1.痴呆か記憶喪失か
「真弓っ!」
市ヶ谷真弓は後ろから呼び止める男の声を振り切るために、必死に自転車をこいだ。
産後半年も経っていない二十八歳には、なかなかしんどい。
しかし足を止めるわけにはいかない。
振り返ってはいけない。
自分は何も見ていない。
知らないフリをすれば幸せでいられるはず。
本当は立ち漕ぎをしたいところだが、胸元には抱っこ紐にすっぽりくるまれた生後五ヶ月の娘『麻央』がいるため、うっかり転ぶわけにいかない。
とにかく男の声を無視してペダルを必死にこぐ。
前方に見える交差点の信号は幸運にも青だ。
このままなら渡れる。
対面からは車が来るが、ウインカーが出ていないから直進するだろう。
このままのスピードで交差点を過ぎれば少し休めるかも。
後方の男は徒歩だ。たとえ走ったとしても自転車には追いつかないはず。
歩行者の信号が点滅し始めた時、真弓は交差点に入った。
よし、振り切った。
そう思ったと同時に、直進すると思っていた車がウインカーも出さず、突然自分の方に向けて曲がってきた。
あっ、と思った時には体の左を下にアスファルトに叩きつけられていた。
ぶつかる直前、右手で麻央を抱き込んだつもりだが、麻央は無事だろうか。
胸元にいる麻央の存在はわかるが、なせか真弓は目が開かず麻央を見ることができない。
『救急車!』『事故だ!』と叫ぶ人達の声が聞こえた時、『ふっ、ふぇ』と胸元から麻央の声が聞こえ、直後元気な泣き声が聞こえた。
良かった。とりあえず生きていてくれた。
そう真弓が安心すると、すうっと意識が遠ざかっていった。
「ねえ、ばあば、だいじょうぶ?」
真弓の意識が浮上してくると、近い場所からそんな声が聞こえてきた。
ああ、あの事故でどこかのおばあさんも巻き込まれたのか、と瞼を閉じたまま真弓は思ったが、それにしてはその声は自分に向けて発せられたように感じられる。
「大丈夫よ。きっともうすぐおっきするわ。また楓ちゃんのお話を聞いてくれるわよ」
「はやくおっきしないかなぁ」
真弓はそんな会話を耳にしながら、静かに目を開けた。
「あっ、ばあば、おっきした!」
「あっ本当だ。お母さん、大丈夫?私、わかる?」
わかる?と問いた方にゆっくり顔を向けたが、二十代半ばくらいの女性と幼稚園くらいの女の子がいるだけで、残念ながら真弓の知り合いでは無さそうだった。
「お母さん?」
その女性は訝しげに問いかけてくるが、そもそも真弓の子供はまだ生後五ヶ月で、自分とあまり変わらない年の子供などいるはずもない。
この女性は何を言っているのか、と疑問に思うと同時に、麻央は無事だったのかという焦りが真弓の中に湧き上がった。
「······あの······麻央は······娘は無事でしたか」
なんとか声を出したが、その女性は虚をつかれたような顔をして押し黙る。
その表情から、麻央は助からなかったのか、と嫌な想像をした真弓は起き上がろうと体に力を入れたが、直後、『まおって、ママだよね』という少女の声に驚き、少女を見た。
「のぎ まお。ママだよねぇ」
「う、うん。結婚して野木になる前は、市ヶ谷麻央だったよ」
市ヶ谷麻央は確かに真弓の娘と同じ名前だ。
しかしまだ五ヶ月のはずで、こんなに大きいはずはない。
目覚めたばかりで頭がまだ覚醒していないのに、さらにわからないことを言われた真弓は、『え?』と麻央と言う女性を見たまま固まった。
「もうすぐ、お父さんが戻って来るから。今、ちょっと売店まで飲み物を買いに行っただけだから」
麻央という女性は慌ててそう言って、チラチラとどこかを見る。
真弓がゆっくりその視線の先を追うと、そこには廊下へと続く扉があった。
「あっ、意識が戻ったって看護師さんに言ったほうが良いのかな」
女性は落ち着き無くそんな事を言ったが、直後にノックもなく扉が開いた。
「あっ、お父さんっ。お母さんが起きたよ」
「えっ」
二本のペットボトルを手に部屋に入ってきた男性は、すぐに真弓の近くにやって来て、『大丈夫か?』と真っ直ぐ真弓の目を見て確認してくる。
真弓はその男性をじっと見て、『涼介さんに似てるけど······』と呟く。
やって来た男性は真弓の夫『市ヶ谷涼介』に似ているが、この男性は白髪混じりで三十歳の涼介よりかなり年上だ。
だから夫のはずがない。
思わず呟いた自分の言葉を直後に心の中で否定したが、『そうだよ。真弓。涼介だよ』と泣きそうな顔で言う男性の返事に言葉をなくす。
若い女性は、『看護師さん呼んでくる』と言って部屋を出ていった。
涼介を名乗る男性が怖怖といった感じで真弓の手を握ってきたが、その様子を見ていた真弓はひどく驚いた。
自分の手を握られている感覚はあるのに、その握られている手は自分の知っている手ではなく、明らかにおばさんの手。
自分の手より生活感満載のその手を、男性は優しく握り、『気がついて良かった。無事で良かった』と何度も言う。
