表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/8

2.幼馴染か愛人か


 翌日、真弓はMRI検査を受けた。

 体は打ち身と擦り傷程度だったが、頭を打ったことと記憶がすっぽり無くなっていることから、この検査で原因がわかるのだろうか、と期待しながら受けたのだが、脳の画像からは異常が見られず、逆行性健忘かもしれない、と医師からは伝えられた。

 涼介も真弓の隣に座り、医師の話を逃さないように聞いていたが、医師から、『わかりやすく言えば、ドラマとかで記憶喪失といわれるあれです。二度目の事故ですし、外傷性ではないようなので心因性のものかもしれませんね』と言われると、『そう······ですか』と俯いた。

 

 心因性のもので事故に繋がることと言えば、真弓が自転車に乗っていた時のあれしか思い浮かばない。

 真弓はそれに気がついたが、涼介もそれに思い至ったのだろう。

 俯く涼介は、明らかに顔色が悪かった。


 念の為にもう一泊することになった真弓は、自分ももう一泊すると言う涼介を家に帰らせ、個室のベッドでゆっくりと記憶を辿っていった。

 真弓にとってはつい最近の嫌な記憶を。





 あの日、真弓は産休を取るまで働いていた職場に娘を連れて顔を出していた。

 友人が店長、その友人の父親がオーナーを務める輸入雑貨店で、真弓は結婚を期に前の仕事を辞め、この店でお世話になっていた。

 結婚するまでは涼介と同じ職場で、二人は職場恋愛だ。

 

 大手家電メーカーと契約し家電を修理するその会社は、社内でエンジニアと呼ばれる修理技術者も多く、また、修理の電話受付をする女子社員もそれなりにいた。

 電話受付はパートがほとんどだったが少人数の正社員もいて、真弓は正社員だった。

 少し前まではバブル景気で日本中浮かれていたらしい。

 しかし真弓が大学を卒業する時にはバブルははじけ就職氷河期で、やっと入社できた会社。

 この会社の新入社員が電話受付をするのは以前からの決まりだったらしいが、真弓は客からの修理依頼に何度か泣かされた。


『さっさと来い!不良品つかませやがって!』


 最初に電話口で怒鳴られた時など、驚きと恐怖で言葉に詰まってしまった。

 昼食時にはパートの女性が、『受け答えは懇切丁寧にって指導されるけどさ、良いのよ、サラッと聞いとけば。声色だけ申し訳無さそうにして、状態を聞いてさ。女優よ。あ、声優か』『社員は一年で修理受付からは異動になるからそれまでの辛抱だよ』と慰められた。

 

 それで良いのか、という疑問も多少あったが、怒鳴られることが怖かった真弓は、アドバイス通り本来の感情を押し殺し、電話口では申し訳無さそうに対応する日々が続いた。

 

 辛い日々もなんとか耐え、二週間後には労務に異動となったある日、ペットのマルチーズが死んでしまった。

 同居している大学生の妹が、六歳年上の彼氏と別れた時に手切れ金代わりにもらった、と突然連れてこられたそのマルチーズ『梅之助』は、その時は既に十三歳と高齢だった。

 真弓の妹の彼氏は妹の他に本命と付き合っていたそうで、そっちと結婚するからと別れ話をされたらしい。

 妹は彼氏のマンションに何度も遊びに行っていて、そこで梅之助とも仲良くなっていたのだから、彼氏がどういうつもりだったのかはわからない。

 本命とバッタリ、なんて考えなかったのか。

 それでも別れた後に、『私には梅之助がいるから人間の男はいらないよー』と梅之助をかまうことで元気になっていく妹を見て、まあ良いか、と真弓も一緒に梅之助を可愛がった。

 その梅之助が十五歳で旅立った。

 妹と一緒に看取ったが、翌日の業務に支障が出るほどとは想像していなかった。


 今頃、ペット専用の火葬場で焼かれているのか。

 骨は実家の庭に埋めると言っていたが、マルチーズなんてただでさえ小さいのに、骨になればどれだけ小さくなってしまったのか。

 修理依頼の合間に考えることはそんな事ばかりだった。

 

 いつものように電話が鳴り、いつものように受けたはずだが、『このやろー!リモコンが動かねえじゃねえか!』といきなり怒鳴られたことで、久しぶりに真弓の心が固まってしまった。

 何とか詳しく聞き出したが、結局最後に、『てめえ、なんて名前だ。あ?興梠?ふざけた名前しやがって!覚えたぞ!今日中に直らなかったらわかってるだろうな!』と脅しともとれる言葉で電話を切られ、堪えきれずに机に伏せて泣いた。

 それでも、エンジニアに連絡をして修理依頼を伝えないと、本当に怖い人が来るかもしれない、と思い、真弓はその客の地区を担当するエンジニアを調べ『至急』とポケベルを鳴らした。


 すぐに電話がかかってきて状況を説明すると、そのエンジニアは、『これから行くところの近くだから、行ってみるよ』と答えてくれる。

 ほんの少し気持ちが浮上した真弓は、ブラックコーヒーを飲んで気持ちを立て直し、仕事に向かった。



『興梠さん?』


 退勤時間になってタイムカードを押すと、ニコニコと男性エンジニアが近づいてきた。


『さっきのリモコンのお客さん。午前中に奥さんとケンカして、奥さんが買い物に行くときにちょっとした嫌がらせのつもりでリモコンの電池を抜いて出たんだって。僕が着いたらちょうど奥さんが帰ってきてね、お客さんから電話の姉ちゃんに謝っておいてくれって言われたよ』


