弓の気持ちに甘えたんだよ。離婚したくなかったから」

「······離婚したら、麻央の親権は私になるもんね」

「そもそも僕は真弓だけしかいないんだけどね」

「菅野さんは?ホテルに行くけど気持ちは無かったとか言い出すのかな」

「幼馴染としての友情しか無かったよ。本当に。あんなところを見られたのに信じてもらえないかもしれないけど、本当なんだよ」

「じゃああれ?。友達は友達でもセフレってやつ?」

「違うって。本当に友情だけ。あの時だって······いや、本当はあんなホテルに入っちゃいけなかったんだってわかってる。だけどあの時、部屋には入ってない。建物には入ったけど、部屋には入らないですぐに出てきたんだ。そうしたらその時に真弓と······」

「でも、ホテルに入るってことは、ヤル気だったってことじゃない。立派な浮気よ。それとも、ヤラなければ浮気じゃないの?」

「あの時は浮気というよりも菅野に同情したんだ。いや、同情というか、励ましたいって気持ちが強いというか」

「はあ?激励でホテルに行くの?」

「いや、えっとまず、あの時のことを説明するよ」


 涼介はマグカップから手を離し、真弓の目を見た。





二十六年前にセフレという言葉があったのか······

もしかすると無かったかも······

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