「じいじ、ばあばね、ママのことわかんなかったの。ボケちゃった?」
少女の言葉に男性は、『ばあばはね、事故に遭って今起きたばかりだからね、これから思い出すよ』と優しく答える。
その声は確かに真弓の夫の涼介だが、なぜいきなりこんなに老けてしまったのかわからない。
いや、自分も老けているようだから、この子の言うようにボケてしまったのか。
真弓は内心混乱していると、看護師を連れた女性が戻ってきた。
「ああ、目が覚めましたね。ご自分のお名前、分かりますか?」
「······市ヶ谷、真弓です」
「はあい、そうです。ご家族、わかりますか?」
「······ご家族?」
「ああ、ちょっと今、先生がいないんですけど、もうすぐ戻ってきますから、戻ってきたらすぐに診てもらいましょうね」
看護師さんの言葉に小さく頷くと、看護師さんは部屋を出ていった。
「真弓」
真弓は自分を呼ぶ男性を見た。
壮大なドッキリだろうか。
いや、芸能人でもないのに、こんなドッキリ企画なんて組まないだろう。
そんなふうに考えながら、またチラリと自分の手を見る。
やはりおばさんだ。
メイクでどうにかした感じでもない。
これは自分の手だ。
なんだかどんどん混乱していく。
本当にボケてしまったのだろうか。
真弓はこの状況に不安でいっぱいだった。
その後医師の診察をうけ、どうやら記憶が欠如しているか混濁しているか、だと説明を受けた。
「頭を打っていますし、以前の事故の時も頭を打っていたんですよね。因果関係はわかりませんが、慌てること無くゆっくりと静養していくうちに、徐々に戻るかもしれません。戻らないかもしれませんが······」
あまりにもサラリと言ってのける医師に、やはりドッキリかもしれない、と真弓は考えた。
しかしやはりおばさんの手を見ると、記憶喪失というやつかもしれない、とも思う。
医師の診察後女性と少女は帰っていったが、男性は介助用のベッドを借りて今日はここに泊まっていくと言った。
「真弓、今、西暦何年の何月何日かわかる?」
夕食を介助してもらった真弓だが、突如尋ねてきた男性の言葉に、『さっきも医師に聞かれたな』とまた今日の日付を口にした。
「今日は、西暦一九九八年、五月、えっと十七日」
「そうか。真弓はあの日で止まっているのか」
止まっているも何も、真弓にとってはついさっきの出来事で、でも目が覚める前に見た“涼介”と歳を重ねた目の前の“涼介”との違いには疑問だらけだ。
精神的におかしくなりそうだから、ドッキリならもう種明かしをしてほしい。
切実なその願いも、自称夫の言葉に打ち砕かれた。
「今年はね、二〇二四年。令和六年だ。天皇が生前譲位をして平成から令和になった」
「令和?」
「そう令和。今日は令和六年十一月三日だよ。ここに担ぎ込まれた原因について話すと、真弓は━━」
就寝時間になるまで、涼介は真弓が理解できるように、ゆっくりと説明した。
さっきまでいた若い女性は娘の麻央で、大学卒業してすぐ結婚し野木姓になった。
少女は孫の楓、三歳。
事故に遭ったのは今日、令和六年十一月三日の午前九時過ぎのこと。
午前中に楓の七五三のため、レンタルした着物を着付けしてもらう予定になっていた。
着物のレンタルショップで着付けをしてもらう予定で、店のすぐ近くまで涼介の運転する車で来たが事故渋滞にはまり、時間ばかりが過ぎていく。
このまま車が進むのを待つより、歩いて向かう方が早いかもしれない、ということで真弓と麻央と楓の三人は車を降りてレンタルショップへ向かうことになった。
この時、麻央の夫である『野木省吾』は、省吾の車で野木家の両親を迎えに行って、写真館で集合、その後皆で神社へ行くことになっていたため、その場にはいなかった。
『先に行ってレンタルショップにはすぐに来るからって言っておくから、楓ちゃんと慌てずにおいで』
真弓が麻央にそう言って、小走りで店の方に向かったが、二人と離れてすぐにマンションの敷地から出てきた車にはねられたのだと言う。
どうやら相手の運転手は、事故渋滞であることに気を取られ、安全確認をせず歩道を横切ろうとしたらしい。
前の車と後続車との間が少し広く空いていたため、車の鼻先を突っ込んで入れてもらおうとしたようだった。
『あの時、孫はすぐに来るからってお店に早く言わなくちゃって、それしか頭になかったんだと思うの。ほらお母さんって、こうと思ったらそれしか頭にない人じゃない?』
真弓が病院に運ばれた後で、麻央が涼介にそう言った、と涼介は介助用のベッドに座り、真弓を見上げながら話す。『スピードは出ていなかったけど、真弓は頭を打ったようでね。元々事故渋滞だったから救急車もなかなか来なくて······心配した』とも。
しかしどんなに説明されても、真弓には全く記憶に引っかからなかった。