 胸にあるネームプレートには『市ヶ谷』とあり、ポケベルを鳴らした相手だとわかった真弓は、『わざわざありがとうございます』と頭を下げた。

 本来ならば順番に受け付けなくてはいけないのに、緊急ではなかったはずなのにすぐに行ってくれて、こうしてその後を教えてくれた市ヶ谷というエンジニアの優しさに、うっかり涙をこぼしてしまった真弓を、市ヶ谷は、『これだけ置いてくるから、待ってて』と言ってこの日の修理代金を事務室に渡しに行った。


 この日から真弓は市ヶ谷涼介と度々食事をし、一ヶ月後には交際することになった。


 

 真弓より二歳年上の涼介は、いたって普通の家庭で育った普通の男性だったが、とても優しくて声を荒げるところなど見たことがなかった。

 修理現場でもグチグチと説教されながら仕事をする、なんてこともあるようだったが、それに対しても、『お客さんも困っているからね』と言って笑い流すくらい温厚な人だった。

 デートの時も優しい。

 ただ、涼介の性欲が強いことには驚いた。


 付き合い始めて三ヶ月で体の関係も始まった。

 涼介は初めての時こそ一度で終わったが、涼介のマンションに遊びに行った時は真弓にずっと触れていて、翌日は二人とも休みだから泊まっていってと懇願され、それに了解しようものなら朝までコースだった。

 真弓は妹になんて言おうか、と頭を悩ませながらこっそりと帰宅することが何度かあったが、一度妹と涼介を会わせると、『涼介さん、すごく良い人だから逃がしちゃダメだよ』と応援されてしまい、真弓は妹から背中を押され、涼介の部屋でお泊りすることが多くなる。

 その応援隊長の妹が大学を卒業し、地元の県庁職員になるために妹と真弓との同居は終わったが、その翌月には涼介が妹の代わりに同居するようになっていた。

 そして同棲から三年。

 真弓は二十七歳の誕生日に涼介からプロポーズされ、半年後に結婚した。

 


 結婚を期に仕事を辞め、大学時代の友人が店長、オーナーは友人の父親という輸入雑貨店で販売員のアルバイトを始めたのだが、出産するために一時的にアルバイトを辞めた。

 しかし出産後はオーナー夫婦が子守をするから子連れ出勤して手伝って、と再三要請されていた真弓は、麻央と共に事故に遭った日、友人に会いに行っていた。

 

 あの日の朝、涼介から、『菅野が仕事辞めて田舎に帰るから、今日は湯上と三人で夕食を食べてくる』と言われた真弓は、オーナーの家ですっかりくつろいで帰りが予定より一時間ほど遅くなった。

 遅いと言ってもまだ明るい夕方の十七時前。

 しかし麻央をお風呂に入れてミルクを飲ませて、等と考えると予想の帰宅時間はギリギリで、駅からは裏道を自転車で帰ることにした。

 電車を降り、駐輪場の自転車を取りに行くのも足早で移動し、時々抱っこ紐の中ですやすや眠る麻央を確認しながら自転車をこいだ。

 この裏道は、少し行くと向かい合ってラブホテルが建っている。

 そのためか歩行者は少なく、道はかなりすいている。

 ラブホテルさえ通り抜ければ快適な道だが、時々ホテルから出てくる男女とすれ違い気まずいこともある。

 

 どうか誰も出てきませんように。

 

 そんな真弓の願い虚しく、下を向いて自転車をこいでいたにもかかわらず男女が出てきたのがわかった。

 まだ通り抜けるには少しだけ距離があり、見ないふりをして自転車をこいだ真弓だったが、『待って!』という女性の声につられて顔を上げてしまった。

 すると男性の腕をつかみ縋るようにしているカップルが目に入る。

 

『えっ?』


 思わず出た真弓の驚愕の声に、男性が真弓の方を見た。

 しっかりと目が合ったが、真弓は気が付かなかったふりをして自転車をこいだ。

 それまで以上にスピードを出す。

 

『真弓っ!』


 後方から聞こえる男性の声は、涼介だ。

 涼介の後ろにいた女性は涼介の幼馴染で、仕事を辞めて田舎へ帰るという菅野里香。

 湯上の姿は見えなかったと思う。

 

 この菅野里香という女性は二ヶ月前に、涼介と真弓が住むマンションに、赤ちゃんを見たい、と言って湯上と遊びに来たから真弓は顔を覚えていた。

 麻央を抱っこして、『可愛いなぁ。私も赤ちゃん欲しいなぁ』と言っていたが、あれはどういうつもりだったのだろう。


 

 なぜこの時間に二人でホテルから出てきた?

 湯上はどうした?

 そんな疑問を持ちながらも、見なかったふりをすれば何もなかったことになるかもしれない、と思い真弓は自転車を必死にこいだ。


 そして事故に遭った。


 

 

 誰もいない病室で一人で考えていると、やはり浮気をされていたんだろうと落ち込んだ。

 今にして思えば、あんなに自分を求めていた涼介が、妊娠中から産後五ヶ月になっても真弓にセックスを求めてこなかった。

 初めての育児で眠い日が続いていた真弓はあまり深く考えていなかったが、どこかで発散していたからだとやっと気がついた。

 菅野里香との体の関係がいつからあったのかわからない。

 もしかするとずっと二股されていたのかもしれない。

 

 頭の中であの時の二人の様子が何度も思い出され、静かな病室で真弓は声を出さずに泣いた。





 

 

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